李斯(り・し 紀元前280年頃 ~ 紀元前208年または紀元前207年)とは、中国史の秦代の政治家であり、秦の始皇帝の建国した秦王朝の政治をつかさどった丞相(宰相)となった人物である。
始皇帝の数々の政策において大きな貢献を果たしたが、始皇帝の死後、二世皇帝の時に、政争に敗れ処刑された。
この項目では、李斯の子である李由(りゆう)もあわせて紹介する。
紀元前3世紀、中国は長い分裂時代である春秋戦国時代の後半にあたる(中国の)戦国時代の末期にあたった。
李斯は、南方にある国家である「楚」の国の上蔡(ジョウサイ)という都市で生まれた。
李斯は若い頃、楚の国に仕えて、小役人として働いていた。
ある日、役所の便所でネズミたちが汚物を食べているのを見た。また、別の日、食糧の倉庫に入ると、そこのネズミは積まれた穀物を食べていた。
便所のネズミは汚物を食べ、人間や犬におびえて暮らしているのに、倉庫のネズミは穀物を食べ、悠々と生活していた。
李斯は嘆いてつぶやいた。
李斯はすぐに役所をやめて、当時、帝王に仕えるための学問を教えていた「荀子(じゅんし)」の弟子となることにした。荀子の住む「蘭陵(ランリョウ)」は、李斯の故郷の上蔡から数百キロメートルも東にあるが、李斯ははるばると足を運んだ。
荀子は「荀況(ジュンキョウ)」という名で、儒学をおさめていたが、その考えは、「性悪説」と呼ばれる「人間の本性は悪であるから、礼儀や道徳を身につけることで、よい人間になるようにしなければならない」という儒学にしては特殊な学説をとなえ、天下をおさめる新たな道を教えていた。
荀子はまた、完全におとろえた周王朝による形式上の統治は求めておらず、この乱世をおさめる新たな帝王による統治を望んでおり、その帝王を助ける学問をめざしていた。
現実的な李斯にはかなり性に合う学問である。
ただ、李斯は荀子の学問が儒学の範囲を超えないもので「礼儀や道徳」での統治を求めていることに不満を感じた。それでは、人を本当の意味で、統治できない。それよりも「法律と賞罰」によって人は統治するものだという意識が強かった。
この法律を重視する意識は、李斯とともに荀子に学んだ韓非(カンピ)も同感していた。韓非は韓の公子(王族)の一人だが、天下と韓を救う学問を求めていた。彼は「どもり」があり、話すことが下手であったが、法律の効果を訴える文章力とその理論は、李斯をはるかに上回るものがあった。
李斯は荀子に習った学業が終わると、故郷の楚の国は王が愚かであり、東方にある諸国は弱く、西にある秦国の勢いがあるため、秦に仕えようと考えた。
そこで李斯は荀子にいとまごいをして、西の秦の国に仕えることを告げる。この時、李斯は「男子たるもの卑賎より大なる恥はなく、貧困よりはなはだしい悲しみはありません」と荀子に告げている。
荀子は、「秦は勝利し続けているが、仁義がなく、いつも、各国が連合して攻めてこないか、おびえている。本当の強さではないのだよ」と李斯をたしなめたが、李斯の意思は固かった。
李斯には荀子のその言葉を秦にくつがえさせることができる方策もあった。
李斯は秦へと向かった。
紀元前247年、李斯が秦の国に来た時、ちょうど、秦王の嬴政(エイセイ、後の始皇帝)が即位した時だった。しかし、嬴政はいまだ13歳である。これでは、直接、訴えることはできない。
そこで、李斯は、秦の相邦(しょうほう、秦の宰相)である呂不韋(リョフイ)の食客にしてもらった。呂不韋は大商人出身の人物であり、嬴政の父を秦王にした大きな功績があった。
李斯の才能はすぐに呂不韋に認められ、嬴政の近くで仕える「郎(ろう)」の職に任じてもらう。嬴政はまだ若いが、とても賢く、理想主義なところはなく、法律や謀略に理解があった。まさに、李斯が求めていた君主である。
李斯はすぐに嬴政に自分の意見を述べた。
「じっくりと機会を待っているだけでは、その機会を逃してしまいます。こちらから、情け容赦なく、積極的に相手の過失や欠点につけこむべきです。
