李克用とは、唐末〜五代十国時代の武将の一人である。黄巣の乱で功績をあげ、宿敵の朱全忠とともに唐末の二大勢力となった。
李克用の属する沙陀部は本来遊牧民の突厥(テュルク=トルコ)の一部で、突厥滅亡後に吐蕃(チベット)に仕え、さらに唐末の混乱期に山西地方に移住してきた集団だった。李克用の父朱邪赤心が龐勛の乱鎮圧に功績を挙げたことで沙陀部は唐に認められ、朱邪赤心は唐の国性「李」を賜って李国昌と改名し有力軍閥の一つとして知られるようになった。李国昌の第三子として生まれた李克用もまた武勇に優れ、沙陀騎兵を率いて数々の武功をたてることとなる。
唐末最大の内乱である黄巣の乱が勃発すると、父同様に反乱鎮圧に活躍した。朱全忠の裏切りによって動揺した黄巣軍を攻撃することで長安を奪回し、その後も反乱鎮圧の主力軍となって黄巣を追い詰め、884年には現在の山東省で反乱軍を壊滅させ、黄巣を自害に追い込んだ。その後も朱全忠とともに黄巣の残党を鎮圧し、その功績から河東節度使に任ぜられた。
黄巣の乱鎮圧の二大功績者である李克用と朱全忠はそのまま唐末の二大勢力となり、激しい抗争を始めることとなる。しかし武勇に優れていても、脳筋気味である政略・謀略の才のない李克用は唐の朝廷で終始朱全忠に主導権をとられ、中央への進出を阻まれてしまう。また幽州の劉仁恭が彼を裏切って自立したこともあって沙陀軍閥は華北で孤立してしまう。
状況を打開するため、李克用は同時期に南モンゴルで勢力を拡大しつつあったキタイ(契丹)の耶律阿保機と雲州で会談し、一時的に沙陀・キタイの同盟が結ばれた。しかし精強な沙陀騎兵を恐れたためか、結局阿保機は李克用を裏切って朱全忠と結び劉仁恭の勢力に攻め入った。李克用は当初この動きに介入できず後は朱全忠に圧倒されるのを待つばかりかと思われたが、子の李存勗の諫言によって不本意ながらも劉仁恭と再び同盟を組んで朱全忠に対抗したことで沙陀軍閥は危機的状況を脱した。
この戦いの数ヶ月後、朱全忠はついに唐王朝を滅ぼして皇帝を名のり大梁国を建てた(後梁)。この報を聞いた李克用は激怒するも、ここ数年の心労がたたったためか朱全忠の皇帝即位から一年たたずの内に病死した。抜群の武勇を誇る唐末の英雄としては不遇の晩年であったが、結局はその狭隘な人柄が彼自身、ひいては沙陀軍閥自体の孤立を招いたともいえる。
李克用は彼の晩年を悩ました朱全忠・劉仁恭・耶律阿保機をよほど恨んでいたようで、子の李存勗に三本の矢を渡して三人を討ち取るよう言い残したという。李存勗は父を上回る将才を発揮し、父の宿敵朱全忠の梁(後梁)・劉仁恭の燕(桀燕)を征服して父の無念を晴らすと同時に皇帝に即位して後唐を建国した。
彼には色々と逸話が多い。
まず、彼は隻眼(片目が小さかったとか斜視だったという説もある)の猛将であり、初めて独眼竜と呼ばれた武将である。
さらに配下の軍を黒装束で統一していたために、その軍は鴉軍と呼ばれて恐れられていた。
それだけにとどまらず、彼には独眼竜以外にも異名が存在する、その名も「飛虎子」(飛虎児)
現代で言えば中二病と言われかねない様な存在の彼だが、それは全て彼の余りの強さゆえであり致し方なきことである。
掲示板
10 ななしのよっしん
2023/09/06(水) 10:12:20 ID: MLkkBhzCYU
五代十国、ウィキペディアの記述少なくてなんとも・・・
五胡十六国もそうだけど主人公いないと話にしづらいのかな?李克用は主役になれそうだけど・・・黒服で独眼竜ってカッチョイイし
11 ななしのよっしん
2024/02/22(木) 02:37:56 ID: PX1841Hem/
ボイチェビ世界史 第20回「唐王朝の最期」
主役のひとりが、李克用です。
記念すべきタグ動画第一号!!
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12 ななしのよっしん
2024/04/24(水) 09:52:14 ID: PX1841Hem/
李克用の三本の矢
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最終更新:2025/04/08(火) 00:00
最終更新:2025/04/08(火) 00:00
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