「最上義光」(もがみ よしあき 1546 ~ 1614)は、山形県の戦国大名。
羽州探題の名門ながらも衰退していた最上家を、戦国乱世の中で57万石まで押し上げた名将。
一揆も起きない善政を敷き山形の繁栄の基礎を築いた仁君。戦場では刀の2倍の重さの鉄棒を振るう勇将であり、同時に謀略・調略・説得と言った戦わずして勝つ知略を駆使した。「羽州の狐」「虎将」の異名を取る。また山形城下に桃山文化の花を咲かせ、細川幽斎に次ぐ戦国第二位の248句の連歌を残した文化人でもあった。
大河ドラマ「独眼竜政宗」で伊達政宗の敵役として描かれた為に、一般的にはダークな謀略家というあまり良くないイメージが強い。実際には、家臣や家族を思う心と敵にも寛大さを示す器量を併せ持つ情に篤い人物であり、ドラマ内でも家族愛の強い描写などはちゃんとあったが、やはり主役の政宗を苦しめる役回りだったので視聴者への悪印象は避けられなかった。
ネットでの愛称は「鮭様」「陰陽師」「もがみん」「シスコン」「FOX」等。
最上家はもともと奥州探題・斯波氏の一族で、羽州探題を務めて「御所」の敬称を使われる名門だった。しかし9代当主・最上義定が伊達稙宗に大敗を喫して、伊達氏に臣従する事となった。そして義定は後継者無きまま没し、後を2~3歳だった最上義光の父・最上義守が継ぎ、伊達氏の家督争い「天文の乱」に乗じて伊達氏から独立するまでに回復した。しかしこのときはまだ、勢力を拡大する為の侵攻が行える自力が無い状況だった。
義光はそういった斜陽の最上家10代当主・最上義守の嫡男に生まれた。5~6歳児の頃にすでに12~13歳に見られる恵まれた体と、16歳で200キロ近い大石を持ち上げたと言われる怪力の持ち主だったと言われ、15歳で元服した際には、足利義輝から「義」の字を拝領して最上義光を名のった。
しかしその馬鹿力ぶりを「こんな息子で大丈夫なんだろうか」と心配してしまった親父・最上義守と家督を継ぐ際に一悶着があったらしい。ここでは重臣・氏家定直により、無事家督を継承した。
最上義光が家督を相続した直後の最上家は、同じ最上一族である天童氏ら多くの支族が従わず、支族が最上本家を支える目的で周辺に配置されて事もあって、周辺を敵に囲まれた四面楚歌な状況だった。
特に天童頼貞は、
今更義光に従う謂われはない
と言って従わず、伊達家に敗れて落ちた威信を取り戻す必要があった。
しかし遠征する兵力を集める力もなかった為、まず最上義光は出羽統一の第一歩として内政を重視して力を蓄える事にした。具体的には
といった、その後も含めて活発に行われた最上義光の内政事業により、最上家は力を蓄えた。「東の酒田、西の堺」とまで言われた交易港・酒田の基礎は最上義光によってつくられたものである。特に領民に対する寛容な善政を敷いた為、最上義光が山形を治めていた間には一揆が発生した記録が無いと言われている。
同時に、中央で絶大な権力を有していた織田信長に謁見して「最上出羽守」に任命されるように働きかける等、名目上の威信を取り戻す事にも尽力した。
無論、相手も内政事業による結果が出るまでまってくれるわけもなく、軍事的な対応も迫られた。これに対し最上義光は、
と、謀略・調略・説得・降伏勧告・敵陣営分裂といった戦わずして勝つ道を選んだ。
直接的な兵力の衝突を防ぐことにより
といった内政の充実を促進する効果があると考えたと思われる。
戦わずして勝つ道を選べたということは、逆に言えば義光がそれを可能にするほどの人物だったということでもある。つまり調略に応じて内通したり、逆襲され滅ぼされるリスクを承知で反乱を起こし旧主を倒そうとしてまで義光につこうと思わせたということだ。他にも敗走させた敵は追わず、