いまや、秦は他の六国(楚、斉、燕、趙、魏、韓)を圧倒して、服従させています。このまま、六国を滅ぼし、天下を統一されてください。各国が国力を回復して、合従(がっしょう、連合して秦に対抗すること)してからでは、天下を奪えません」
さらに、李斯は具体的な方策を嬴政に告げた。
といったものであった。
嬴政はこの策略を気に入り、李斯を「長史(ちょうし)」に任命する。李斯の策略は見事に成功した。
やがて、李斯は「客卿(かっけい)」という他国出身の大臣に任じられるようになった。
紀元前237年、呂不韋が失脚する事件が起きた。
この時、反乱を起こした嫪毐(ロウアイ)という人物と、彼を推薦した呂不韋は秦国の出身ではなく、外国人であった。そのため、秦の王族出身の大臣たちは外国人の追放を嬴政に進言する。
嬴政は、「逐客令(ちくかくれい)」というものを出し、外国人は秦国から追い出されることになった(『史記』李斯列伝では、紀元前239年頃の鄭国(テイコク)という人物のスパイ疑惑事件が「逐客令」のきっかけとするが、学説により『史記』秦始皇本紀に従う)。
その中には、楚の国出身である李斯も含まれていた。
李斯はすぐに嬴政に上書した。
「秦国では古くから名君が外国人を登用して大きな発展を果たしてきました。また、秦国にある楽器、宝物、美女は外国産ばかりです。それなのに、外国の人材だけを追放するとなれば、秦は楽器、宝物、美女は大事にするが、人材は軽く見ていることになりましょう。
泰山は全ての土を受け入れたからこそ大きくなり、黄河や大海は全ての水を受け入れたからこそ深くなりました。かつての王者も全てを差別しなかったからこそ、敵となるものがいなかったのです。
しかし、外国のものを追放して、六国で活躍させ、外国の人材を秦に仕えようとさせないのは、敵を利するだけです。これでは、秦国の安寧は保つことはできないでしょう」
嬴政はこの上書を読んで、すぐに「逐客令」を撤廃させる。嬴政は、人を派遣して、東に向かっていた李斯を連れ戻した。李斯は、「客卿」にもどることができた。
この李斯の理路整然とした上書は後世に名文と称えられ、約700年後に『文選(もんぜん)』にまで採用されている。
この時から、嬴政は李斯をさらに厚く信頼するようになった。
李斯は、「廷尉(ていい、秦の法律や裁判をつかさどる大臣)」に昇進する。
紀元前233年、秦の国力は年々、高まり、いよいよ天下統一の機運が高まってきた。2年前には李斯の恩人の呂不韋も自害に追い込まれていた。呂不韋には悪いが、これで秦は懸念なく、天下統一に乗り出すことができる。
李斯はまずは小国である韓を滅ぼし、諸国をおびやかすように進言する。六国のうち、手ごわいのは、楚と趙と斉の3国であるが、斉は秦の同盟国となっていた。韓はほぼ滅亡寸前であり、秦に臣従するための献上品さえ差し出すことができないようになっていた。
ほとんど言いがかりであるが、これを理由に韓を滅ぼせば、諸国はおびえて連合をやめ、天下統一の機運はさらに強まる。秦では、六国を討伐することこそ、「正義の戦争」であるという声が強まっていた。
だが、この時の嬴政の目にとまった書物があった。李斯とともに荀子に師事した同門の韓非の記した『韓非子』である。嬴政はその中でも、「孤憤(こふん)」と「五蟲(ごこ)」が気に入り、「これを書いた人物と知り合うことができたら、死んでもいい」と言い始めた。
李斯はやむをえず、この書物が同門の韓非が記したものであることを嬴政に告げる。嬴政はこれを聞くと、韓を攻めることにした。ただし、韓を滅ぼすためではなく、韓非と会うためであった。
思惑通り、韓非は秦への和平を依頼する使者となった。嬴政は、喜んで韓非を秦の都である咸陽(カンヨウ)へと迎える。嬴政は韓非を気に入り、帰そうとはしなかった。
韓非もまた、秦の天下統一のための策略として、韓を攻めずに、楚と組んで趙を攻めるように進言する。
これは、李斯にとって、危機であった。韓非は、会話は苦手だが、文章と理論は自分をはるかに越える才能がある。荀子の同門で、さらに法律と謀略を重視する思想も似ている。しかも、韓非は韓を守るために、同門である自分の策を否定してきたのだ!
