朱拠とは、三国志に登場する人物である。
字は子範。呉郡呉県(江蘇省蘇州市)の出身。同族に朱桓がいる。
風格があり弁才に長けていた。黄武年間(222~229)に取り立てられ、当時呉の人事で専権甚だしかった曁艶(きえん)という人物に、過失があってもその才能を重視して降格や処罰は控えるよう諌めている。果たして曁艶はのちに告発され自殺し、親しかった張温も失脚した。
孫権は当時の将軍たちの不甲斐なさを嘆き、呂蒙や張温が都督をしていた時代をしばし懐かしんでいた。そんな中に朱拠を呂蒙の後を継ぐ人材として期待し抜擢、孫権の娘の孫魯育を朱拠に娶らせ、左将軍、雲陽侯となった。
呂壱という孫権の寵臣が専権を振舞っていた頃、部下が横領の罪を着せられて殺され朱拠も拘束されたことがある。しかし無罪が判明し釈放され、呂壱も後に誅殺された。
246年(赤烏9年)に驃騎将軍となり、249年(赤烏12年)には丞相代行となった。この頃の呉国は二宮の変という孫権の跡継ぎをめぐる派閥騒動に明け暮れるようになり、朱拠は皇太子の孫和派に属していた。
250年(赤烏13年)に孫権は皇太子孫和を廃し魯王孫覇を自殺させ、新たに皇太子に末子の孫亮を立てた。朱拠はこの措置に加え孫和が幽閉されたとの報を聞き、諸将や諸官を引き連れ、自分の顔に泥を塗り縄で自分の身体を縛って抗議をした。孫権はこれに怒って朱拠を棒百叩きの刑に処して新都郡(浙江省杭州市)の丞に左遷した。
孫魯派だった中書令の孫弘はこの機を逃さず、病床にいた孫権に朱拠を盛んに讒言、ついにその命令と偽って任地に赴く朱拠に自殺を命じた。57歳。
陳寿は朱拠と吾粲について「困難な時勢にあって、正義を守ろうとして身を滅ぼした、悲しいことである」と評した。
朱拠は贅沢はせず質素を好み、財産や恩賞を好んで振舞ったが奢ることは無かった。また人物眼に優れ、部下の孟仁(孟宗)や同族の朱異(朱桓の子)らの才能を見出した。ただ隠蕃という魏のスパイの正体は見抜けず孫権に遠ざけられたこともある。
朱拠と孫魯育の間に出来た子供、朱熊と朱損は父と同じように兵を預かる身分となったが、孫英(孫登の子)が孫峻を倒そうとしたクーデターが発覚すると、孫魯育の姉である孫魯班に讒言される形で首謀者とされた孫魯育と、朱熊、朱孫は母に連座する形でそれぞれ処刑された。
朱拠の娘は孫権の六男の孫休に嫁いでおり(朱拠の妻は孫権の娘の孫魯育である。つまり孫休は姪と結婚したことになる)、孫休が皇帝になると朱拠の孫の朱宣が雲陽侯に取り立てられ、朱夫人も皇后となった。孫皓が皇帝になると朱宣は驃騎将軍まで出世したが、朱皇后は孫皓に疎まれ265年(元興2年、甘露元年)に暗殺された。
三国志演義には登場しない。このため演義をベースとしているコーエー三國志でも出るシリーズが限られている。
また三国志大戦でもVer2.1では出ていたが排出停止になってしまった(三国志大戦トレーディングカードゲームのカードでは登場)。
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最終更新:2024/04/25(木) 20:00
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