大将と士卒は扇のようなものであり、要は大将、骨は物頭、総勢は紙だ。
どれが欠けていても用は為さないのだから、士卒とは我が子のようなものだ
と言う程の寛大な性格もその一因だった。
謀略ではどうにもならない相手に対しては、
といった実力行使に出ることもあった。側室に娶った娘が死んで同盟関係が解消され、天童頼貞の後を継いだ天童頼久を攻めた際は、東北の剛力王・延沢満延によって敗れた。しかし力こそパワー大好きっ子だった最上義光が、延沢満延の嫡男に娘を嫁がせる事と、天童頼久を殺さない事を条件に味方に引き入れる事に成功し、延沢満延を引き抜かれて「天童八楯」が崩壊した天童頼久は、伊達氏の元へと頼って落ちのびた。無論この際も追手を差し向けたりはしていない(延沢満延との約束もあったが普段からそうしている)。
引き抜かれた延沢満延は、最上義光が剛力ぶりを試そうとしたらつかまっていた木ごと引き抜くイベントを発生させる等しながら重用された。
伊達政宗が、最上義光の正妻の実家である大崎氏の大崎義隆を攻撃した際は、大崎氏の援軍としてはせ参じて伊達政宗を破った。
逆に伊達政宗が山形に攻め込んでくると、伯父と甥の決戦に心を痛めた妹で伊達政宗の母・義姫が、輿にのって両軍の間に割って入り、両軍の進撃を止め、再三の立ち退き要求にも動じず、和議を結ばさせて両軍を撤退させた。
対峙中で最上義光が動けなかった際に、背後から上杉景勝配下で追放した大宝寺義勝の父・本庄繁長の攻撃をうけて、せっかく手に入れた庄内地方を奪われた。
直江兼続が石田三成を通じて豊臣秀吉と交渉し、最上義光も徳川家康を通じて領地返還の交渉を豊臣秀吉におこなったが、結局、庄内は取り戻せなかった。
庄内地方を手に入れた上杉景勝だったが、最上義光が統治していた時代よりも重税をかけた為、最上義光時代には無かった一揆が頻発した。
時の権力者となった豊臣秀吉が小田原征伐の為に関東に進軍した際に、父・最上義守を亡くした最上義光は、徳川家康らを通じて事前交渉し、
遅参を御朱印状で認められている
と許可を得たうえで、父の葬儀を盛大におこなった後、伊達政宗よりも後に小田原に参陣した。
事前交渉は事実だったようで、伊達政宗の遅参は改易されかねない危機に直面したが、最上義光にはそういった話は出ず、逆に名門意識から参陣せずに改易された正妻の実家・大崎氏の旧臣達の多くを自らの配下に加えた。
奥州仕置においては豊臣秀吉の軍として参加した。一揆軍を倒した他、九戸政実討伐に赴いた徳川家康に、次男の最上家親を小姓に差し出したり、山形城に立ち寄った際に娘の駒姫を見染めた豊臣秀次に対して、顔も合わせていない間柄の愛娘を渋々差し出したり、三男の最上義親を豊臣秀吉の家臣にしてもらう等して、24万石とも言われた領地を安堵され、奥州仕置の後に発生した改易の嵐の中を生き残った。
しかし、次男を徳川家康の小姓にした事と、愛娘を豊臣秀次に嫁がせた事は、最上義光の人生に大きな暗い影を落とす事件に発展する。
朝鮮出兵時には名護屋城に待機する等、豊臣秀吉に従っていた。しかし愛娘の駒姫を豊臣秀次に差し出していた事から、秀次事件の際に伊達政宗と共に疑われて謹慎させられる等、豊臣秀吉に対して絶望しはじめ、旧知の仲であった徳川家康に近づき、慶長大地震の際には、秀吉より先に家康の元へと行き、秀吉が開いた茶会では個人的に家康を警護する等した。
