晋王朝 単語

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シンオウチョウ

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晋王朝とは、中国にあった王である。

  1. 時代の(前11世紀〜前376年)
  2. 司馬炎が建てた王。時代によって西(265年〜316年)と東317年〜419年)に分かれる。本稿で解説
  3. (883年〜923年)。沙族の建てた政権、五代のひとつ、前とも呼ばれる。後唐(923年〜936年)の旧称。
  4. 。五代のひとつ(936年〜946年)

本記事では2の解説する。

概要

始祖は司馬炎武帝)。265年に司馬炎皇帝から位を譲され、316年に匈奴と羯によって一度滅ぼされ、以後は司馬江南で東を起こす。

時代を終わらせた王ではあるが、三國志演義の知名度の割にはあんまり知名度は高くないかもしれない。最近の三国志ゲームだと勢の一つとして出て来ている。

建国と統一

時代の末期の実権は司馬懿とその子の司馬師司馬昭、孫の司馬炎司馬三代に握られていた。249年、司馬懿クーデーターを起して政治握し、子の司馬師の時代には皇帝の首をすげ替えて、司馬昭皇帝を殺して王を名乗った。更に司馬懿の孫の司馬炎は265年に、とうとう譲を受けて皇帝につき(武帝、ここにが滅んでが建された。

武帝皇帝に即位した翌司馬氏の一族から27人を南、成都、河間、楚などの々の王に就かせ、皇室屏(守護)としした。これは司馬一族の下を確固たるものにする的があったが、後に王の分散を招き、かえってを弱める結果になった。これは劉邦が建した前漢でも同じ現が見られる。

武帝で始まった官吏登用システム九品中正(九品官人法)を継承した。九品中正とは地方で評判のいい人物を選び一品から九品までの九段階で序列をつけて中央政府推薦するシステムである。しかし、これは長く続けると推薦される一族が段々と固定化され、その権地方貴族を生み出していった。地方では貧富の差が広がり、「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という言葉も生まれた。そのため南北朝時代貴族政治の時代と呼ばれ、貴族の勢いは大唐が滅びるまで続くことになる。

また280年には武帝の財政を豊かにするために今までの屯田制をあらため、占田法課田法を取り入れた。これは、土地の広さに制限を加えて田祖や兵役を課した占田、の土地を貸し与えて税収の確保を図る課田を実施し、全ての土地はのものであることを確認することが的であったのだが、実際には大土地所有者を押さえることが出来ず、土地を失って流民となる農民が続出していた。

280年、武帝は諸王に命じて20万の大軍を派遣しての都、建業を落としてを滅亡させ、後漢滅亡以来60年ぶりに中国を統一させた。

混乱と西晋の滅亡

しかし下を統一した武帝はその後、政治を怠って浸りの生活を送り、一方で疑心暗鬼の病に陥り、人気のあった斉王で司馬攸(しばゆう)に無理難題を押しつけ、また南の司馬亮にも謀反の疑いを持つなど、宮廷は混乱した。当時武帝に仕えていた七賢人の一人である王戎浸りの放楽生活を送り、それをとがめられると「皇帝と同じことをして何が悪い」と言い返したと言われる。この時代、王戎の他にも現実政治から離れ文学芸術り合う清談が流行していた。

290武帝は体を壊して亡くなり、恵帝が後を継いだ。当時、日照りによる作で飢饉が発生したにもかかわらず恵帝は賈皇后の言いなりになり、毎日遊びほうけていた。恵帝の妻、賈皇后の一族は武帝の妻の皇太后の一族と対立し、全八王を借りた賈氏一族は氏一族を滅ぼすも、実権は南王の司馬亮に握られた。

こうして290年から始まった朝廷の内乱は各地の八王を巻き込んで以後16年に渡って続いて行く。これが八王の乱である。

291年には楚王、司馬瑋(しばい)が司馬亮を殺し権を握ったと思えば、300年には王、司馬倫が賈氏一族を滅ぼし、更に翌年には斉王、司馬冏(しばけい)が司馬倫を殺し、更に更に翌年には司馬冏も長沙王、司馬乂(しばがい)に敗北する。休む間もなく同年司馬乂成都王、司馬顒に討たれ、一方で303年河間王、司馬顒(しばぎょう)が長安で実験を握ったが306年に東海王、司馬越敗北する。結局八王の乱東海王の司馬越勝利して、懐を即位させて乱は終わった。

