杉山悟 単語

スギヤマサトシ

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杉山悟(すぎやま さとし)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1926年1月1日生まれ。愛知県豊田市出身。

岡崎中学に進学。岡崎中には上級生近藤貞雄がおり、一緒にバッテリーを組んだこともあった。その後兵役を経て、岡崎中のコーチとして活動。

中学卒業後、ゆたか産業に入社し、軟式野球部に入部。パワーのある打撃で活躍していたところ、「三河にポンポンと球を飛ばす男がいる」という噂が中日ドラゴンズスカウトのに入り、1948年中日に入団することになった。

初年度から外野のレギュラーに定着し、三振数こそリーグワーストの86をきろくしたものの、持ち前のパワーで11本塁打を放った。

1949年ラビットボール導入に伴い球界全体で本塁打が大幅に増加。杉山もその恩恵を受け31本塁打マークした。

その後やや低迷した時期があったが、1952年には序盤から本塁打を量産、中盤以降ややペースは落ちたが、終わってみれば打率.306、27本塁打、84打点マークし、初の本塁打王タイトルを獲得。ベストナインにも選出された。

1954年打率.273、28本塁打、91打点の成績を残し、打点王ベストナインタイトルを獲得し、チーム初の優勝にも大きく貢献した。ただ、日本シリーズ第1戦西鉄ライオンズ西村貞朗から頭部に死球を受け、その後の試合は欠場した。

日本シリーズでの死球後、インコースの球にが引けるがついてしまい以降成績は下降線をたどる。それでも1956年日米野球では本塁打を放つなど、要所での長打は健在であった。

1958年、入団以来続けていた二桁本塁打ストップし、この年限りで中日自由契約となる。

その後、国鉄スワローズに移籍。しかし、わずか29試合に出場にとどまり1年限りで再び自由契約となる。

1960年近鉄バファロー契約。選手層の薄さから出場機会は多く与えられたものの、打率.210、4本塁打、11打点と結果を残せず、同年限りで現役を引退した。

引退後、中日東映フライヤーズで長くコーチを務めた他、ラジオ解説者として活動したこともあった。

2009年3月27日がんのため死去。享年83歳。

人物・エピソード

快なスイングから本塁打を量産した長距離。安定感を欠く面こそあったものの勝負強い打撃でチームに貢献していた。

当時としては長身の選手だったことから「デカちゃん」の称でしまれていた。

通算成績

打撃成績

通算:13年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1391 5198 4762 593 1184 209 698 105 18 16 377 24 789 93 .249 .307

獲得タイトル・記録

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