杉下茂(1925年9月17日~2023年6月16日)とは、フォークボールの神様であり、元中日ドラゴンズ、大毎オリオンズに所属していたプロ野球選手である。
巨人・西武では投手コーチを務め、阪神・中日では監督も経験した。
OB | |
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杉下茂 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京府東京市神田区 |
生年月日 | 1925年9月17日 |
身長 体重 |
182cm 71kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1949年 |
引退 | 1961年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高校時代は「弱肩の茂」と言われるほど肩が弱く、主に一塁手として出場していたこと多かったが長身であったことを理由に投手として登板することもあった、なお当時はアンダースローで投球していた。ちなみにこの時に監督を務めていたのがのちに中日の監督となる天知俊一であった。
その後高校を卒業し入隊、このとき杉下は野球経験者という理由で対抗競技の手榴弾投げに参加させられ、弱肩であったことを隠していた杉下はひたすらに手榴弾を投げる練習を続け、その結果皮肉にも杉下の肩は以前とは比べ物にならない程強くなっていた。
終戦後杉下はいすゞ自動車に入社し、当時の監督の苅田久徳によって改めて投手に抜擢、そんなある日、川崎コロムビアとの試合が組まれ、先発のマウンドに立った杉下は球審を務めていた天知俊一と再会する。
高校時代とは比べ物にならない程の強肩に成長した杉下に驚いた天知は自身がOBである明治大学に入学を薦め、杉下もそれに従い明治大学に入学、明治大学に入学後も天知の個人指導を受け続け、のちに天知が明治大学野球部のコーチになった際は天知からフォークボールを伝授される。
49年には中日の監督に就任した天知の後を追い中日に入団、一年目からフォークを用いて8勝を挙げ、二年目には27勝で一躍エースの座に躍り出る活躍を見せる。
そして51年、春先に川上哲治らと共に渡米した杉下はサンフランシスコ・シールズのキャンプにて毎日のように外国人選手の打撃投手をさせられる。
この時杉下はただ打たれるのはつまらないと考えたのか、ためしにフォークボールを投げてみたところシールズの選手はまともに打つことが出来ず、そのフォークボールは間もなく投げることを禁じられた。その後メジャーのオープン戦にも登板した杉下に大リーグから誘いが来たため日本人初の大リーガーになる可能性もあったが結局杉下は天知監督を気遣って帰国した。
この経験が杉下に大きな自信を植え付けた他、間近でその光景を見ていた川上哲治は帰国後に「杉下のフォークボールは凄い」と周囲に触れ回ったため、後述のように杉下は積極的にフォークを投げることは無かったにも関わらず他球団がその幻影に怯えたこともあってか、この年は28勝でチームは2位ながら最多勝を記録し沢村賞に選ばれる。
52年・53年はそれぞれ32勝・23勝を上げるも優勝できず、54年には51年限りで監督を退任していた天知俊一にもう一度監督をやってくれるように頼みこみ、天知もそれを承諾して監督に復帰する。
杉下は天知の期待を裏切らないため、多少の無理は承知で投げ続け、特にこの年の8月は16試合に登板し8連勝、9月にかけて7連投と連日登板し、9月17日の巨人戦ダブルヘッダーではいずれもリリーフとして登板し両方とも勝利投手となっている。
10月10日の巨人戦では8回終了時点で4-6と2点ビハインドだったものの、天知監督は9回表のマウンドに杉下を送り込み、その裏奮起した打線が同点に追いつき延長13回にサヨナラ安打が飛び出し勝利、この試合で中日は巨人の息の根を止めて優勝、天知監督は今にも泣きそうだったらしい。
結局杉下はこの年リーグ最多の63試合に登板し395と1/3回を投げて32勝12敗、防御率1.39、273奪三振と大車輪の活躍で、自身も最多勝・最優秀防御率・沢村賞・MVPを獲得、特に対巨人戦では18試合に登板し11勝を挙げた。
日本シリーズでは中西太、大下弘などの強打者を擁する西鉄ライオンズと対戦するが、杉下は1戦目、2戦目、4戦目、5戦目、7戦目に登板し、それぞれ1失点完投勝利、6回からリリーフ登板し試合終了まで無失点、3失点完投で負け投手、2失点完投で勝利投手、完封で勝利投手という活躍でシリーズ最優秀選手に選ばれる。(ちなみにシリーズ4完投はあの化け物稲尾和久とタイ記録。)
杉下は同僚と共に恩師の天知監督を胴上げに参加、天知監督は優勝時と違い今度は泣きながら胴上げされていた。
なお中日はこの年から2007年まで日本一から遠ざかることになる。
55年には当時国鉄のエースだった金田正一と白熱する投手戦の末、国鉄を四球一つの1-0に抑えノーヒットノーランを達成、実は49年にもノーヒットノーランを達成できそうな試合があったのだがこの時は投手強襲安打を受けて負傷してしまいマウンドを降りていた。
ちなみに唯一の四球は金田に与えたもので、この2年後杉下は0-1で金田に完全試合という形でのリベンジをくらっている。
その後も杉下は58年まで連続で二桁勝利を挙げていたが右ひじの痛みもあり58年で引退、中日で挙げた211勝は山本昌に更新されるまで球団記録だった。
59年・60年は中日で監督を務めそれぞれ2位と5位の成績であった。
その後大毎の永田雅一オーナーから「君はまだ若い、しばらく大毎で遊んでおれ。」という誘いを受け、61年限りで大毎で現役復帰し、4勝を挙げた。
