新政府綱領八策とは慶応3年11月、土佐脱藩浪士の坂本龍馬が提議した、大政奉還後の新体制における八項目の綱領である。
この年の6月、海援隊士の長岡謙吉に起草させた「船中八策」に続き、坂本自らが起草した「新政府綱領八策」は以下の八ヶ条から成っている。
第一義
天下有名の人材を招致し、顧問に備ふ
第二義
有材の諸侯を撰用し朝廷の官爵を賜ひ、現今有名無實の官を除く
第三義
外國の交際を議定す
第四義
律令を撰し、新に無窮の大典を定む。律令既に定れは、諸侯伯皆此を奉して部下を率ゆ
第五義
上下議政所
第六義
海陸軍局
第七義
親兵
第八義
皇國今日の金銀物價を外國と平均す
右預め二三の明眼士と議定し、諸侯會盟の日を待つて云云。◯◯◯自ら盟主と爲り、此を以て朝廷に奉り、始て天下萬民に公布云云。強抗非禮、公議に違ふ者は、斷然征討す。權門貴族も貸借する事なし
慶應丁卯十一月 坂本直柔
この「新政府綱領八策」は、坂本が起草した原本が二通残っており、一通は国立国会図書館、もう一通は山口県下関市立長府博物館に収蔵されている。内容は、人材登用・信賞必罰・外交政策・法律制定・議会開設・陸海軍創設・御親兵創設・通貨政策の八つで、6月の「船中八策」を踏襲した内容となっている。
原本も写本も存在しない「船中八策」と異なり、この「新政府綱領八策」には原本が残っているため、坂本の考えていた政権構想を覗うことが出来る。おおまかな内容は「船中八策」と大差なく、差異としては政権返上即ち大政奉還に関する条項が削られている事と、末尾にある「◯◯◯自ら盟主と爲り」の一文が挙げられる。
「船中八策」と比較すると文体がやや簡素なため、より完成度の高い「船中八策」よりも前に成立したものではないかとする説がある。千頭清臣の『坂本龍馬』(大正3年)がそれで、千頭は現在「新政府綱領八策」と呼ばれている(つまりこの記事で取り上げている)文書を長岡謙吉が起草した「船中八策」であるとし、それを後藤象二郎が手を加えたものが現在「船中八策」と呼ばれている文書で、長岡版「船中八策」を坂本が清書したものが11月付の、この「新政府綱領八策」であるとしている。だが「新政府綱領八策」には大政奉還の条項が無く、これは10月に大政奉還が実現したためと考えられるため、この説の信憑性は低いと見られる。[1]
もう一つ目を引く部分として、◯◯◯と書かれた箇所がある。
ここには当然何者かの名前が挙げられるはずだが、見ての通り坂本は誰とは書かず、代わりに◯◯◯とだけ書いた。ここに誰の名が入るのか、何故伏せられたのかという点について研究者の間で長く推論がされており、「慶喜公」「容堂公」「大将軍」「内大臣」など様々な説が取りざたされた。
この点について高知県の青山文庫館長を勤めた歴史家の松岡司は、◯◯◯には「慶喜公」または「内大臣」ではないかと推測している。理由として、坂本が戸田雅楽(尾崎三良)に起草させた「新官制擬定書」に内大臣の項目があり、後年の尾崎の回想では、内大臣には慶喜をあてると話し合った事。幕閣の中に大政奉還を容認し、慶喜を諸侯の盟主に据えようという考えがあった事。幕臣の西周助が慶喜に対し、徳川氏が行政府の長と上院の議長を兼ねるという案を提案していた事。後藤象二郎が朝彦親王に対し、慶喜を議会の総裁にするつもりであると話している事。以上により、◯◯◯は慶喜の事であろうと推論している。[2]
また、歴史学者の松浦玲は、「新政府綱領八策」が複数存在する事に着目し、この文書は複数の勢力に回覧されたのではないかとした上で、◯◯◯の箇所については、立場の異なる人々が自由に読めるようにしたものであり、慶喜以外の人物、例えば山内容堂、松平春嶽、伊達宗城、島津久光といった名前を各々の立場から読み取れるようにしたのであろうと推論している。[3][4]
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最終更新:2024/04/25(木) 01:00
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