日露戦争 単語

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日露戦争とは、大日本帝国ロシア帝国の間で1904年(明治37年)から1905年(明治38年)にかけて行われた戦争である。

日露間の朝鮮半島満洲を巡る利権争いが原因で勃発、満洲朝鮮半島日本海樺太などを舞台に数多くの戦が行われ、最終的にアメリカ合衆国の仲裁のもと、日露両国はポーツマス条約を締結し講和。日本勝利という形で戦争は終結した。

日露戦争は近代日本が初めて西洋列強と戦い勝利した、更には近代ではじめてアジア人が西洋列強を退けた戦争であった。一方で、日本帝国仲間入りを果たし、本格的に大陸へ進出する契機になった戦争という意味でも、この戦争歴史的意義は大きい。

概要

当時の世界情勢

日露戦争の原因をめるならば、それは幕末ペリー来航にまで遡ることになる。

大航海時代から19世紀にかけて欧州の列強は世界中に軍を派遣し、植民地を作っていた。産業革命を経た西洋列強の軍事はかつての大オスマン帝国や清ですら敵せず、20世紀の頭には世界で列強の植民地になっていないのは、わずかにエチオピアタイ、そして日本だけであった。ペリー来航によって開をした日本は、その頃の世界情勢を知り、このままでは国家存亡の危機であると考え、多くの内戦を越えて明治維新を果たし、富強兵による近代化を進めた。

明治維新直後から、外交における日本の一番の関心は朝鮮半島にあった。朝鮮半島日本土が近く、そのため列強が日本に侵攻するときは半島を拠点にすることは確実であり、朝鮮半島をとられた場合日本土防衛が極めて難しくなる。こうした情勢から、「朝鮮半島日本の生命線である」という考えのもと、「朝鮮を武でもって開させるべき」という征論が唱えられるようになる。例えば、板垣退助などは朝鮮への兵による開を検討していた。しかし、新政府の内政も財政もまだ不安定であり、西郷隆盛ら反対も強く断念される(なお、西郷は自ら使節として朝鮮に赴くことを提案している)。しかしそれは飽くまでも先延ばし策であり、朝鮮日本の防衛にとってアキレスとも言える重要な地域であるというのは征論反対論者も肯定する事実であった。

朝鮮半島を巡る争い

同時に日本朝鮮に対して、近代化するように奨励していた。日本朝鮮兵しなくても朝鮮自身が近代的な防衛を持ち列強を退けることができればそれはそれでよかったのである。しかし、当時の朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮は清の属としての冊封体制から抜け出せ切れず、近代革を成功に至らせることはできなかった。

そこで日本朝鮮を清から独立させるべく外交をかける。明治9年(1876年)には、軍事背景李氏朝鮮に日修好条規(江条約)を締結させ、釜山などの三港の開港、領事裁判権、関税権の喪失、日本通貨の適用などを要した。この時点では清との冊封関係の解消までさせてはいないが、第1条に「朝鮮は自独立であり日本と対等のである」といった意味の一文が盛り込まれている。この条約は、日本もかつて列強と結ばされた不等条約である。朝鮮半島日本の防衛の必須地域とは再三述べたが、逆に言えば日本大陸進出の足がかりとしても半島は重要なであった。列強の強さのの一つは世界中に存在する植民地であることを学んでいた明治政府は、日本も遅まきながら植民地獲得に乗り出そうとして、いよいよ朝鮮に狙いを定める。

その後、日本1882年に午事変という現地日本人事件をきっかけに朝鮮半島兵する。朝鮮利権を巡り日清の対立は化し、1894年の東学党の乱、甲午農民戦争をきっかけに日清戦争が始まる。かつての大であった清朝であるが、中体西用(中身は中国、技術は西洋)といって近代化(変法自強運動)がいまいち中途半端であったことと、女族支配による民族の士気の低さが原因などで、日本清朝の軍閥が率いる北洋艦隊を打ち破って清に勝利する。下関で結ばれた講和条約(下関条約)では、まず李氏朝鮮との冊封関係を断ち切ることを清に認めさせる。この結果として李氏朝鮮大韓帝国名を変え、清から独立する。更に多額の賠償の支払い(2億両)と半島の割譲を認めさせる。しかし、不凍港をめて南下政策をとっていたロシアは、日本大陸進出を良しとせず、同様に日本に不を持っていたフランスドイツを誘って日本半島の返却を迫った。これが世にいう三干渉である。戦争が終わった直後であり疲弊した日本には3の要を退ける体力は残っていなかった。やむなく半島を返した日本では対露感情が急に悪化し、民の多くが臥薪嘗胆を誓った。

