月山富田城 単語

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月山富田城(がっさんとだじょう)とは、現在島根県安来市(旧広瀬町)にかつて存在したである。

概要

島根県の東端である安来市深く、地図上では中大根からほぼ南に20km程にある広瀬山(標高197m)山中に築かれた山
安来市から中に注ぐ飯(いいなしがわ)の直ぐ側にあり、深い山の合間で近隣には温泉も複数湧き出ている隠れ里的な場所である。
とあるゲームとは違って丘とはなんの関係もない

山陰地方のほぼん中に位置し、平安時代末期から江戸時代初期までの約400年間、山陰を支配するとしての地位にあった。

急な斜面を持つ山を数の石垣、土塁等でほぼ丸ごと難攻不落の要塞としており、一年半もの包囲戦による降を除けば、戦闘において敗を誇る。日本の中でも包囲戦の耐久期間は大坂城小田原城など名立たる名いで最長の部類。

またの北側の新宮には、尼子分戦闘集団である新宮党が本拠地を構えており、最盛期は最強の防御最強の戦を兼ね備えた恐るべき戦闘拠点であった。

が呼んだかは定かではないが「天空」という異名を持つ。

山頂の本丸跡には大国主った勝日高守(かつひたかもり)神社が築以前から現在に至るまで鎮座している。この神社古事記にも記載がある非常に由緒正しき神社で、特に尼子氏はこの神社を非常に篤く信仰した。

現在山に土塁や江戸時代初期に築かれた石垣等の遺構が残っており、自由に入山して見学することができる。
ただし遺構は整備されているとはいえ山の中なのでハイキング程度の準備は必要。

歴史

伝承によると、平安時代末期伝説的人物である藤原清がこの地に築した、と言われているが偽は不明。

鎌倉時代以降は佐々木氏、山名氏、京極氏といった名門によって収められていたが、京極氏の縁戚である尼子氏室町時代初期に守護代となって以降、尼子氏代となる。

その後、後世「謀聖」と呼ばれる尼子経久が守護代となるが、1484年に所領横領の容疑で一時期追放処分を受ける。
その更に2年後、経久は落した京極氏に代わってを奪回し、正式に尼子氏の居となった。(軍記物によれば少数で奇襲して奪回したとあるが、後の研究によって較的穏便に継承したらしいことがわかっている)

第一次月山富田城の戦い

1541年、山陰覇者となった経久の後を継いだ孫の久は、毛利元就の本拠地である安芸の吉田攻略に失敗してしまう。そして尼子領内の要な人衆が尼子氏に見切りをつけて大内氏へ尼子氏の討伐をめる事態が発生。大内毛利連合軍約45000が山陰を制圧しながら月山富田城へと迫った(第一次月山富田城の戦い)。

翌1542年には連合軍が遂に尼子の本拠地である広瀬まで進軍、月山富田城の向かいにある羅木山(きょうらぎさん)に本を構えられるという絶体絶命危機に陥るが、尼子軍15000は月山富田城による鉄壁の守備で3倍の連合軍を寄せ付けず、新宮党を始めとする勇猛な兵たちが地の利を活かしたゲリラ戦術で補給線を分断。
連合軍が攻め手を欠いて厭戦ムードとなったところで一度は裏切った人衆を再度味方に引き込み、攻めると見せかけた人衆が正面から堂々と入。これで連合軍の戦意は全に崩壊し、1年以上にも及ぶ尼子討伐はまさかの尼子勝利で終わった。
この後の追撃戦でも勇猛な尼子軍は大暴れし大内毛利は壊滅的な被害を受け、大内に至っては後継者の大内持が死亡君の義トラウマのせいか引き篭もってしまうなどの大惨事で、後の滅亡の原因となった。
毛利も同じく元就隆元があやうく戦死しかけるなど大きな被害を受けたが、一緒に従軍していた小早川吉川が当死亡寝返りによって混乱した状況にちゃっかり介入し息子を送り込んで乗っ取るなど、転んでもただでは起きない根性を見せている。

