足利義輝の近臣で、反三好派の六人衆の一人となり、永禄の変で死ぬこととなった。なお、ほぼ同時代人のはずなのに、木下家定、ねねなど尾張杉原氏が彼の子孫ということになっている。
備後杉原氏とは、『尊卑分脈』によると、大和氏と同祖の、桓武平氏の一流ということになっている。この史料によると、平貞衡の系統に属するが、この人物の事績は全く分からず、また、杉原氏そのものの伊勢などの畿内以東とのかかわりが全くわからないので、事実かは不明である。なお、萩藩には平維盛の子孫とする系図も残っている。
この杉原氏の最初に事績がわかるのが、『吾妻鏡』建長四年(1252)5月11日条等に出てくる杉原光平である。彼はここで伯耆前司と称され、伯耆守と後世記録されるように、どちらかというと山陰にいたのではないかとも思われるが、後世杉原光平は、備後国八尾城の初代当主として伝わっている。
ただし、備後の守護でもない杉原光平が八尾城を築いた経緯は全く分からず、『福山市史』等は杉原氏を在庁官人とするほか、『新修尾道市史』は西遷御家人としている。つまり、承久の乱をきっかけに、本来勢力を持っていた清原氏が没落して、杉原氏が成り代わったというのが、田口義之などの見解である。
とはいえ、八尾城の構造はこれよりも後に作られたことを物語っており、田口義之も本当に杉原光平がここに進出した初代か、ということは保留しているので、いったん置いておきたい。
この杉原光平の孫が、杉原光綱、杉原忠綱、杉原恒清、杉原真観の兄弟である。このうち、本来嫡流だった杉原光綱の系統が途絶えた結果杉原忠綱が跡を継いで嫡流・伯耆守家となり、杉原恒清の系統が京都杉原氏に、杉原真観の系統が下総守・本郷杉原氏となってさらに木梨杉原氏、高須杉原氏、山手杉原氏などを文出していく。
先んじて、伯耆守系統について述べておきたい。嫡流の杉原光房は、鎌倉幕府御家人の有力者として、備後に基盤を持っており、足利直冬の政権を支えていった。ところが、弟の杉原親光、さらに下総守系統の木梨杉原氏などは一貫して足利尊氏方におり、杉原氏の分裂が始まっていたのである。
ただし、杉原光房の息子・杉原直光は結局許され、以後この系統は奉公衆の一員となった。『尊卑分脈』によると、その後杉原満平、杉原満親と続き、杉原満親は足利義教の近習だったと思われる。
この後、左京亮の杉原材宗という人物が、『康富記』の宝徳2年(1450年)7月5日に出てくるが、この人物は伯耆守の息子のため、杉原満平、杉原満親のどちらかの息子であるとされる。なお、『広島県史』は別の系統としているが、田口義之の論考に従った。
というのも、『広島県史』に従ってしまった場合、応仁の乱で別家の杉原材宗に杉原氏が乗っ取られて伯耆守が没落したということになるが、少なくとも『東山時代大名外様附』には杉山伯耆守が載っており、杉原伯耆守家は明応元年(1492年)にも確実に存在しているからである。
とはいえ、備後杉原氏の以後の消息は途絶えていき、山名理興がこの系統なのかどうかも、よくわかっていない。一方、木梨杉原氏などは毛利氏に従っていき、以後『萩藩閨閥録』等に史料が残っていく。
ということで、この傍ら京都で活動していたのが、この記事の人物の系統である。実質的な初代と思われる杉原満盛は『花営三代記』の応永32年(1425年)2月22日等に見え、『北野社法楽一日万句』等、杉原浄信と法名を名乗った彼による歌があちこちで散見される。
『草根集』の宝徳元年(1452年)1月10日、宝徳2年(1453年)1月14日等に正徹と歌のやり取りをした記録が見られ、文化人・連歌師としても活躍したようである。『東京大学図書館蔵武田本伊勢物語』によると、宝徳2年の12月9日には正徹から伊勢物語も受け取ったようだが、宝徳3年(1451年)に亡くなったようである。『補案京華新集』には文明7年(1475年)1月14日に25回忌、文明15年(1483年)1月14日に33回忌を行っているため、おそらく1月の中旬に亡くなったのだろう。
