朝倉教景(あさくら・のりかげ)とは、室町時代・戦国時代にかけていた武将「集団」である。
わかっているだけでも5人いる。
5人揃って朝倉教景!!
父は朝倉家4代当主・朝倉貞景。父が死去した時は57歳であった。
これは吉川国経が父・吉川経基から家督を譲られた年齢と同じである。(ちなみに国経が父の死を見るのは78歳の時)
どうやら父が生前のときから室町幕府の要請で関東出兵の命を受けていた。
ただ、当時の朝倉家は越前における斯波家の一被官の立場であった。
父を越前に置いて教景自身は家臣と共に関東に赴いたようである。
1438年、足利持氏が永享の乱を起こすと、今川範忠などの守護大名らと共にこれを鎮圧、足利持氏・足利義久父子を自害に追い込んだ。
その2年後(1440年)に結城氏朝・結城持朝父子が持氏の遺児である足利春王丸・足利安王丸兄弟を担ぎ上げて結城合戦を起こすと、再び関東に出兵し、春王丸・安王丸兄弟を生け捕りにする戦功をあげた。
その翌年の1441年、室町幕府6代将軍・足利義教が暗殺される直前の時期に義教から「教」の偏諱を賜り『朝倉教景』が誕生した。
つまり、『朝倉教景』という名前は朝倉家にとって将軍に認められた名誉ある名前である。
しかし、それ以前の彼の諱は一体なんだったんだろうか・・・?
子の朝倉教景ブルーは先立って夭逝したため、嫡孫である朝倉教景イエローの後見を務めた。
84歳という当時では高齢で死去した。
(1402~1450) 別名に家景(wikipediaでは朝倉家景)・為景
朝倉教景レッドの嫡男。弟に朝倉将景がいる。子には朝倉教景イエロー、朝倉経景、朝倉光玖、朝倉景冬がいる。
『日下部系図』には「文安三年丙子八月六日足羽北庄神明社再興」と記されているのみである。
詳しくは『朝倉敏景』の項へ。
四兄・朝倉景総は庶腹にあたり、朝倉教景グリーンより下席に扱われた。
まだ20歳前後の若者だったと推測される。
詳しくは『朝倉宗滴』の項へ。
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最終更新:2024/04/26(金) 04:00
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