朝廷とは、日本にかつて存在した執行機関である。中国でも皇帝を中心とした同様の機関があったが、ここでは主に天皇を中心とする日本の機関を指す。大和朝廷(大和王権とも)、朝庭とも言われ、近世まで存続した。
「朝廷」と言う記述は既に古事記、日本書紀など太古の史料にもみられるが、明確に「朝廷」の概念が現れ始めるのは律令体制に前後する。有力豪族であった蘇我氏を倒した後、大化の改新を行った中大兄皇子(天智天皇)の死後、その息子であった大友皇子とその弟である大海人皇子による後継者争い、壬申の乱が発生する。この戦いは多くの有力豪族を味方に付けた大友皇子が勝利すると思われたが、予想に反して大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位した。
この時、天武天皇はほとんどの豪族が敵対する大友皇子についていたことを考慮したのか「豪族は信用ならねーな」と
1人の大臣すら豪族から任命せず、身内(皇后の持統天皇や息子の高市皇子)のみを側仕えに置いて天皇君主体制を打ち出した。これを皇親政治という。
この姿勢はその後も継承され、701年に刑部親王(天武天皇の息子)と藤原不比等(中臣鎌足の息子)を中心に大宝律令を完成させる。太政大臣、内大臣、右大臣、左大臣などの官職位階を綿密に規定したのもこの時である。その後令外官として関白、征夷大将軍などの要職が随時追加され、天皇のもと官職位階についた人間の政治体制が整備される。
大宝律令による天皇による君主体制を敷き、朝廷の権力基盤は盤石になったかのように見えたが、古代終盤から藤原道長をはじめとする有力貴族や、平清盛といった有力武士に権力基盤を徐々に奪われる。特に有力貴族による荘園は天皇君主の原則である公地公民体制を根幹から否定し、天皇の権力基盤は大きく損なわれてしまうことになった。
やがて1192年には源頼朝が征夷大将軍に任命され鎌倉に幕府を開くが、源頼朝、源頼家、源実朝と将軍が立て続けに亡くなってしまう。ここで再度「天皇による君主政治体制」を確立させようとした後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権北条義時と対立、1221年に承久合戦が行われ、結果的に軍の全権を与えられた北条泰時ら幕府軍が勝利する。後鳥羽上皇は責任をとって配流となり、権力で幕府に大きく差をつけられることとなった。
しかしそれから約100年後の1333年、後醍醐天皇が2度の失敗を経て、足利尊氏、楠木正成、新田義貞ら武士の協力を得てついに北条高時を自刃させ、鎌倉幕府を滅亡に追い込み建武新政という天皇親政を復活させる。しかし政治方針や様々な事情から結局足利尊氏と反目、結果後醍醐天皇率いる南朝と、足利尊氏擁する北朝、ここに足利尊氏と反目した足利直義(足利尊氏の弟)らや、先に自刃した北条高時の息子である北条時行率いる鎌倉幕府の残党まで加わり、「南北朝の動乱」を引き起こす。
離合集散を繰り返したものの、最終的には室町幕府を開いた足利尊氏の孫、足利義満が南北朝を合一させひとまずの安寧を見る。しかし敵味方がゴロゴロ変わるという支配の脆弱さは足利幕府にとっての後遺症となり、義満の5代先である8代将軍足利義政の代で応仁の乱が発生し、その後将軍に就任した足利義尚の早死もあって、足利将軍家やそれを補佐する管領家が没落、内乱したことで戦国時代に突入する。既に権力を大きく削減されていた朝廷はこの頃火の車の財政状況であった。
内乱の影響が朝廷のある京(京都)まで波及したことで、朝廷の財政は火の車となった。あまりに火の車だったがために子息の皇子の元服(成人)費用にすら事欠くという状況であった。この頃から朝廷は足利幕府とは別に自分を保護してくれる対象を探し始め、細川高国、三好長慶ら戦国の荒波で台頭する有力大名と友好関係を取り持つようになる。
やがて1568年、足利義昭を奉じて上洛してきた織田信長が畿内で台頭する。元々財力に定評のあった織田信長はたちどころに朝廷の保護を了承。朝廷も織田家との友好関係を維持し、信長が15代将軍足利義昭を追放してからもその関係は変わらなかった。しかし1582年に織田信長が天下統一事業の達成間近にして明智光秀の謀叛にあい急死。
当主と後継者、その側近を数多く失った織田家は急速に衰退し、やがて身内争いに発展する。
朝廷は実力をつけてきた羽柴秀吉に1585年従一位関白の任を授け、豊臣姓を下賜する。やがて朝廷の後押しを受ける形で中央政権の再編を行った豊臣秀吉は太閤検地を実施、荘園の存在を全否定した。後陽成天皇とも関わりの深い豊臣秀吉が律令体制で権力を握ったことで、藤原氏のようなかつての有力貴族は権力基盤を大きく削がれた。秀吉の死の間際では、太政大臣の豊臣秀吉、内大臣の徳川家康以外に大臣が誰もいないという権力の強さであった。
しかし次に台頭する徳川家康は有力貴族の復帰を後押しし、朝廷貴族と幕府大名を完全分離させた。徳川家康は1603年に江戸幕府を開き、朝廷には京都所司代を置くことで監視下においた。有力権力者であった秀吉の息子の
豊臣秀頼を自刃に追い込んだ後は、1615年に十七条からなる禁中方御条目(禁中並公家諸法度)を制定する。これにより天皇以下廷臣は全て政治から遠ざけられた。
やがて徳川家康の息子である2代将軍の徳川秀忠は時の天皇である後水尾天皇に娘を嫁がせ、紫衣事件を経て譲位した後水尾天皇の代わりに明正天皇が即位、天皇の外戚という地位を確立すると同時に859年ぶりに女帝が誕生した。これ以降代々の徳川将軍は朝廷のある京で将軍宣下を受けることになる。
時を経て江戸幕府成立の約250年後、1853年の黒船来航問題に端を発する尊皇攘夷志向が各地に伝播し、特に時の天皇であった孝明天皇は攘夷の意志が強く、14代将軍徳川家茂と皇女和宮による公武合体などにも賛成し、江戸幕府による管理貿易体制を支持した。しかしその孝明天皇もやがて考えを融和させるようになるも、1866年に急逝。
後を継いだ睦仁親王が即位され明治天皇となり、1867年江戸幕府の将軍徳川慶喜から大政奉還を受け取る。
その後1868年に王政復古の大号令、政体書、五箇条の御誓文などにより、大宝律令以来続く律令制度は崩壊する。
政治は新政府と受け継がれ、朝廷はその役目を終えた。
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6 ななしのよっしん
2021/10/12(火) 19:04:36 ID: RViAeeO990
記事にもあるように朝廷という言葉は記紀にもある古い言葉なのに朝廷という言葉を使わずヤマト王権だのヤマト政権だのと言い換えようとする勢力がある
これを反皇室勢力という
7 ななしのよっしん
2023/04/10(月) 01:20:16 ID: WvQbrzI51C
日本の歴史は浅いとかいうが大和朝廷ができた頃にヨーロッパでも今のヨーロッパ諸国家の元になるゲルマン人国家がラテン人のローマを滅ぼした後にポコポコ建国されてるし建国時期に関しては大差なくね?
ローマの遺産なんか中世になるまで無視してたわけだしギリシアから続くローマの後継ヅラや歴史マウントを今更取ってこらても説得力ないわ
8 ななしのよっしん
2023/09/02(土) 11:59:58 ID: ACd6sBqmck
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最終更新:2024/09/20(金) 00:00
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