この杉原満盛の養子とされるのが、次代・杉原賢盛である。養父同様、伊賀守となった杉原賢盛もまた、引き続き奉公衆兼連歌師として活躍していく。
ただし、ここで『尊卑分脈』によると彼の息子とされるのが、安芸守・杉原長恒なのだが、杉原長恒が『親元日記』の文明13年(1481年)3月23日に亡くなった後、6月13日に杉原七郎と呼ばれる人物がこれを継ぐ。この杉原七郎は文明14年(1482年)8月11日の『将軍家千首』によって杉原政孝と分かるが、この時期にも未だに杉原伊賀入道宗伊、つまり杉原賢盛が連歌師としてあちこちに見られるため、別家とみなせることから、杉原賢盛と杉原長恒が親子なのかは微妙である。
ともあれ、『大乗院寺社雑事記』によると、杉原賢盛は文明17年(1485年)11月28日に亡くなった。『補案京華新集』によると、68歳だったとの事。
ここで登場するのが、延徳3年(1491年)8月27日の『後法興院記』の杉原七郎である。彼は、順当に考えれば、『尊卑分脈』に出てくる杉原孝盛なのだが、となると杉原政孝はどこいったんだよ的な話になるので、『尊卑分脈』があっているかどうかは自身がない。ということで、足利義材の六角高頼討伐に向けて、御護唐櫃警固の任を得たようである。
この杉原孝盛も文化人として活動しており、『後法成寺尚通公記』の永正7年(1510年)9月に源氏物語の講義を受けていたようだ。
そして、『尊卑分脈』によるとその息子となるのが、杉原晴盛である。とはいえ結構間隔があいているので、間に一人いるかもしれない。
『天文八年佐々木亭御成記』によると、天文8年(1539年)の10月に、若公様御走衆杉原七郎が出てきており、杉原晴盛は、近江まで一緒に逃げてくるような足利将軍家の近臣の家に生まれていたのである。『言継卿記』の天文15年(1546年)1月10日には同じく走衆として杉原七郎が出てきており、幕府の京都への帰還をもって、彼の家も戻ってきている。
かくして、『光源院殿御元服記』には、天文15年12月の足利義輝の元服に杉原兵庫助晴盛が出てきている。
ところが、この杉原晴盛は、上野信孝、杉原晴盛、細川晴広、彦部晴直、祐阿、細川某の、反三好派六人衆の一人として名前が挙がってきている。つまり、他の幕臣からも三好長慶にたてつく存在として煙たがられていたのだが、足利義輝は盛大にこちらに与してしまう。かくして、足利義輝の再度の京都没落が生じたのである。
この杉原晴盛は、以後も足利義輝の近臣として何かやっていたとは思うのだが、正直あまり表に出てこないのでよくわからない。かくして、永禄8年(1565年)の永禄の変で討死する。軍記などでは隠れてやり過ごし逃げ出そうとしたところを殺された彼の姿が描かれるが、『言継卿記』によると逃げ出そうとしたところを殺されたのは事実らしい。
この後継者とされるのが、杉原長盛である。『朝倉始末記』には、越前での御歌会に登場する等、歌人の家という記憶は残っていたようだが、『言継卿記』によると、永禄12年(1569年)7月13日に上総介を名乗っていたこの杉原長盛は、織田信長に切腹を申し渡されて、死んでしまった。この経緯は全く分からず、朝倉義景攻めにすら至っていないこの時期になぜ彼が殺されたのか、謎は多い。
ともあれ、こうして京都杉原氏は絶えてしまい、なぜか彼らの末裔としてねねの実家の杉原氏、つまり足守藩などを担った木下氏が、名跡を継いだことになっていく。
信長の野望に出たことなどない。
※備後の伯耆守系統については、Amazonにないので貼れないが、『備後の山城と戦国武士』を参照。
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