本因坊秀策 単語

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ホンインボウシュウサク

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本因坊秀策(ほんいんぼう しゅうさく)とは、江戸時代囲碁棋士である。1829年(文政12年)生まれ、1862年(文久2年)。現・広島県尾道市出身。幼名は虎次郎。その才から『棋聖』・『碁聖』と呼ばれる。

概要

1848年(嘉永元年)に第14世本因坊となる。翌年から徳将軍の御前対局・御に出仕。19勝敗の大記録を立てる。

は確かな形成判断に裏付けされた、終盤ヨセ
盤面を簡明化させ、終盤まで地合いのリードを守りそのままゴールするのが秀策流。
呉清源の登場まで秀策流布石は評価され続けた。
現在はコミ制の導入により、秀策流は甘いとされているものの、
手厚い構えから定石の一つとして定着している。

1862年(文久2年)、江戸コレラが大流行。本因坊の患者を看病に当たる中、自身も感染し34歳の若さで死去した。なお先代で兄弟子の十四世本因坊秀和より死してしまったため十五世を継いでいない。

後世の評価

その後も明治以降から徐々に人気が高まり棋聖と呼ばれるようになっていた。
ファンが多く、特に小林光一九段は「棋士として独立してから、一番最初に購入したのは秀策全集」と語り、
修行時代からずっと並べていた。
趙治勲小林の棋は秀策から来ていると語っている。

そして1999年開始の週刊少年ジャンプ連載漫画ヒカルの碁』にて登場人物藤原佐為憑依した相手として登場。その作品は大ヒットした。死後137年も経って自身の知名度が向上するとは本人も思っていなかったであろう。

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掲示板

  • 1 ななしのよっしん

    2016/12/23(金) 21:48:09 ID: 1X0R55d7bx

     秀策が棋聖と呼ばれる様になるのは明治の終わり頃からで、それまで棋聖と称されていたのは、4世の策、12世の丈和だった。(策を前、丈和を後と称した)この2人は共に名人所、秀策は七段上手だという事を考えれば違和感を感じる人も多いだろう。丈和の名が急落した背景名人所になった際の裏工作明治後期に明らかにされた為だった。それを別としても秀策の強さや偉大さ揺るがないが。

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最終更新:2024/10/08(火) 08:00

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