豊臣秀吉が没すると、義光は徳川家康による上杉景勝討伐に参加した。そして徳川家康が石田三成に対抗する為に関ヶ原を目指す中、メインの相手を失ってやる気が失せながらも猛攻をしかけててきた上杉景勝により、窮地に追い込まれる。しかし長谷堂城の戦いで、志村光安や鮭延秀綱や楯岡満茂らが奮戦して上泉泰綱を討ち取る等活躍し、慶長出羽合戦と呼ばれた戦いで上杉軍の侵攻から山形を守り抜いた。
このとき最上義康を使者に伊達政宗に援軍を要請した。しかし伊達は最上義光の援軍に出陣したようとしていた南部利直に対して、和賀忠親を使って一揆を扇動するといった妨害工作をしていたりする。政宗マジDQN。
関ヶ原の戦いで西軍が敗れた知らせを受け、上杉景勝は撤兵しようとする。いつもなら追わないはずの最上義光が、まるでこれまでの恨みはらさんとばかりに
大将が退却してどうやって敵を防ぐのか
として撤退する上杉軍に背後から攻撃を仕掛け、殿軍を務めた直江兼続を後一歩まで追い込んだ。大ふへん者前田利益らの活躍によって敗れ、直江兼続を取り逃がしたものの、本庄繁長に奪われたままだった庄内地方は無事取り返し、最上義光は、現在の山形全土を含む57万石の山形藩初代藩主となった。
1611年には、朝廷より従四位下・左近衛少将と、念願の出羽守に叙位・任官された。
しかしこの後も最上家は安泰ではいられなかった。徳川家康が小姓にしていた次男・最上家親をお気に入りにしていた事や、江戸幕府との今後も考慮して嫡男の最上義康を廃嫡した。その後、最上義康は高野山に入る旅の途中で何者かに暗殺される悲劇に見舞われた(資料によっては、最上義光の手によるものであるとの説と、次男の最上家親を担ぐ家臣によるものとの説があるが詳細は不明)。
駿府城を居城とすることにした徳川家康への改築祝いに駿府を訪れた最上義光は、すでに病を抱えた身で、江戸に昇って徳川秀忠に謁見し、再度駿府の徳川家康の元へと訪れて、最上家の今後を頼み、山形城にて享年69歳で没した。
残念ながら最上家は、最上義光の後を継いだ次男・最上家親が早世し、孫の最上義俊が後を継ぐと、家臣の統制がうまくいかなくなり、最上義光の四男・山野辺義忠を担ぎ出そうとする家臣が幕府に対して讒訴する等した為、家中不届きを理由に改易され、同時に最上義光の五男・上野山義直と六男・大山光隆も、預け先で切腹した。
しかし、斯波家の流れを持つ最後の家であったことで断絶は免れ、近江国大森(現:滋賀県東近江市)に1万石を与えられるが、のちに5千石に減封され、交代寄合の家格を持つ旗本として残されることとなった。
山野辺義忠を担いだ代表格である鮭延秀綱は、主家を滅ぼしてしまった事を後悔した為か、土井利勝に召抱えられた際の禄はすべて旧最上家臣に渡し、さらには意図的に鮭延家を断絶させた。
最上義光の男子で唯一生き残った山野辺義忠は、最上家改易後に水戸藩の家老となった。
TVドラマ「水戸黄門」の登場人物・山野辺兵庫のモデル山野辺義堅は、山野辺義忠の子で、最上義光からすれば孫になる。
大正13年。正四位を追贈された。
最上義光が、大宝寺義氏を家臣を裏切らせて自刃させ、後を継いだ弟・大宝寺義興を攻撃して自刃させ、養子の大宝寺義勝を追放。海につながる庄内を手に入れ
念願の庄内を手に入れたぞ!大好物の塩鮭が自由に食べられる!!
と喜んだ。家臣への手紙にもそこの事を喜んだ記録が残っているらしい。
後に大宝寺義勝の実父・本庄繁長に庄内を奪われた際は、豊臣秀吉と交渉してまで取り替えそうとしたほどである。豊臣秀吉の時代には、上杉景勝が秀吉のお気に入りだった為に取り返す事が出来なかったが、秀吉が没すると、関ヶ原の戦いで旧知の徳川家康について戦った功績により取り戻せたのだった。
べ、別に、鮭が食べたかったからじゃないからね!
