木村吉清 単語

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キムラヨシキヨ

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「木村吉清」きむら・よしきよ ? ~ 1598)とは、豊臣秀吉に仕え、州仕置の後に5000石から一気に30万石の大名に出世した事から

「世に、これほど出世した男もめずらしい」

とも言われている武将であり、小牧・長久手の戦い小田原征伐にも参加し、太検地でも功績を残す等、立たない脇役としては功績十分ながらも、石高が上がりすぎた為に

「たいした実績もなく、きわだった才腕が一切ないにもかかわらず」

と散々な評価を受けたあげくに、

といった豊臣秀吉の謀略ネタがつきまとう人物。福島県の「福島」の命名者でもある。

概要

松永長頼息子で丹波亀山内藤如安の臣から、明智光秀臣となり、亀山代を務めた。

※木村吉清はキリシタンで洗礼名はジョアンである。

本能寺の変の後の山崎の戦いでは、亀山羽柴秀吉に差し出し、その際の手際の良さを秀吉に評価されて5000石で臣に取り立てられた。

京都の町奉行となり、美濃の検地奉行を勤め上げ、息子木村清久が秀吉の側近になる等、裏方として堅実な成果を挙げた。

政務のみならず、小牧・長久手の戦い小田原征伐の岩槻攻めに参加し、州仕置では名淵などの戦いで敵軍を撃破して大将首を取る等、軍務でも堅実な成果を挙げている。

州仕置の後に、プライドが邪魔して小田原征伐に参加しなかった大崎氏や葛西氏が領地を収されると、木村吉清は旧・大崎/葛西領30万石を与えられる抜を受けた。

しかし、秀吉論見通りか、はたまた秀吉の差しか、木村吉清は

といった「一発生」フラグを乱立していき、結果、大名として着任して1年程で大崎氏と葛西氏の旧臣を巻き込んだ一が発生し、自で鎮圧する事ができなかった木村吉清は居の寺池を追われ、一勢により息子木村清久と共に佐沼に閉じ込められる事態となった。

蒲生氏郷伊達政宗の援軍により一勢を退けたものの、計画通り発生の責任を負って30万石の所領は収され、蒲生氏郷の客将となった。

では5万石の知行とを与えられ、は木村吉清により「福島」と名をめた。これが「福島県」の県名の由来となっている。

蒲生氏郷の死を遂げ、蒲生秀行宇都宮に転封されると、木村吉清は豊後に1万5千石を与えられて大名に取立てられた後に同地で流転人生を終えた。

その他「木村吉清」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。exit 

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火坂志の「壮心の」は、木村吉清が主人公の「抜」を収録している。

その他にも

を収録している。

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