李斯は、韓非と両立できないことを悟り、韓非に嬴政から与えられた信頼と寵愛、官職を奪われる恐れもいだいた。
李斯は嬴政に韓非の意見を聞かないように上言し、韓非を「韓の利益のために献策している」とまで名指しして強く批判し、自分の当初の進言通り、秦に逆らう危険のある韓を攻めるように説く。
さらに、李斯はみずから韓へ使者としておもむき、韓王に会見して、韓王を説得して秦まで連れてきて、韓王を捕らえる約束までする。
これを聞いた嬴政は、李斯を韓へと派遣する。嬴政は韓非の理論に心酔しているが、個人としては、長年、仕えてきた李斯に対しての信頼は相変わらず強い。
李斯は韓におもむいたが、韓王は会見しようとはしなかった。身の危険を感じた李斯は、韓王に対し、秦と韓の間の同盟を破り、李斯を処刑したら、恐ろしい結果を招くと上書する。結局、李斯はそのまま、秦に帰国することになった。
秦にもどった李斯は嬴政に、韓非のことを中傷することにした。韓王を捕らえる計画が失敗に終わった以上、対立する韓非の方を始末せねばならない。
「韓非は韓の公子ですぞ。結局は韓のためを考え、秦のためにはならないでしょう。かといっていまさら秦から帰しても、災いの種をまくもの。特別に法令を適用して、処罰することがいいでしょう」
これに、韓非と対立していた姚賈(ヨウカ)という人物も、李斯に同調する。
また、李斯の言葉は完全なる中傷ではない。元々は、韓非は韓の公子であるため、韓の復興にかけており、韓王を諫めることが多かった。韓非の策略は、秦のためにみせかけてはいるが、韓の利益にもなる策略で、韓のことを考えての策略が本心かもしれない。
頭はいいが、猜疑心が強いところがある嬴政は、李斯の言葉に同意した。ただ、嬴政は、韓非の処刑までは思いきれず、韓非を投獄して、訊問するために役人をつかわすことにした。
李斯は手を回して、人を使わして、韓非に毒薬を送って自害を迫る。韓非は嬴政に会って弁明したがったが、その要求は取り上げられず、韓非は雲陽(ウンヨウ)という土地で、自害することになった。
嬴政は後から韓非を獄につないだことを後悔して釈放の使者を出したが、すでに韓非は自害していた。
なお、この話は『韓非子』第二「存韓」と『史記』秦始皇本紀・韓世家・韓非列伝によって総合したものである。
『史記』では、韓非と李斯と韓を攻めることへの対立が記されていないため、「李斯が保身や地位の保全、個人的な才能へのねたみのため、同門の韓非を中傷し、さらに、だまして自害に追い込んだ」という印象だけが残っている。そのため、李斯の今日までの悪いイメージにつながっている。
それから、秦は天下統一へと動き出す。この間の李斯の働きについては残っていないが、廷尉としての業務を行いながら、使者を送っての買収や暗殺などの策謀を行っていたと思われる。
秦は、ほぼ順調に、韓・趙・魏・楚・燕・斉の順番に滅亡させ、紀元前221年に天下統一を果たす。李斯が秦に仕えて、30年近くが経っていたが、ようやく実った。
秦王となった嬴政は、天下を統一した以上は、「王」という称号ではふさわしくないと考え、新たな統治者の称号を群臣に求めた。
李斯は廷尉として、参加し、丞相(じょうしょう、宰相)の王綰(オウワン)、御史大夫(ぎょしたいふ)の馮劫(フウキョウ)とともに、考え出す。
いにしえの帝王は、実際はそれほどの土地を有していたわけではなく、天下に領地を有した諸侯の盟主となっていただけにすぎない。嬴政は彼らとはわけが違う。「帝王」でも、遠く及ばない。それゆえにそれを越えるものとして、「泰皇(たいこう)」と称号を嬴政に提案した。