開戦に至る道のり

当時のロシア皇帝ニコラ2世が支配する専制君主制をとっていた。ニコラ2世皇太子時代に日本に来た時に現地の巡査に頭をりつけられた(大津事件)ことが原因で、日頃から日本人を「」と呼ぶなど反日感情を抱いていた。ロシアにとって喫緊の課題は、不凍港の獲得であった。極寒の地域にあるロシアにとって、でも凍らずに使える不凍港は国家繁栄のためには必要不可欠であったのである。19世紀の半ばには西側から南下政策をとり、トルコしてクリミア戦争等の大戦を何度か起こしたが、西欧に阻まれ今一成果をあげることはできなかった。そこでニコラ2世視線を東に移す。ロシアの大軍はシベリアから南に侵攻し、念願の不凍港ウラジオトクを獲得し、満洲の地域を得て満洲鉄道を走らせた。ロシアは更なる領土を獲得しようと、朝鮮半島の獲得をした。ここで同様に朝鮮半島満洲を狙う日本と対立するのは必然であった。

日本日清戦争後、国家をあげて軍事の強化に臨んでいた。下関条約で得た多額の賠償を全て軍事費につぎ込み、更に国家予算の多くを軍隊の近代化に注いだ。しかしそれでも日本ロシア差は大きかった。産業革命を経ずに軍隊と政だけ西洋を模倣して近代化を果たした日本には、それを支える経済が全く育っていなかったのである。植民地すら持たない日本経済は列強とべて余りに貧弱であり、鄙にいけば未だに江戸時代と何も変わらない農業国家であった。もしロシア戦争になった場合、あっという間に財政は尽きて、日本の誇る海軍は燃料を持たないの塊と化し、陸軍は敵に放つ弾もなく特攻せざるをえなくなる。

そのため当時の総理大臣である伊藤博文は、対露決戦を叫んでいた一般大衆と対照的に、ロシアとの開戦を底的に避けており、他の閣僚も程度の差はあれど対露戦争を回避すべく動いていた。一方のロシア日本との開戦は望んでいなかった。十中八九勝つとは確信していたが、後進国日本とはいえ戦えばロシアもある程度消耗することは確実であり、そうなれば今後他の列強との争い、特に当時最強国家であったイギリスとの戦いに不利に働いてしまうからであった。

しかしいくら両者が戦争を避けたがっていたとはいえ、ロシアの南下は止まることがなかった。ロシアとしては、ロシア戦争をするつもりがなければ戦争は起きないという日本軽視の姿勢を持っていたのである。日本にとってもロシアの南下が満洲朝鮮で止まるという保はなく、朝鮮半島を奪ったロシアが次は日本に手を出してくることは、想像に難くなかった。日本戦争を望む望まざるに関わらず、土防衛のためには日露開戦は不可避であると日本の閣僚達は既に思いはじめていた。

その上、日本にとって敵はロシアだけではない。三干渉に参加したフランスロシアと協商を結んでいたし、清もロシアと密約を交わしており参戦の可性もあった。そこで日本必死外交により当時、栄ある孤立として単独義をとっていたイギリスと同盟することに成功する。イギリスとしてもロシアの極東における南下は止めたかったのである。これが有名な日英同盟である。日英同盟イギリスの対露参戦の同盟ではなかった。日英同盟では、日本ロシア戦争状態になった場合、イギリス中立を保つこと。ロシアが2カ以上で日本戦争になった場合はイギリス日本側で参戦することが約束された。もちろんイギリスロシアと戦う意志はない。これはつまり日本ロシアの1対1をイギリスが保するという条約であった。

更に日本は臨時軍事費を確保するために日銀副総裁高橋是清などが欧を巡って外債の営業、つまり借の請願を行っていた。この活動は功を奏し、ユダヤ資本(特にクーン・ローブ商会。その他リーマン・ブラザーズなど)から資調達をすることに成功する。しかしこれは一方で、利子支払いの義務と共に、戦争責任債権者に負うことも意味していた。つまり戦争をはじめたとき、最終的に勝つだけではなく圧倒的に、しかも不敗のまま戦争を進めることを要されるのである。なぜならば、これらのユダヤ資本は、いうなればギャンブル日本勝利に賭けたということであり、日本が少しでも負けそうになればサッと資本を引き上げてしまう可性があったからである。このことは後の日露戦争での日本理攻めの遠因となった。