そして逆襲の勢いで久は尼子を更に拡大。中国地方の北半分を支配し、十一州の太守と呼ばれる大勢となり月山富田城はそのとなった。
その間、1554年には本家を脅かす程の勢となった新宮党が、当久以下ほぼ全てを久に粛清されるという事件が起きている。一、まだ幼児であった久の孫だけがの東福寺に預けられた。

第二次月山富田城の戦い、尼子家滅亡

しかし、1560年に久が47歳の若さで突如急死。南の安芸で勢を盛り返し大内を破る程となった元就はこの機を逃さず、度々奪い合っていた石見銀山を手中に収め、徐々に石見、出雲へと侵攻していく。
久が先の連合軍侵攻の発端となった人衆のを削ぐべく尼子本家への中央集権化を進めていた途中だったため、突然に後を継いだ義久は中を統率できず、人衆や臣が次々と毛利へ造反した。

そして1565年には再び包囲戦がはじまる(第二次月山富田城の戦い)。
今回は毛利35000に対し尼子軍10000という前回よりも大きい戦差で、毛利軍の備えも万全だった。
立原久綱上久山中幸盛ら残った忠臣達が猛将として名高い自称選不敗」吉川元春を撃退するなど徹底抗戦を続けたものの、老獪な元就被害を抑えるために底した包囲を行うとともに投降者を処刑するという外道じみた手で投降を封じ月山富田城に尼子兵を閉じ込め、兵糧を削る戦法を取った。
そして兵糧が底をつき始めたタイミングを見計らって投降を許したため内からは一般兵から譜代臣まで投降者が続出した。
重臣の山久兼が私財を投じて兵糧を調達するものの、讒言によりその久兼が義久に内通容疑で処刑されるという惨事もあって内の士気と残存者は減っていった。
そして1566年の11月下旬、1年半もの包囲戦の末に、月山富田城は最期まで落することなく自ら開。義久は毛利の捕虜となって尼子は滅亡し、山陰と月山富田城は毛利のものとなった。

第三次月山富田城の戦い、尼子再興軍最大の難関

毛利に奪われた月山富田城は、何人かの毛利臣が代となった後、三本の矢以外の子である毛利五男、僅か19歳の毛利となる。補佐には代の天野重が付いた。

その直後の1969年毛利九州大友と全面対決に向かっていた最中、尼子旧臣である立原久綱山中鹿介らが新宮党一生き残った遺児であり京都で僧となっていた尼子勝久を擁立し隠岐で挙兵。旧尼子残党などを集め6000もの大軍勢となり出雲をほぼ奪還した。
そして悲願である月山富田城の奪還へ向かうが、そこで最大の難関となったのはかつての本拠地である難攻不落の月山富田城だった。
を守る天野重は偽の降文で再軍の上久率いる兵2000へ誘き寄せ、奇襲による騙し討ちで打ち破る。これは現代どころか当時としても非常に卑劣な手であり、義と忠を重んじる山中幸盛はこの行為に激怒し今度は1000の兵でを奇襲するべく北側にある安寺へ入るのだが、これを察知した重はなんと寺にを斉射し寺ごと再軍を撃退した。

その後もは落ちず、九州方面から戻った毛利本軍の大部隊が到着し、再軍は壊滅した。

毛利のお芸であるる手段に頼るという汚点こそ残ったものの、月山富田城は攻守を逆転したこの戦いでも落ちることなく、堅振りをめて世に示した。

その後

関ヶ原の戦い毛利輝元が西軍の(ほぼ形式だけの)総大将として徳川家康率いる東軍に敗れ、毛利長州を残して領地召し上げとなった。

その際に堀尾吉晴、忠氏子が出雲24万石を家康から与えられ、新たなとなった。
しかし、太の世となってはかつて難攻不落を誇った堅もあまりに辺鄙かつ不便であり、新たに宍道湖へ築いた松江城へと本拠地が移されることになる。
これにより400年程続いた月山富田城の歴史は幕を閉じた。

なお、月山富田城の櫓などは松江城建築の際に解体されて再利用されたという。

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