しかし、八王の乱で各王が北方民族を借りたことがきっかけで、北方民族中原への南下を許してしまった。その中でも最もがあったのは南匈奴劉淵であった。304年、劉淵王を称して、308年には山西省に(後の前)を建した。311年に東海王、司馬越が亡くなると、匈奴と羯の連合軍はの都の陽を攻め(永嘉の乱、懐は殺され、316年には劉淵息子聡は長安に攻め入って愍(びんてい)を捕らえ、ここには滅んだ。

東晋

の皇族、司馬江南に逃れ、浪邪王氏の協の元、317年、首都であった建康で元として皇帝の位につき東を建した。司馬華北回復のために江南族と上手く付き合う方針を固め、また族も司馬を迎え入れた。この政権は亡命政権であったため、「王ととが下をともにす」と評価されるほどに皇帝が弱く、政情が落ち着くと司馬は側近達のを強めることによって族を抑えようとしたが、彼を補佐した王(おうとん)に反乱を起こされてしまい、詫びを入れてしまうほどだった。2代の明は名君で王の乱を鎮圧することができたが27歳の若さで病死。それ以後は皇帝は半ばお飾りと化し、重臣達が政権を運営していくこととなる。

一方華北の地は八王の乱永嘉の乱と続く戦乱によってすっかり荒れ果てていた。ただでさえ洪水日照りイナゴの発生などにより苦しんだ農民達は当初、塢と呼ばれる土塁で自衛をしていたが、やがて異民族の侵入を受けるようになりやがて食べ物めて江南へと移住した。彼らは大河長江の恩恵を受けて、豊な暮らしを営むことができた。

の時代、朝廷貴族によって様々な文化開いた。353年、会稽の名勝の亭で、東地方官の王羲之が謝安、許孫綽(そんしゃく)らを招いて宴を催した。この時に行われた曲の宴は日本でも奈良平安時代貴族真似たとされる。曲の宴とは、に杯を流し、の前を通過する前にを作り、詠み終わったらを頂くという趣向である。王羲之は書とも呼ばれるほどの筆の名人であり、この宴で書いたものがかの有名な亭序である。

の軍はいくつかの戦争を経て、首都近郊に駐屯して北の守りを固める北府軍と、荊州に駐屯として西の守りを担う西府軍に集約されることとなる。この二つの巨大で同格の軍隊が微妙な均衡を保つことによって東は支えられていたが、桓温が台頭して西府軍を握すると東は簒奪の危機にさらされることとなる。
桓温はで政権を築いていた成を滅ぼし、一時は陽も占領するなど実績を上げた。北府軍が北伐に失敗したこともあって桓温の名は巨大になっていく。最終的には簒奪一歩手前までいったが宰相の機転によって失敗、その直後に病死したので危機は去ったかのように見えたが、もう一つの危機が迫っていた。

五胡がそれぞれの王で争っていた華北では前が370年に前、376年には前拓跋氏による代を滅ぼして華北を統一した。やがて前は東に90万の軍勢を率いて攻めて来たので、東の宰相、謝安は謝石、謝玄に8万の兵を与えてでこれを迎え撃った。しかし、前の軍は様々な民族の混成軍であったためまとまりが悪く、先敗北すると残りの軍勢も潰走してしまい、東大勝利をおさめる。これがの戦いである。この後、前の各部族は独立し、再び華北は分裂状態に陥った。そのため東は安寧を手に入れることができたが気が緩んだのか一気に堕落してしまう。

謝安の死、孝武帝が冗談をに受けた妃の布団蒸しによって殺され、一切の意志表示ができななかったといわれる重度の知的障害児の安が即位すると東社会不安に襲われることとなる。その不安につけこむ形で五斗米道の孫恩が反乱を起こす。鎮圧はされたものの好機とみた桓温の息子で西府軍首領の桓玄が挙兵、北府軍の之を味方につけることによって易々と首都に入した桓玄は政敵や之を粛清、やがて安して自ら位についた。
が、あまりにも性急だったため北府軍の生き残りであるが挙兵すると打ち破られて敗死。裕が安を復位させることよって404年に再されるが、、実権は裕に握られていた。裕は孫恩の残党である循の一党を覆滅、南や後といった々を滅ぼすことによって名を高め、実績を積むと安を殺して、恭を擁立、420年にその恭から裕は位を譲され、(南)を建。ここに東は滅んだ。

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