小野寺氏の家臣・鮭延秀綱を引き抜いて、重臣として重用したのは姓に「鮭」が入っていたからというわけではない。決してない。多分。
現代では、「独眼竜政宗」等の伊達視点での腹黒いボスキャラとして描かれる影響や、江戸時代初期に最上家が改易されて記録があまり残っていない事もあって、敵キャラまたはダークヒーロー的な扱いを受けている。一方で最上家改易以降の山形は、大名の流刑地の様な状況で大きく発展することがなく、今でも最上義光が行った工事の影響が残る状況であり、山形県では「仁君」として評価されている。
※最上義光の通称のひとつ「虎将」とは、官位の近衛少将の漢名・虎賁郎将からとったものである。
戦国時代の人物の多くは、ルイス・フロイスの日本史に記録されている人物以外は、基本的に名前の正確な読みが不明な場合がほとんどである。そういった中でも「最上義光」と書いて「もがみよしみつ」と読まない理由は、妹・義姫宛の手紙に、ひらがなで「よしあき」と書いてあったからである。
この手紙が発見されるまでは「よしてる」や「よしみつ」と呼ばれていた。
最上義光は、当時ではとても恵まれた体格で膂力に優れる猛将型の体躯だった。
そんな最上義光が16歳の時、父・最上義守と共に蔵王温泉に湯治に行き、鹿狩をした後に数十人の盗賊による襲撃をうけた。
最上義光は、二人に重傷を負わせて一人を刺殺し、その武勇を賞した父・最上義守より名刀・笹切を授けられた。
しかしこの時に見せ付けたナチュラルパワーを恐れた父・最上義守が、最上義光を疎んじるようになったとする話もある。
また蔵王温泉には、湯治の際に家臣と力比べをして持ち上げたといわれる200kg程の重さの大石が「義光公の力石」として残っている。
ちなみにこの力石伝説にはおまけがあり、「俺より強いやつに会いに行く」と称して武者修行のために家出してそのまま単身上洛したなどという逸話もあったりする。(ただしすぐ隣の越後には軍神とよばれるあの人が・・・・)
まあ、上記の力石伝説や武者修行は伝説の域を出ないが、とりあえず義光が武芸に長けていたのは事実であり、同じく武芸マニアであった徳川家康との友情も、そうした辺りがあってこそと言えなくもないのかもしれない。
最上義光は、戦国時代でも有数の文化人の一人であった事実がある。
元々の出自が、奥州探題・斯波家につながる羽州探題で「御所」の敬称を使われる家柄だったこともあり、文化人としての面が多く見られる。父・最上義守と共に、京都に上洛し、その際に学んだ「源氏物語」や「伊勢物語」といった古典にを愛読し、「源氏物語」については、一花堂乗阿の指導を受け、果てには山形に呼び寄せて、家臣にも指導してもらった上に、自身は切紙(免許状)を授けられる等した事から、授業料代わりに、食べきれない程の食料を渡していったといわれている。
また、美術品の蒐集も趣味としており、多くの絵巻物や陶器を収集していたと言われ、山形城下を整備した際は、東北の地に桃山文化の華を咲かせた。
そして最上義光は、連歌の才に優れ、
梅咲きて 匂い外なる 四方もなし
等の名句を残し、
といった功績を残している。
文書面に秀でていた事から、大名の多くが抱えていた代筆業「右筆」を、晩年に体調を崩して筆をとれなくなるまで用いなかった。
ちなみに伊達政宗も負けず劣らずの優れた文化人だった。東北の大名は中央ではどうしても田舎者扱いされてしまうため、嘗められないようにという側面もあったようだ。
最上義光は、妹で鬼姫とも呼ばれた烈女・義姫を大変かわいがったと言われている。
伊達輝宗に嫁いだ義姫からは、情報戦の為のやりとりをしていたとされ多くの書状を送っている。その中には愚痴っぽいことを長々と書いていたりするほか、
さてもさても御ねんころに候て、一度御めにかかり、そらもまこともかたり申度候
といったやさしい文面で始まる手紙等が残っている。当時すでに二人とも四十代であることにつっこんではいけない。
伊達政宗が大崎義隆との合戦に敗れたのを好機とばかりに、包囲網を形成して激突した際には、義姫が両軍の間に輿を割り込ませて、兄・最上義光と息子・伊達政宗に和睦するように説得し、自身は輿にて戦場にとどまり続けた。
妹の身を案じた最上義光が、子供達をつれて輿に近づくと、叔母に懐く子供達の姿に号泣した最上義光は、伊達政宗と和睦して引き上げた。
後に義姫に送った手紙には、「あの時は妹を思う気持ちから和睦したのではない」と書かれている。べ、別に妹のためなんかじゃないんだからね!
