杉原晴盛 単語

スギハラハルモリ

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杉原晴盛(?~1565)とは、戦国時代の武将である。

概要

備後杉原氏から分出した、京都杉原氏の当。官途は兵庫助。

足利義輝の近臣で、反三好の六人衆の一人となり、永禄の変で死ぬこととなった。なお、ほぼ同時代人のはずなのに、木下定、ねねなど尾杉原氏が彼の子孫ということになっている。

ここまでのあらすじ

杉原氏の成立

備後杉原氏とは、『尊卑分脈』によると、大和氏と同祖の、桓武平氏の一流ということになっている。この史料によると、貞衡の系統に属するが、この人物の事績は全く分からず、また、杉原氏そのものの伊勢などの畿内以東とのかかわりが全くわからないので、事実かは不明である。なお、萩には平維盛の子孫とする系図も残っている。

この杉原氏の最初に事績がわかるのが、『吾妻鏡』建長四年(1252)5月11日条等に出てくる杉原である。彼はここで伯耆と称され、伯耆守と後世記録されるように、どちらかというと山陰にいたのではないかとも思われるが、後世杉原は、備後八尾の初代当として伝わっている。

ただし、備後の守護でもない杉原八尾を築いた経緯は全く分からず、『福山市史』等は杉原氏を在庁官人とするほか、『新修尾道市史』は西遷御家人としている。つまり、承久の乱をきっかけに、本来勢を持っていた清原氏が落して、杉原氏が成り代わったというのが、田口義之などの見解である。

とはいえ、八尾の構造はこれよりも後に作られたことを物語っており、田口義之も本当に杉原がここに進出した初代か、ということは保留しているので、いったん置いておきたい。

この杉原の孫が、杉原綱、杉原忠綱、杉原恒清、杉原観の兄弟である。このうち、本来嫡流だった杉原綱の系統が途絶えた結果杉原忠綱が跡を継いで嫡流・伯耆となり、杉原恒清の系統が京都杉原氏に、杉原観の系統が下総守・本郷杉原氏となってさらに木杉原氏、高須杉原氏、山手杉原氏などを文出していく。

室町時代の杉原氏嫡流

先んじて、伯耆守系統について述べておきたい。嫡流の杉原房は、鎌倉幕府御家人の有者として、備後に基盤を持っており、足利直冬の政権を支えていった。ところが、杉原、さらに下総守系統の木杉原氏などは一貫して足利尊氏方におり、杉原氏の分裂が始まっていたのである。

ただし、杉原房の息子杉原は結局許され、以後この系統は奉公衆の一員となった。『尊卑分脈』によると、その後杉原杉原と続き、杉原足利義教の近習だったと思われる。

この後、左杉原材宗という人物が、『康富記』の宝徳2年(1450年)7月5日に出てくるが、この人物は伯耆守の息子のため、杉原杉原のどちらかの息子であるとされる。なお、『広島県史』は別の系統としているが、田口義之の論考に従った。

というのも、『広島県史』に従ってしまった場合、応仁の乱で別杉原材宗に杉原氏が乗っ取られて伯耆守が落したということになるが、少なくとも『東山時代大名外様附』には杉山伯耆守が載っており、杉原伯耆は明応元年(1492年)にも確実に存在しているからである。

とはいえ、備後杉原氏の以後の消息は途絶えていき、山名理がこの系統なのかどうかも、よくわかっていない。一方、木杉原氏などは毛利氏に従っていき、以後『萩閨閥録』等に史料が残っていく。

文化人京都杉原氏

ということで、この傍ら京都で活動していたのが、この記事の人物の系統である。実質的な初代と思われる杉原満盛は『営三代記』の応永32年(1425年)2月22日等に見え、『北野社法楽一日万句』等、杉原浄信と法名を名乗った彼による歌があちこちで散見される。