また、李斯たちは、天帝から天下を治める命令を受けたものとしての「天子」である嬴政の命令は「制(せい)」や「詔(みことのり)」と称し、自称として「朕(ちん)」とすることもあわせて提案する。
嬴政は、称号は「泰皇」とはせず、「皇帝」とするように命じたが、それ以外は李斯たちの進言の通りにすることを認めた。
これにより、嬴政は、後世において、「始めての皇帝」である「始皇帝」と呼ばれるようになった(これからは嬴政ではなく、「始皇帝」と表記する)。
続いて、王綰らは、始皇帝に向かって進言する。
「諸侯は滅ぼしましたが、斉・燕・楚の地は遠くにありますので、そこを治める「王」を置かれないとうまく統治できません。どうか、公子の方々を王としてお立てください」
始皇帝はこの建議を群臣に議論させる。その中には李斯もふくまれていた。
群臣たちは、王綰のこの進言に同意したが、李斯は反対意見を述べた。李斯には天下の統治に対する明確なビジョンがある。
「周王朝では、各地に一族を王として封じ、領地を与えましたが、時代が過ぎる(春秋戦国時代となる)と疎遠となり、互いに攻めあうようになり、周の王はとめられませんでした。
今、天下は陛下(始皇帝)のお力によって、全ての土地が(秦が直轄で官僚を派遣して治める)郡県となったのです。公子の方々や功臣には、高い爵位や褒美を与えれば充分です。これで統治が楽になります。これ以外の意見は採用されないでください。
これは、国家安寧の方策です。諸侯を置いてはいけません」
群臣に対抗する李斯の強い意見であったが、これが始皇帝の意にかなった。始皇帝は宣言した。
「天下が終わりのない戦乱に苦しんだのは、王や諸侯がいたからである。祖先の加護により、天下ははじめて治まった。王や諸侯を置くことは、戦乱のもとを育てることになる。それでは、国家の安寧や休息は難しい。廷尉(李斯)の意見が正しいようである」
そこで、始皇帝は天下を36の郡に分け、それぞれを統治する官僚を派遣することにした。これで、秦は全土で「郡県制」を行うことになった。
「郡県制」とは、全ての土地において、その土地を代々支配する領主をおかずに、中央の命令で統治するための官僚を派遣して、中央で全て支配する制度のことである(なお、王綰が提案した「部分的に王が治める」制度は、「郡国制」と呼ばれ、秦王朝の次の王朝である漢王朝では、これが採用されることとなる)。
また、民衆は新たに、「黔首(けんしゅ)」と一律に呼ぶことにした。これは、かつての秦人も六国人も秦王朝のもとでは同等であるということを示すための措置であった。
その他、始皇帝の天下統一のための政策を進めていった。李斯は秦の大臣として、始皇帝の政策の実施につとめ、「天下の統一した法律の制定」や「文字の統一」などでも貢献する。李斯は、やがて「卿(けい)」に任じられた。
紀元前219年、李斯は、秦の武将であった王賁(オウホン)やその子の王離(オウリ)とともに、始皇帝への2回目の東方への巡幸に同行する。なお、この時は、丞相が王綰と隗林(カイリン)という人物であるため、李斯はいまだ、丞相に任じられてはいなかったようである。
その後、李斯はついに左丞相に任じられる。さらに、爵位も最高位の徹侯(てつこう)が与えられた。李斯は秦の臣下の中でも頂点にのぼりつめることができた。
李斯は始皇帝が行った「4回に及ぶ始皇帝の大規模な巡遊」、「全国への離宮の造営」、「匈奴と百越への大規模な外征」全てに大きく寄与しており、功績は大きかった。もはや、始皇帝の「片腕」、いや、「頭脳」と言ってもいい存在となっていた。
