望月亀弥太 単語

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モチヅキカメヤタ

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望月亀弥太とは幕末の志士、土佐脱浪士。

概要

望月亀弥太(黒鉄ヒロシ風)

保9年(1837年)10月7日、土佐土佐小高にて新留守居組の望月に生まれる。諱は義澄。変名松尾甲之進。

文久元年(1861年)、土佐勤王党が結成されるとこれに加わったが、名簿には記載がない。

文久2年(1862年)10月山内容堂の警護を名として五十人組が発足するとこれに参加し、江戸に向かう。

文久3年(1863年)1月庁から航修行を命じられ、同志高松太郎、千屋虎之助と共に勝海舟の門下生になる。この時期の望月の熱心さを思わせる本人の書状が残っている。

わたくしごろはきものもあかにもぶれ、むし(ノミ、シラミ)はふるひおとすほどになり申

むしわきの あかもつれきて あづまぢを
ゆきゝの姿 みせたくも有

じゅくにて九ツ半時(午前1時)頃、そば弐はいをくふうてねむねむりかき申間、御すいりふにて御よみあそばされ度

(文久三年二月四日 望月亀弥太書状)

勝塾で航術を学んだ望月は幕府軍艦の順動丸を操している。

11月元で土佐勤王党に対する弾圧が始まった事を受け、望月の他坂本龍馬ら土佐の関係者に帰が届いた。望月江戸で借りていた具の始末をするまで帰れないといい、そのまま脱して勝塾に居続けた。

その後、坂本北添佶磨夷移住計画に同調する態度を見せていたが、元治元年(1864年)6月5日池田屋で尊攘志士の会合に出席中新撰組の襲撃を受ける。望月池田屋を脱出して土佐邸に入ろうとしたが、門が閉まって入れなかったため長州邸に向かおうとしたところを会津兵に追われ、で刺突され死亡享年27。

勝は望月の死を嘆き、日記にその念さを記した。

師、当五日浮浪殺戮の挙あり、壬生浪士輩、余り辜を殺し、土州の士、又が学望月生などこの災に遭う

(日記 六月二十四日)

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