豊臣秀吉の奥州仕置の後に、仁賀保挙誠や大井満安ら由利十二党が最上義光の配下に加えられた。
最上義光が、とりまとめに苦慮していたところに、由利十二党より「大井五郎と言う剛力の者が横暴で困っているから討ち果たしてほしい」と頼まれた。
これを受けて義光は大井五郎を山形城に招いて暗殺しようとした。しかし大井五郎の5~6人前の食事や鮭1匹をまるごと平らげる大食いっぷりに感動してしまい、暗殺計画を打ち明けた上に、困った時はいつでも頼れば良いと約束して、褒美を持たせて無事に帰したといわれている。
最上義光の重臣・鮭延秀綱の家臣・鳥海勘兵衛が、最上義光の正室の侍女・花輪に一目惚れし、密かに恋文のやりとりを重ねていたことが発覚した。
最上義光は、鳥海勘兵衛と花輪に死罪を命じるが、鮭延秀綱の諫言により、逆に花輪を鳥海勘兵衛の妻として正式に娶らせた。
その後に発生した関ヶ原の戦いに関連する、上杉景勝軍との長谷堂城の戦いの際に、鮭延秀綱は同僚の志村光安と共に奮戦していた。ここで窮地の鮭延秀綱を鳥海勘兵衛が助け、鳥海勘兵衛自身は討ち死にした。
後に、鳥海勘兵衛の遺書に、妻・花輪との喜びの日々がつづられ、
この御礼には命をもって報いるしかない
と記されていた。
妻の花輪も、鳥海勘兵衛の葬儀が終わると自害して果て、その話を聞いた最上義光は号泣し、一度は処罰しようとした自分を恥じて鳥海夫妻を手厚く弔った。
最上義光は、伊達稙宗が定めた分国法「塵芥集」を参考にしたとされる掟を定めた。
特に騙まし討ち等の卑劣な行為を行うと死罪にするとある。「騙まし討ち」ってところが「お前が言うな」的印象を持つ人がいるかもしれない。しかしその内容は領民を思い、質素を奨励し、不必要に殺戮しないことを旨とする、至極まっとうなものとなっている。
義光の後継者は次男で徳川家康の小姓として気に入れられていた最上家親と決まった。この事から、嫡男最上義康は高野山にはいるによう父から指示され山形を離れた。
しかしその旅と途中、最上義康は何者かに暗殺されてしまう。「親子の仲があまりよくないので和解したい」と記された遺品の日記を目にした最上義光は、号泣して息子の死を嘆いた。
一説によればこの暗殺は、最上義光が最上義康を廃嫡した上で暗殺したとされているが、確実な史料がないため否定されている。
また、最上家親を後継者にしようとする里見民部による諫言が過ぎて、徳川家康に最上義光がそのことを愚痴ったことが遠因で、暗殺も里見民部が計画したとする説もある。
この説では、里見民部は最上義光の怒りをかって出奔したものの、激怒した最上義光の横槍で他家への仕官が叶わななかった。最上義光が死して最上家親が後を継いだ際に最上家に戻ったところで、最上義光の遺命として一族尽く成敗されたと言う。
最上義光の息子達は、
と四男の山野辺義忠以外は、皆悲劇的な最後を遂げている。
最上義光と正室の間には、駒姫と言う「東国一の美少女」と言われた娘がいた。
駒姫をたいへんにかわいがっていた最上義光だったが、奥州仕置の際にやってきた豊臣秀次が駒姫を見初めてしまい、側室として差し出すようにと言ってきた。義光は駒姫がまだ結婚する年齢で無い事などを理由に出し渋っていた。しかし相手は時の権力者・豊臣秀吉より関白の職をゆずりうけた豊臣秀次であり、結局最上家の為にと駒姫を差し出すことになった。
しかし、駒姫が大坂についた頃、所謂「秀次事件」が発生して豊臣秀次が切腹させられた。正式な結婚も行っていないと言うのに駒姫は、側室とみなされて他の側室同様に斬首されることとなった。
愛娘が大坂についた途端に権力争いに巻き込まれて首を斬られるという事態に、最上義光は豊臣秀頼に忠誠を誓う血判状を差し出してまで救おうした。この時、他の大名からも駒姫の助命嘆願があり、秀吉は駒姫の処刑を取りやめるように早馬を出したが、結局間に合わず、駒姫は15歳の命を六条河原に散らした上に、他の側室同様無残にも遺体をまとめて埋め立てられた。
最上義光は遺体を引き取ることもできず、 「私の前世が罪深いばかりに・・・」と言って水も飲めない程に衰弱して寝込んだ上に、豊臣秀次に連座して伊達政宗と共に謹慎を命じられた。