李斯は、善政があれば、始皇帝のおかげだとして、憎まれるようなことは自分の責任だとした。そのため、始皇帝の信頼も厚かった。
紀元前213年、南北の外征も一応は成功をおさめ、始皇帝は咸陽の宮殿で宴会を開き、群臣たちを集めた。当然、李斯も出席する。
この宴会の席で、「僕射(ぼくや)」の周青臣(シュウセイシン)は、始皇帝の業績と仁徳をたたえた。
だが、始皇帝の顧問の学者である「博士」の淳于越(ジュンウエツ)という人物が、突如、始皇帝に提案してきた。
「殷王朝や周王朝を見習って、始皇帝の王族や功臣を各地に封じられますように。そうしなければ、反逆の臣があらわれた時、陛下(始皇帝)をお救いできるものがおりません」
これは、以前の王綰が提案した「郡国制」の議論を蒸し返したものであった。おそらくは、淳于越は秦の法律が厳しすぎて、脱走者が相次ぎ、各地で小規模とはいえ盗賊が増大していることを知っており、よりよいと思われた「郡国制」の提案を行ったものと思われる。実際に、始皇帝に対する暗殺未遂事件も起きていた。
李斯は、その盗賊たち(劉邦(リュウホウ)、黥布(ゲイフ)、彭越(ホウエツ))や暗殺者(張良(チョウリョウ))が、歴史に大きな名を残すなどとは夢にも思わず、やたらと昔のことを理想とする儒学にかぶれた学者たちが順調な秦の政策を乱すものとしかとらえなかった。
始皇帝は議論をするように群臣に命じたが、李斯は断固として言い放った。
「時勢が変化しているのに、夏王朝、殷王朝、周王朝を見習う必要はありません。学問を知るものが秦の政策を批判し、民心を乱しています。これを放置するわけにはいきません。禁止すべきです。
まず、歴史書は秦の記録以外は全て焼き捨てましょう。また、秦の政府や博士が有するもの以外は、儒家や諸子百家の書物も全て役所に差し出させ、焼き捨てます。
その内容を論じるものは処刑、その内容で秦の政治を批判するものは一族全て皆殺し、官吏で検挙しないものは同罪としましょう。書物を差し出さないものは、労役刑です。
始皇帝はこの李斯の提案を認めた。これが後世に悪名高い「焚書(ふんしょ)」である。その狙いは、秦国民を愚民化し、秦への全ての批判を封じ、全ての物事は秦の法律で決めることにあった。
実際は、秦の政府や博士が所有するものは除かれたとはいえ、李斯が焚書を提案した対象には、師であり、自分自身が学んだ「荀子」の書物さえもふくまれている。李斯はそこまで思い切った。
また、元々、淳于越の提案は「郡国制」を提案したに過ぎない。それで、このような結論になるということは、全ての意見を弾圧したに等しいことであった。
確かに、李斯たち法律で国を治めようとする「法家」は、韓非が『韓非子』で主張していたように、法家以外の諸子百家の意見は国を乱すだけで不要であるという考えは強い。だが、始皇帝と李斯のこの政策はもはや、「恐怖政治」や「愚民政策」といってもいいものであった。
翌年、紀元前212年には始皇帝は秦の政治批判を行っていた疑惑のあった儒者たちを生き埋めにしていた(坑儒(こうじゅ))。これで、誰も意見を言うものもなくなった。
始皇帝の信頼の厚さを再確認し、全て思い通りにいった李斯は、得意気であったかもしれない。しかし、これが彼の転落の契機であり、後世に始皇帝とともに強い批判を受ける理由になることは、まだ知らなかった。