64年からは阪神のコーチを務め、外国人投手初の沢村賞投手となるジーン・バッキーを鍛え上げた他、66年には監督も務めた。(結果は3位)
その後は68年に中日監督(結果は最下位で一年限り)、76年から80年まで巨人の投手コーチ、93年から94年まで西武にて投手コーチを務めた。
1985年には野球殿堂入り、現在でも中日のキャンプを積極的に訪れて若手選手にフォークを教えたり[1]、2012年には自身の球団記録を更新した山本昌の元を訪れ「この野郎!」と激励するなど90歳を超えてもなお精力的に活動する高性能じいちゃん凄いお方である。
2016年、3/29の中日開幕戦で始球式に登場。90歳でありながらピッチャーマウンドからキャッチャーまでノーバウンドで投げるという健肩を披露。観客を驚かせた。
戦争の時代を知る球界の最長老であったが、2023年、97歳の大往生でこの世を去った。
ちなみに通算で215勝を挙げているが、杉下は大正生まれのため名球会には参加していない(正確には参加資格がない)。
フォークボールの神様と呼ばれるように日本初のフォークボーラーとして名を売ったが、杉下は試合の中では肩・肘への負担を考えてフォークを余り使用せず、加えてプロ入り時は「川上哲治をど真ん中のストレートで打ち取りたい」という夢があり、多くても1試合で5~6球しか投げなかったため、基本的には長身から放られる速球とカーブを主体とした投球だった。
また現在の回転しながら落ちるフォークと違い杉下のそれは無回転で左右に揺れながら落ちるナックルボールに近いもので、投げている杉下も「どこにいくのか、ボールに聞いてもらわないとわからない」と言うほどで、あの川上哲治ですら「捕手が取れないのに打てるはずがない」と言わしめたまさに魔球であった。
なお杉下は現在のプロ野球で投げられているのはほとんどがSFFと言っており、「本物のフォークを投げたのは私と村山実、村田兆治、野茂英雄、佐々木主浩だ。」とも語ったとも言われる。
元祖フォークボーラ―だけあって杉下からフォークを教わった選手は多く、ゆでたまご板東英二もその一人である。
年度 | 球団 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
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1949年 | 中日 | 29 | 7 | 0 | 8 | 12 | -- | -- | .400 | 159.2 | 66 | 66 | 81 | 65 | 3.66 | 1.42 |
1950年 | 55 | 22 | 2 | 27 | 15 | -- | -- | .643 | 325.2 | 134 | 209 | 135 | 116 | 3.20 | 1.24 | |
1951年 | 58 | 15 | 4 | 28 | 13 | -- | -- | .683 | 290.1 | 90 | 147 | 116 | 76 | 2.35 | 1.25 | |
1952年 | 61 | 25 | 6 | 32 | 14 | -- | -- | .696 | 355.2 | 96 | 160 | 118 | 92 | 2.33 | 1.16 | |
1953年 | 45 | 13 | 1 | 23 | 9 | -- | -- | .719 | 266.2 | 91 | 156 | 98 | 84 | 2.83 | 1.20 | |
1954年 | 63 | 27 | 7 | 32 | 12 | -- | -- | .727 | 395.1 | 103 | 273 | 71 | 61 | 1.39 | 0.93 | |
1955年 | 53 | 24 | 5 | 26 | 12 | -- | -- | .684 | 328.0 | 57 | 247 | 62 | 57 | 1.56 | 0.86 | |
1956年 | 42 | 19 | 4 | 14 | 14 | -- | -- | .500 | 248.0 | 48 | 167 | 70 | 55 | 2.00 | 0.89 | |
1957年 | 41 | 6 | 1 | 10 | 7 | -- | -- | .588 | 169.1 | 32 | 122 | 43 | 33 | 1.75 | 0.83 | |
1958年 | 46 | 10 | 1 | 11 | 9 | -- | -- | .550 | 218.0 | 46 | 161 | 56 | 43 | 1.78 | 0.00 | |
1961年 | 大毎 | 32 | 2 | 0 | 4 | 6 | -- | -- | .400 | 85.0 | 29 | 53 | 29 | 23 | 2.44 | 1.25 |
NPB:11年 | 525 | 170 | 31 | 215 | 123 | -- | -- | .636 | 2841.2 | 792 | 1761 | 879 | 705 | 2.23 | 1.08 |
通算:4年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 405 | 182 | 215 | 8 | .458 | Aクラス2回、Bクラス2回 |
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最終更新:2024/04/25(木) 21:00
最終更新:2024/04/25(木) 21:00
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