「月が綺麗ですね」とは、 "I love you." の文学的代用表現…と言われてきた噂である。
夏目漱石が英語教師をしていた時、生徒が "I love you." を「我君ヲ愛ス」と訳した所、
と言ったそうな。要するに「『愛す』なんてはっきり言わせんなはずかしい」ということである。
ただ、出典が戦後のものしか見つからないため、後世による創作の可能性が高いとされる。具体的な検証は「月が綺麗ですね・死んでもいいわ」検証にて資料が引用されているが、現在までに初めて活字として確認されているのが1977年11月号の『奇想天外』誌での豊田有恒の文章であり、「綺麗ですね」ではないが「月がとっても青いなあ」と訳すように言ったとしている。ここから引用されたかは不明なものの、その後から現在のような「月が綺麗ですね」という表現に移り変わっていく様子が確認される。
豊田の文章ではこの逸話は「有名」としているが、これ以前に似たようないわれが確認された例は現在まで皆無である。1916年に死去した夏目漱石のエピソードが、60年以上もたって初めて文章になるというのは眉に唾をつけざるえない部分かもしれない。
同様の翻案では、二葉亭四迷がツルゲーネフの短篇『片恋』(Ася)を和訳する時に、ロシア語の "I love you." を「死んでもいいわ」と訳したという話もある。「月が綺麗ですね」と同じく、"I love you."の「日本人らしい文豪の翻訳」としてともに解説されてきた歴史があるが、これは明確に誤っていることがわかっている。
本文第16章該当部分の四迷訳と原文は以下の通り(強調は引用者)。
「死んでも可(い)いわ……」とアーシャは云つたが、聞取れるか聞取れぬ程の小聲であつた。
(— Ваша... — прошептала она едва слышно.)
このように、実際にこの箇所で訳されているのは ваша (ヴァーシャ。英語の yours, つまり「あなたのもの」に相当)であり、 "I love you." ではない。
この場面は、ドイツ某所で知り合い懇意になった同じロシア人兄妹の妹アンナ(愛称アーシャ)と主人公Nの、初めての待ち合わせの冒頭である。この少し前にNは兄ガギンから兄妹の奇妙な生い立ちと、妹がNに気があるらしいことを告げられる。不思議と魅力的でありながら、普段から突然家の外に飛び出したりワザとらしく笑い出したりと、奇矯な行動が目立っていた彼女と恋仲になることなど考えていなかったNは、彼女のアプローチを断ることを決意して待ち合わせに向かった。が、薄暗い部屋の中で余りに儚げな彼女を見ると決心は崩れ去り、想わず抱き寄せてしまう。その時に彼女から発せられたのが上のセリフである。
つまり、「(これでもう、私の身も心も全て)あなたものよ」ということである。「死んでもいいわ」はこれまでの場面で繰り返し描かれていた彼女のメンヘラチックな情熱を意識しつつ、主な想定読者である明治女性の感性に強く訴える表現を選んだ結果の言葉なのだろう。
ともあれ、この直後Nは突如我に返って妹をとことんまで問い詰め、何もかも壊してしまう。そして全てを喪ってから初めて自分の「片恋」に気付くのである。
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最終更新:2024/12/22(日) 21:00
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