李斯の長男である李由は、秦の東を守る三川(サンセン)郡の郡守となり、息子たちは全て秦の皇族の女性と、娘たちも全員、皇族の男性と婚姻関係を結んでいた。これで、李斯と一族の将来も安泰のはすだ。
この頃の、仕事の休みに、李斯はお気に入りの黄犬をつれ、息子たちとともにウサギ狩りを楽しんでいたと思われる。
李斯は、李由が帰って来た時の酒宴において、来客の余りの盛況ぶりにかえって不安を感じる。
師の荀子は「物事の甚だ盛んなることを禁ず(物事が余りにも盛況すぎるだけはやめるべきである)」と語っていた。ただの平民に過ぎない自分が富貴を極めたら、後は衰えるだけではないか。そういった心配がなぜか、頭をよぎった。
紀元前210年、李斯は、始皇帝の5回目の巡幸に同行する。これには、始皇帝の末子の胡亥(コガイ)や、始皇帝に仕える宦官(この時代は側近程度の意味で、去勢した男性とは限らない)の趙高(チョウコウ)も始皇帝の玉璽を預かる役割として同行してきた。
趙高はかつて、李斯とともに、秦の「文字の統一」において貢献した人物である。そのため、李斯とはすでに親しかったと思われる。
だが、道中、始皇帝の容体は急変し、沙丘(サキュウ)という地で死去する。始皇帝は、長子の扶蘇(フソ)に後を継がせる遺言を残して、趙高にその手紙をつくられていた。
始皇帝の死は、李斯と趙高、胡亥、そして、数人の宦官しか知らないこととなった。李斯は、咸陽に帰るまではと、始皇帝の死をかくして、そのまま巡幸を続けさせた。
だが、始皇帝の遺言はいまだ、趙高の手にあり、はるか北の地で蒙恬(モウテン)率いる軍を監督している扶蘇のもとには届けられていなかった。
趙高はこの機会を利用して、二世皇帝の地位を扶蘇から奪い、胡亥を立てる計画を立てていた。趙高は、胡亥を篭絡(ろうらく)すると、李斯を説得に来た。
趙高「次の皇帝をどなたにするかは丞相(李斯)と私しだいです。どうしましょうか?」
李斯「それは臣下が口にすべきことではない」
趙高「秦では罷免させられた丞相や将軍は、二代続いたことはありません。皆、殺されています。扶蘇さまが皇帝に即位されれば、かならず、蒙恬を丞相に起用されましょう。あなたは、処刑されるでしょう。胡亥さまより優れた皇子などおられず、次の皇帝にふさわしい方でございます。ご決断ください」
李斯「私は陛下のご遺言に従うまでだ。一平民に過ぎない私が、丞相に抜擢され、子孫も繁栄している。陛下は私に託していただけた。なぜ、背けようか。もう、何も言うな」
趙高「物事には決まったやり方などありません。私に同意いただだけば、丞相はずっと栄達されたままで、ご子孫も繁栄し続けるのです。同意していただけないと、丞相だけでなく、ご子孫の運命も恐ろしいことになりましょう」
趙高の言葉に心が揺れ動かされていた李斯は、「どこに命運を託せばいいのだ」と叫び、ついに趙高に同意する(沙丘は趙高の故郷である趙の地であり、趙高が李斯を呼んだ時、李斯が同意しなければ、李斯を殺害する用意もあったであろうと推測する研究者もいる)。
さっそく、趙高は、自筆の偽手紙を書き、扶蘇と蒙恬に自害を命じる使者を出す。使者は胡亥の食客(しょっかく)が選ばれた(刺客の役割もあったと思われる)。
扶蘇はその手紙を読むと、自害し、内容を疑い自害しなかった蒙恬は使者が逮捕し、牢獄につながれた。「使者が帰ると、李斯は胡亥・趙高とともに喜んだ」と史書に記されている。李斯はもうひきさがれないところに来ていた。
始皇帝の巡幸が洛陽に帰ると、胡亥は皇帝に即位し、二世皇帝となった。丞相は当然、李斯である。
これで、将来の心配はなくなった、はずだった。