果てには、娘の無残な死から14日後に正妻も亡くなる(愛娘の死を悲嘆しての自決とも言われる)。最上義光は、天童にあった専称寺を山形に移築して、妻と駒姫の菩提寺として弔った。
その後の連歌会では、
憂きもただ報ひとぞ身や省みん
と、この悲劇が前世の報いとして甘んじてうけ反省するしかないとする歌を詠んだ。
Ver2.0で登場。2.5コストで武力8統率9の槍足軽。伏兵・魅力持ち。内藤昌豊ェ…
さりげなく伏兵解除時の台詞でシャレを言っている(上記の台詞)。
計略の「羽州狐の知謀」はVer2.0で追加された「逆計(相手が計略を発動した時に発動できる計略)」で、彼は発動者の武力と統率と移動速度を下げた上で徐々に兵力を減らす毒状態にするとかなりエグい性能。更にこの効果は敵が使用した士気が多い程強くなる。士気6が多い超絶強化に至っては食らった瞬間移動速度低下と毒で死ぬ危険性すらある。Ver2.00Aでは豊臣を差し置いて最強の妨害逆計と言われる。
▼義光無双な愛度流七本槍筆頭にして高槻やよいとのニヤニヤタイムに定評のある「閣下の野望」
▼数少ない良識派武将として登場するも最近出番が無い「くされ戦記」
▼宇喜多直家により能登に集結した梟雄達の一人として登場する「梟雄の野望」※残酷表現注意※
▼「毛利家の野望」の続編で松永久秀を筆頭とする黒備の一人として登場する「黒備の野望」
▼「信長の野望革新PK」武将ランキングに登場。東北編ではチート枠で、全国編では全国29位で登場。
▼「信長の野望天下創世PK」武将ランキング総合部門では全国34位で登場。
▼太閤立志伝Vで「目つきの悪い武将一位」に輝いた最上義光が登場する小説を紹介。
▼FCソフト「独眼竜政宗」に敵勢力で登場。小十郎曰く・・・「けちでいんけんでどうしようもないやつ」
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 78 | 政治 | 74 | 魅力 | 80 | 野望 | 80 | 教養 | 69 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 73 | 戦闘 | 80 | 智謀 | 88 | 政治 | 72 | 野望 | 80 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 162(B) | 智才 | 186(A) | 政才 | 164(B) | 魅力 | 83 | 野望 | 88 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 80 | 智謀 | 92 | 政治 | 81 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 84 | 戦闘 | 69 | 智謀 | 91 | 政治 | 80 | ||||||||
嵐世紀 | 采配 | 70 | 智謀 | 83 | 政治 | 80 | 野望 | 93 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 70 | 知略 | 84 | 政治 | 79 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 72 | 知略 | 85 | 政治 | 79 | 教養 | 64 | ||||||||
革新 | 統率 | 82 | 武勇 | 77 | 知略 | 96 | 政治 | 88 | ||||||||
天道 | 統率 | 82 | 武勇 | 77 | 知略 | 96 | 政治 | 88 | ||||||||
創造 | 統率 | 86 | 武勇 | 85 | 知略 | 91 | 政治 | 87 | ||||||||
大志 | 統率 | 87 | 武勇 | 92 | 知略 | 91 | 内政 | 95 | 外政 | 81 |
親子兄弟 | 家臣 | 関連人物 | |
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最終更新:2024/12/05(木) 15:00
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