朱桓 単語

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朱桓とは、

  1. 三国志に登場する人物(176~238)。孫呉に仕えた将軍
  2. 清の官僚(1766~年不明)。末期の進士。

ここでは1について説明。

敵に恐れられた孫呉の猛将

字は休穆。県(江)の出身。同族に朱拠がいる。
孫権江東を支配した時に取り立てられる。県長だった頃、疫病や飢饉に苦しむ民に治療や食糧を施し、兵からの信頼を得ていた。丹陽の叛徒や山越族の討伐で功績を上げる。

223年(武2年)、を大軍で攻める。濡須口を守っていた朱桓は曹仁の陽動作戦に引っ掛かり手勢を分けてしまい、5千ほどしか兵がいない状態で曹仁力部隊数万の攻撃を受ける。
朱桓は「戦は兵でなく指揮官の差で決まるものだ。曹丕曹仁の敵ではないし敵軍は遠征で疲弊している」と自軍を鼓舞して自軍が寡勢で弱軍であるように見せかけ、濡須を攻めた曹仁の軍を火攻めで打ち破り千人以上の損を与えた。朱桓はこの功で嘉侯、奮威将軍、彭の相となった。

228年(武7年)、周魴の計略で曹休が石亭まで深入りした時、陸遜の下にいた朱桓は全琮と共に軍を打ち破る。朱桓の提言した曹休生け捕りの策は採用されなかったが軍に大損を与えた。翌年に州牧、前将軍となった。

237年(嘉6年)、の呂習という人物が偽の投降をしようとして、朱桓が身柄引き取りに行ったが計略に気づいたため撤退した。江太守のが追撃しようとしたが、相手が朱桓であると聞いてその武勇を恐れてついに攻撃できなかった。

翌238年(嘉7年)、62歳で。民や兵士を慈しみ、配下の兵士に恩賞として余財を与え、1万あまりの兵士の妻子顔や名まで覚えていたという朱桓の死を配下の兵士達は嘆き悲しんだ。孫権は私財のかった朱桓の葬儀代を与えた。子の朱異が跡を継いだ。

その人となり

朱桓は上述したように民や配下を大事に扱い、下から絶大な信頼を得ていた。

その代わりプライドが高く、他人からの示に従うのを嫌った。同僚との間のいざこざが耐えなかった。ある時、同僚の全琮との間で言い争いになり、全琮が責任を胡綜に押し付けたため朱桓は胡綜を殺そうとし、胡綜は難を逃れたが副官2人が殺された。
朱桓は発狂したということで治療的で首都建業に戻ったが、孫権は朱桓の功績と才を惜しんで特に咎めず子の朱異に軍を率いさせその後朱桓を現場復帰させた。朱桓は見舞いに来た孫権を撫でることを所望し、孫権が願いをえさせると「虎のを撫でられました」と言ったという。

飛頭蛮と朱桓

『捜記』にこんな話がある。

朱桓がある碑女(メイド)を雇った。そのメイド中になると頭と胴体が離れ、頭は羽根にしてどこかへと飛び去ってしまう。
それを訝しんだある人が、頭のない彼女の胴体に寝巻をかけておいた。すると彼女の胴体の上を、羽根にして飛びつつ、胴体に戻ることができず苦しもがく彼女の頭がそこにあった。朱桓が寝巻を取り除けると頭はゆっくりと胴体にくっついた。

朱桓は家族にこの事を口外しないように言いつけ、彼女に暇を出したという。
朱桓のメイド飛頭蛮という妖怪で、当時将軍はこの妖怪を雇うことが流行っており、ある人は胴体と首が離れた飛頭蛮の胴体にを被せておいたところ、飛頭蛮の首は胴体とくっつけずとうとう死んでしまったという。

各メディアにおける朱桓

三国志演義

223年の濡須口の戦いの時、なぜか27歳の若武者として描かれている(正史では48歳)。
周魴が曹休にかけた石亭の戦いでも活躍。

三国志大戦

元々矢印ハゲキャラにされていたが、Ver3.59で「ハゲしいな!桜井くん」の桜井くんイラストが採用されてしまい、戦闘中でもハゲハゲ言わされている公式による犠牲者の一人。

今日も彼はどこかでハゲキャノンをぶっ放している。

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