朱元璋 単語

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シュゲンショウ

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姓名: 朱 元 (本名は朱重八。のち朱宗→朱元璋とめる)
瑞 (多分後付け)
1328年(元年)~1398年(洪武31年)
在位1368年(洪武元年)~1398年(洪武31年)
太祖
諡号: 開肇紀立極大聖仁文義武俊徳成功高皇帝 (長いので高皇帝省略されることも)
略歴明王朝の初代皇帝。治世の年号から洪武帝と呼ばれる。(一世一元の制は朱元璋に始まる)
2chでは「朱元璋とともに苦難を乗り越えてゆくスレ」の主人公として人気がある。

生い立ち

江南濠州、鐘離(現在の安徽省滁州陽県)の出身。貧農の四男に生まれる。
朱元璋の生まれた元王朝末期災が多発しており、朱元璋自身も飢饉あるいは疫病で達を亡くしてしまう。生きるために鉢僧として各地を行脚したが、やがて1351年に白蓮教徒らによる巾の乱が発生し、巾軍の武将だったの元に身を寄せる。

の所で頭を表すようになった朱元璋はの養女、氏を妻にめとり、徐達や善長などの幕閣を迎えるようになる。善長の進言で、朱元璋はこの頃からの高祖、劉邦を意識した行動を取るようになる。

群雄から皇帝へ

の死後、その族を抑え朱元璋がの勢を引き継ぐ。彼は応府(江省南)に拠点を置き、軍師の基らの進言を受けながら江南に勢を拡大していく。同じ群雄の陳友諒を鄱陽の戦いで破り(三国志演義における「赤壁の戦い」のモデルといわれる)、州のを降し、巾軍の名上のトップだった児を謀殺し、江南一帯を勢下に納める。

1364年に王を名乗っていた朱元璋は1368年に皇帝に即位、号を大明とした。
当時、まだ元王朝華北地方より北を支配していたが、同年に朱元璋は徐達に命じて北伐の軍を起こさせ、元王朝首都大都(北京)を放棄してモンゴル高原逃げのびる。朱元璋は十数年余りで他の群雄を降し中国全土を統一し、また元王朝の残党をほぼ壊滅状態に追い込んだ。

独裁制への道

明王朝政治体制は皇帝に権を一極集中させた独裁制で知られる。中書省(内閣府のような中央省庁)を止して他の官庁や軍を皇帝直属にした。
また重農政策の過程で大地や大商人財産収、世界史テストに出てくる鱗図冊(土地台帳)、賦役冊(戸籍台帳)、里甲制(落の行政制度)、衛所制(兵農一致の軍事制度)などの制度を敷いた。

しかし朱元璋といえば万単位の粛清を幾度も行ったことで著名である。少なくとも胡惟庸、善長、玉らの功臣を口実を付けて罪に問い、彼らに連座して多数の功臣が誅殺された。また「文字」と呼ばれる官吏や知識人の弾圧を実施、「光」禿」「僧」とかの字を使っただけで朱元璋の過去を当てこすっていると多数の人が殺されている。
また、即位前にさんざん利用した白蓮教は王を建てた後は一転して弾圧している。

こうした朱元璋の政策を社会主義的な政策の走りと評する論者もいる。ともかく、明王朝300年の土台は朱元璋の代に築きあげられたといっても過言ではないだろう。

晩年

朱元璋の皇后だった氏と皇太子の朱標は朱元璋の行き過ぎた粛清必死で止めていたが、1382年に皇后1392年に朱標が死ぬともはや粛清を止められる者はいなくなった。

朱元璋は26男16女の子沢山だったが、男子を各地に封じて大きな軍権を与えた。1398年に朱元璋が崩じると、孫の朱允炆(朱標の次男)が後を継いで建文を称したが、翌年に朱元璋の四男で、王だった朱棣が反乱を起こす。
靖難の変と呼ばれたこの兵乱を制した朱棣(後の永楽帝)と配下達がモンゴルとの戦闘経験豊かだったのに対し、建文政府有能将軍をあらかた殺し尽くしていたため乱の運命を決めてしまったとはよく言われる所である。

余談

  • 朱元璋といえば美男子の肖像画と醜男の肖像画が残っていることで有名である。多分後者が本物に近いと思われるのだが(の所に馳せ参じた時、間諜と間違われて殺されそうになったがにその面構えを気に入られたという逸話がある)、実は美男子のほうが本物ではないかという説もある。
  • 海岸沿いを荒らしていた倭寇の討伐を要する書を日本に送ったことがあるが、日本はちょうど南北朝時代混乱期で、九州に割拠していた南方の懐良親王がその書を受け取ったため明は懐良親王の勢と冊封関係を結ぶことになった。のち足利義満が明に遣いを出した時、懐良親王の敵対勢の臣下としかみなされず義満は正式な交を結ぶため苦労することになった。
    ちなみに功臣の胡惟庸を誅殺する時の容疑は「元の残党と日本と共謀した」罪だった。
  • 中華人民共和国首相を務めた朱鎔基は、朱元璋の末裔を称している。また、朱元璋の武官だった人物の末裔にかの毛沢東鄧小平がいる。
  • 地方からの献上物のうち、固形粉末にして煎じる団(いわゆる抹茶)を贅沢だからという理由で禁止した。中国では抹茶ではなくお茶葉をそのまま煎じる散流となり、抹茶の習慣は臨済宗の開祖である栄西によって持ち込まれた日本に残った。
  • 中国史上、毀誉褒貶のしい為政者といえば彼と毛沢東の名がまず挙がる。清の歴史学者、は朱元璋の事を「賢、傑、盗賊を兼ね備えた人物」と評している。

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