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木ノ芽峠 単語

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キノメトウゲ

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木ノ芽峠とは、福井県である。この土や文化が大きく変化する。

概要

山の南東に位置する標高628mの。木、木辺などとも表記された。

福井県の形を見ると大きくくびれている部分があるがそこに位置するのが木ノ芽峠である。さらには敦賀湾から伊勢湾にかけては本州くびれ折れ曲がっている部分である。地質的に見ると木ノ芽峠付近には断層が走り若狭湾側が沈降、越前海岸側が起していてその界付近にが位置するため一帯が険しい。

古来より北陸近畿を往来する場合を通る必要があるため朝倉氏や織田信長といった武将、紫式部松尾芭蕉といった文化人、元や如といった僧侶幕末には水戸天狗党、明治には明治天皇も通った歴史的なである。一方での険しさから長らく交通ボトルネックとなり文化的断絶が発生した。

木ノ芽峠周辺は軍事的にも重要であり南北朝時代には北陸進出を図る新田義貞ら南勢力が北勢力と争い、戦国時代には南下を図る越前一向一揆織田信長軍が争った。現在でも付近に戦国期の砦群が遺されている。また積雪季の行軍が困難になることから越前に本拠を置いた朝倉氏や柴田勝家近畿出兵の足かせとなった。

福井県の地域区分で南西部嶺南地方、北東部を嶺北地方と呼ぶがこの「嶺」とは木ノ芽峠(木嶺)の事である。嶺北と嶺南では大きく文化方言が異なり嶺北は北陸圏だが嶺南は関西圏である。気面でも嶺北は北陸的な地帯だが嶺南は積雪はあるものの嶺北ほどではない。現在北陸本線北陸トンネル北陸自動車道敦賀トンネルにより往来は劇的に改善されているが県民の意識の差は残っている。ぶっちゃけ木ノ芽峠を越える用事がいしを越える労力で関西金沢方面に行く。

交通の歴史

古くは木ノ芽峠を回して山中が利用されていたようだが木ノ芽峠を通る方が敦賀越前府中(現越前市)を最短距離になるため長7年(830年)に木ノ芽峠を通る道路北陸道)が整備された。

正6年(1578年)には越前を治めた柴田勝家越前府中から敦賀を経ずに近江に向かうとして栃ノ木を通る北街道を整備し、そちらが街道となるが木ノ芽峠の重要性は変わらなかった。北街道東近江路とも呼ばれ、それに対して木ノ芽峠越(北陸道)は西近江路とも呼ばれるようになった。

明治20年(1887年)になると木ノ芽峠を回する敦賀街道現在国道8号に相当)が整備されたため木ノ芽峠を通る街道は急速にれた。

しかし結果的に歴史的な面を残すことになり文化庁歴史の道百選exitに「北陸道―木ノ芽峠越・湯尾越」として選定されている。現在も一部に石が残るほかには茅葺きの建物があり、平家の末裔で戦国時代から屋番を務めているという前川氏が居住している。(※あくまで現住の民家なのでを訪れた際には勝手に私有地に侵入したり失礼のないように。)

木ノ芽峠を回した国道鉄道(右図線)も昭和になると輸送量の限界を迎えた。そこで昭和37年1962年)木ノ芽峠の山塊を貫く北陸トンネルが開通(右図線)し一時間余りかかっていた敦賀から今の所要時間が25分に短縮された。この北陸トンネルは全長13.87㎞におよび完成当時日本一長いトンネルだった。

自動車道路では昭和52年1977年)に北陸自動車道敦賀トンネルが木ノ芽峠と山中の中間付近の山塊を貫いて開通した。一般自動車では木ノ芽峠を越えるものは林道程度で実用に耐えるものは長らく木ノ芽峠を回する国道8号しかなかったが平成16年2004年)に敦賀市新保と南越前町(開通当時は今町)上取を結ぶ木ノ芽峠トンネルが開通した。ちなみに新保は木ノ芽峠越の宿場で取は栃ノ木越の宿場である。

嶺北と嶺南

明治6年に置県で若狭国越前国を合わせた領域に敦賀に県庁を置く敦賀県が誕生すると木ノ芽峠(木嶺)の往来が困難であることから福井への県庁移転が福井側の住民から要望される。この時県庁移転の嘆願書に「木嶺以南」「木嶺以北」「嶺南」「嶺北」の語が使われ以後地域区分として定着する。ちなみに南北なのは街道が南北に通るからである。

県庁問題は結局明治9年に敦賀県が木ノ芽峠をに嶺北を石川県、嶺南を滋賀県に編入される形で一旦終結する。しかし現在富山県まで含んでいた石川県は地域対立がしく旧敦賀県を分離することになり滋賀県の旧敦賀県部分も分離して明治14年に以前の敦賀県の領域に福井に県庁を置く福井県が設置された。これには今度は嶺南住民から不満が噴出する。嶺南地方滋賀県復帰をめる運動も展開されるが実現することはなく現在まで至っている。このような経緯もあって木ノ芽峠は県民の精神面でも大きな断層となっているのである。

周辺の峠

地図を見ると分かるが木ノ芽峠・山中・栃ノ木は直線的に並び一連のものと思ってよい。これらの福井県っ二つに分断していることがお分かりいただけるだろう。

現在山中から栃ノ木にかけて尾根付近に舗装された林道が通り木ノ芽峠にも自動車アクセスしやすくなっている。(関連動画・関連リンク参照)

山中峠

の標高は389mで木ノ芽峠の標高628mより低いため古くは山中を越えるルートが正規の北陸道として使われていた。万葉集でもルート上の「五」「鹿蒜」の地名から「何時はた」「帰る」と掛けて詠まれている。しかし木ノ芽峠を越えるルートべて遠回りになることやルート上に小さなを繰り返すことから木ノ芽峠の街道が整備されて通りやすくなるとそちらが要な街道となった。

明治29年(1896年)に敦賀から福井間に鉄道北陸本線)が敷設される際に木ノ芽峠を避けて山中の下にトンネルが通された。この路線は木ノ芽峠を避けたとはいえスイッチバックトンネルがいくつも存在する難所で昭和37年に木ノ芽峠を貫く北陸トンネルが開通すると旧路線は廃線となった。現在北陸本線跡は自動車道路に転用され今も残るトンネル群が往時をしのばせる。

栃ノ木峠

の標高は538mで名前の由来はにあった栃ノ木と言われ現在には栃ノ木の大木がそびえている。

中世から自体はあったようだが戦国時代越前を治めた柴田勝家が栃ノ木を通る北街道東近江路)を整備して以降に往来が盛んになった。江戸時代には街道として参勤交代に利用されたので往来はにぎわったようだが明治以降は鉄道自動車も木ノ芽峠を側に回するルートをとったため栃ノ木はさびれたようだ。

昭和には栃ノ木トンネルを通して北陸本線敦賀を経由せずに木之本と今を直接結ぶ案もあったが結局採用されなかった。現在国道365号が通るが通行止めになる。

関連動画

林道栃ノ木・山中線

自動車で走りやすい舗装された林道

木ノ芽峠トンネルと栃ノ木峠(国道476号と国道365号)

現在では自動車で走りやすくなっているが栃ノ木付近は大とのすれ違い注意。

旧北陸本線跡

トンネル内ですれ違い不可なので信号のないトンネルは先入優先。

国道8号

少しずつ改善されているが今でもカーブトンネルが多い。

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参考文献

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