いざ開戦へ

下関条約で敗戦した清は国家予算の2.5年分にも匹敵する賠償の支払いに迫られた。しかし日本との戦費にすらイギリスフランスの借に頼っていた清国にはそんな余裕は到底なかった。このため清国だけでなく、租借地や鉄道敷設権、鉱山の採掘権を外に売り払いはじめた。これらの負担は民に重税という形でのしかかり、更に外の商品により内産業が衰退、また自然災害までが重なり、いよいよもって民は追いつめられた。こうして不を持った民たちはとうとう武器を持って立ち上がった。「扶清滅洋」を唱えた白蓮教を信仰する義和団が武装起し、現地外国人を襲いはじめたのである。これがいわゆる義和団事件である。当時の清の権者、西太后は義和団を支持し、日本イギリスアメリカフランスロシアドイツイタリアオーストリアに対して宣戦布告をするという暴挙にでる。当然各連合軍が清に上陸し、義和団はあっというまに鎮圧されて、清は賠償として軍事予算の12年分に相当する9億8000万両の支払いを命じられる。

義和団事件鎮圧後、各が軍隊を撤退させる中、ロシアのみ撤兵せず逆に満洲軍事占領してしまった。日本をはじめとする各はこれに抗議するも、ロシアは兵を下げることはせず、逆に清に迫り満洲占領の合法化を狙った。更にロシア日本に対して朝鮮中立化を提案し、両者とも朝鮮を保有しないという約束を結ぼうとした。しかし、何度も述べたように朝鮮日本の生命線であり、大陸進出の足がかりとしても、対ロシア戦争の際には前線基地として絶対に必要な場所であったので日本政府はこれを拒否する。そもそもロシアはこの時すでに「森林伐採のための作業員」と称して朝鮮半島に軍を進出させており、この約束は結ばれる前に破られていたのである。

その後交渉を続けるも上手くゆかず、日露の対立が極限に達した1903年には交断絶し、翌1904年にはとうとう日本宣戦布告を発することによって、ここに日露戦争が勃発した。

戦争の推移

日本が望むものは短期決戦であった。国債の発行によってある程度の予算は得たものの、戦争が長期化した場合、再び財政が底をつきてしまう。更にロシア艦隊(いわゆるバルティック艦隊)が極東に向かっているとの情報もあり、もしバルティック艦隊が来るまでに順艦隊を撃墜できなければロシア日本海の制権、つまり補給路を奪われることになる。そうなれば敗北は必至だった。よって日本の当面の標は制権の確保、すなわち順艦隊の殲滅であった。日本海軍陸軍の総をあげてこれに挑むことになる。

海軍順口で順艦隊を外に出さないよう閉塞戦を行い、陸軍江、州・南山と戦闘を進め多大な犠牲を出しながらも勝利をもぎ取っていった。戦争中盤には東郷平八郎率いる海軍戦で、ウラジオトクへの転進を試みたロシア順艦隊をほぼ撃墜することに成功した。一方の陸軍は日露戦争の山場となる順攻囲戦に挑んでいた。コンクリート塹壕に守られた永久要塞への攻撃は中世の戦ではあり得ない程の犠牲者を日本に強いた。木希典が揮する日本陸軍ロシア機関銃の前に死体の山を築くことになる。凄まじい攻防戦の果てに木希典は順の要所である203高地を占領し、順に日本の旗を立てることに成功する。

余談とは言えないかもしれないが、日露戦争が始まった当初に韓国中立地帯宣言を発する。しかし、戦争中で軍事拠点を確保したい日本には当然の如く無視されて、韓国は後の日韓併合の第一歩となる日韓議定書を締結している。土保全と独立の維持のためには相応の軍事が必要であるという歴史の好例である。

順艦隊が滅び、陸で順が陥落したことにより、日本の優勢は決定的になった。この時、既にアメリカは講和に向けて外交活動を始めていたが、ロシアはそれに応じなかった。まだロシア艦隊バルティック艦隊が残っているというのがその理由であった。もちろんバルティック艦隊は日本にとって最も憂慮すべきことである。陸軍順を落とした勢いそのままに北上し、奉まで陥落させた一方で、海軍ロシアバルティック艦隊との決戦に備えていた。そして来る1905年5月27日日本海にて戦艦三笠に搭乗した東郷平八郎バルティック艦隊と相見えた。有名な「丁字戦法」は実際には直前で中止されているが、日本軍電や伊集院信管など当時最先端の技術を駆使してバルティック艦隊を殲滅させた。