根集』の宝徳元年(1452年)1月10日、宝徳2年(1453年1月14日等に正と歌のやり取りをした記録が見られ、文化人・連歌師としても活躍したようである。『東京大学図書館武田伊勢物語』によると、宝徳2年の12月9日には正から伊勢物語も受け取ったようだが、宝徳3年(1451年)に亡くなったようである。『補案新集』には文明7年(1475年)1月14日に25回忌、文明15年(1483年)1月14日に33回忌を行っているため、おそらく1月の中旬に亡くなったのだろう。

この杉原満盛の養子とされるのが、次代・杉原賢盛である。養同様、賀守となった杉原賢盛もまた、引き続き奉公衆連歌師として活躍していく。

ただし、ここで『尊卑分脈』によると彼の息子とされるのが、安芸守・杉原長恒なのだが、杉原長恒が『元日記』の文明13年(1481年)3月23日に亡くなった後、6月13日杉原七郎と呼ばれる人物がこれを継ぐ。この杉原七郎は文明14年(1482年)8月11日の『将軍千首』によって杉原政孝と分かるが、この時期にも未だに杉原賀入、つまり杉原賢盛が連歌師としてあちこちに見られるため、別とみなせることから、杉原賢盛と杉原長恒が子なのかは微妙である。

ともあれ、『大乗院寺社雑事記』によると、杉原賢盛は文明17年(1485年)11月28日に亡くなった。『補案新集』によると、68歳だったとの事。

ここで登場するのが、延徳3年(1491年)8月27日の『後法院記』の杉原七郎である。彼は、順当に考えれば、『尊卑分脈』に出てくる杉原孝盛なのだが、となると杉原政孝はどこいったんだよ的な話になるので、『尊卑分脈』があっているかどうかは自身がない。ということで、足利義材六角高頼討伐に向けて、御護唐櫃警固の任を得たようである。

この杉原孝盛も文化人として活動しており、『後法成寺尚通記』の永正7年(1510年)9月源氏物語の講義を受けていたようだ。

足利義輝近臣・杉原晴盛

そして、『尊卑分脈』によるとその息子となるのが、杉原晴盛である。とはいえ結構間隔があいているので、間に一人いるかもしれない。

文八年佐々木御成記』によると、文8年(1539年)の10月に、若様御走衆杉原七郎が出てきており、杉原晴盛は、近江まで一緒に逃げてくるような足利将軍の近臣のに生まれていたのである。『言継卿記』の文15年(1546年)1月10日には同じく走衆として杉原七郎が出てきており、幕府の京都への帰還をもって、彼のも戻ってきている。

かくして、『殿御元記』には、文15年12月足利義輝の元杉原兵庫盛が出てきている。

ところが、この杉原晴盛は、上野信孝、杉原晴盛、細川広、彦部晴直細川某の、反三好六人衆の一人として名前が挙がってきている。つまり、他の幕臣からも三好長慶にたてつく存在として煙たがられていたのだが、足利義輝は盛大にこちらに与してしまう。かくして、足利義輝の再度の京都落が生じたのである。

この杉原晴盛は、以後も足利義輝の近臣として何かやっていたとは思うのだが、正直あまり表に出てこないのでよくわからない。かくして、永8年(1565年)の永禄の変で討死する。軍記などでは隠れてやり過ごし逃げ出そうとしたところを殺された彼の姿が描かれるが、『言継卿記』によると逃げ出そうとしたところを殺されたのは事実らしい。

この後継者とされるのが、杉原長盛である。『朝倉始末記』には、越前での御歌会に登場する等、歌人という記憶は残っていたようだが、『言継卿記』によると、永12年(1569年)7月13日に上総介を名乗っていたこの杉原長盛は、織田信長切腹を申し渡されて、死んでしまった。この経緯は全く分からず、朝倉義景攻めにすら至っていないこの時期になぜ彼が殺されたのか、は多い。

ともあれ、こうして京都杉原氏は絶えてしまい、なぜか彼らの末裔としてねね実家杉原氏、つまり足守などを担った木下氏が、名跡を継いだことになっていく。

補足

信長の野望に出たことなどない。

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※備後の伯耆守系統については、Amazonにないので貼れないが、『備後の山戦国武士』を参照。

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