こうして日本アメリカの仲介を通じてロシアとポーツマス条約を結び、日露戦争は終結した。

戦後と戦争の影響

ポーツマス条約では日本朝鮮半島大韓帝国)における権益の優越と、ロシア軍満洲からの撤退を認めさせ、さらに樺太の南半部を獲得した。しかしまだ余の残るロシアは賠償の支払いを拒否し、対照的に戦争を続ける余のない日本はこれを飲まざるを得なかった。このため多大な犠牲を出しながら賠償をとることが出来なかったことに民が激怒し、日焼き討ち事件などが発生した。

大方の予想を裏切った日本勝利は全世界を驚かせた。西洋列強は素直に日本の健闘を讃えながらも、はじめて列強に食い込んできた日本を脅威とみなす禍論が起こった。一方で列強の食い物とされていたアジアでは、アジア人は白人に勝つことが出来るという希望を与えた。トウゴウやノギの名前海外でも流行し、アジア解放が叫ばれることとなる。

戦争に負けたロシアは再び西での南下政策に切り替え、汎スラブ義というナショナリズムの高まりとともに第一次世界大戦へと突入するも、2月革命によってロマノフロシア帝国は滅んだ。日露戦争を戦ったニコラ2世もこの革命で命を落とすことになる。

勝った日本戦後韓国を併合し大陸への足がかりとした。後に満洲中国にも進出し植民地化したので、大支配からの解放めていたアジア人達の希望を打ち砕くこととなった。極東で勢を拡大しつづける日本に対してアメリカをはじめとした列強は脅威を抱き、後々の太平洋戦争へのを辿っていくことになる。

日本の勝因

ロシアとは圧倒的な差がありながらもなく日本は勝つべくして勝利を掴んだ。これには様々な理由がある。

まず第一に兵士の士気が違っていた。日本の場合、日露戦争は正に国家存亡の時であり兵士はもちろん全民の間にロシアつべしの気運が高まっていた。GNPの60%近い軍事費は国債の発行だけではなく民が体を削り血を吐きながら捻出したであり、田舎ではを売るなどの悲劇まで起こしながら獲得したであった。戦地では兵士たちがガトリングガンに向かって決死の突撃をしていた。明治維新が育んだ、明治天皇への信仰というのも無視はできない。

一方でロシアの兵隊は元農コサックロシア帝国に占領されたポーランドの住人などが流であった。彼らからすれば日露戦争なぞ一文の得にもならないし、皇帝への敬意どころか帝国支配への憎しみを募らせる者が多かった。産業革命を経ても多くの民は豊かにならず、むしろ貧富の差は大きくなっていく一方であった。貧困は当時既にを伸ばしはじめていたマルクスレーニン義をはじめとした革命の数を増加させていった。そしてロシア軍抵抗市民撃するという血の日曜日事件をきっかけに革命が勃発する。戦艦ポチョムキンでは兵士の叛乱が起こり、各地で革命があがっていた。これをロシア第一革命という。バルティック艦隊が敗北してもロシア戦争を続けることは可であったが、講和を結んだのはこの革命が大きかった。

更にロシア帝国は硬直化した官僚制であり、戦地での柔軟性に乏しいことが様々な局面で不利に働いていた。加えて世界日本の味方をしたということも大きい。フィリピンを獲得したアメリカ中国を占領するイギリスフランスドイツロシアの南下政策を嫌がっていたので、かませ犬としての日本応援していたのである。もちろんただ応援するだけではない。ロシア艦隊であるバルティック艦隊はアフリカからインドを経て極東に向かう時に、寄った港であまり厚遇を受けることはできなかった。日英同盟を結んでいるイギリスはもちろん、満洲で敗戦を重ねるロシアを見限りはじめていたフランスも、戦艦の命ともいえる石炭の供給を渋ったり、港に船舶を泊める期間を制限していた。これらの妨工作によって、バルティック艦隊が日本海に到着した時には、全体がかなり疲労していたといえる。

他にも、ロシアに占領されていた地域では政の終結を願って日本勝利を願っていたし、列強の植民地にされていたアジアでは白人支配を打ち破るために日本応援していた。

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