紀元前209年、胡亥は、始皇帝が行ったことにならって、東方への巡幸を行う。この巡幸には、李斯も同行した。道中では、始皇帝の業績と功徳をたたえて刻んだ「始皇七刻石」全てにさらに文字を刻んで追記する。この「始皇七刻石」の筆跡は、全て名文家で知られる李斯がうけおった。
ここまでは大きな問題はなかった。
しかし、陰謀で即位した胡亥は、後ろ暗いことと若いこともあって、兄弟たち皇族や大臣たちも警戒していた。そこで、趙高の進言によって、法律を変え、罪をつくって重刑を適用した。
そのため、蒙恬とその弟の蒙毅(モウキ)は処刑され、多くの公子と皇女もまた処刑され、その財産を没収する。
李斯が、この計画に加担したかは明確ではないが、李斯は息子や娘が皇子や皇女を婚姻関係にあるため、このことは李斯が知らない間で、胡亥と趙高の間で決められ、決起されたものと思われる。
早くも、李斯は胡亥と趙高によって裏切られてしまった。栄華を極めていたはずの李斯の一家は多くの悲劇にあう。
しかし、李斯も参画してつくった秦の体制は、皇帝が絶対であり、法の適用もなく、諫めることさえなかなかできない。しかも、以前の「焚書」や「坑儒」のために、批判とみなされれば、いくらでも処刑できることが皇帝になら許されている。胡亥に、武力をもって抗議できる強い皇族も秦では存在しない。
胡亥を皇帝に立てたことを含めて、これは全て李斯が招いたことであった。
胡亥と趙高は法律と刑罰を厳しくして、恐怖政治を行うことにした。主だった臣下は処刑され、群臣たちには謀反を考えるものも増えていた。さらに、胡亥は己と秦の権威を高めようと、豪勢な阿房宮(あぼうきゅう)などの工事を行った。税と労役は増えるばかりである。
李斯は政務に追われていたが、本当の悲劇はこれからだった。
紀元前209年、秦の暴政と法律の厳しさに耐えかねて、陳勝(チンショウ)と呉広(ゴコウ)という人物が李斯の故郷であった楚の地で反乱を起こした(陳勝・呉広の乱)。この反乱軍は咸陽の近くまで攻め込むほどの勢いがあった。
この反乱は、やがて、秦が将軍に任じた章邯(ショウカン)によって鎮圧されるが、各地で起こった反乱はもう止めようがなかった。反乱者は、項梁(コウリョウ)、張耳(チョウジ)、陳余(チンヨ)、田横(デンオウ)、劉邦など李斯の知らない名前ばかりであった(張耳と陳余だけは名前を聞いたことがあったかもしれない)。
さらに、李斯の長男であり、三川郡守であった李由は、反乱を鎮圧できない罪に問われていた。反乱が起きた罪もまた、李斯の責任に負わされようとしていた。
紀元前208年、諫めることも許されなかった李斯は、ようやく、胡亥に会うことができたが、胡亥は「朕なりの考えがあってのことだ。朕は、古代の帝王たちのように苦労したくはない。快楽を極めながら、天下を治めたいがどうしたらいい?」などと、たずねてきた。
この胡亥が、諫めなど聞き入れるはずもない。こうなった以上は、自分と息子の保身をはかって、胡亥に媚びて、好意を得なければならない。李斯はそう考えて答えた。
「名君とは、臣下を監視し処罰できる「督責(とくせき)の術」を駆使できる君主のことです。「督責の術」を使えば、臣下は力を尽くして職務に励むでしょう。こうすれば、君主は、自らの楽しみを極めながら、国家を富ますこともできるのです」
李斯は、このことを、胡亥が心酔しているあの自分が死に追いやった韓非の言葉や、法家の先輩である申不害(シンフガイ)の言葉を引用して、長々と理論武装して、訴えた。
李斯には、もう「法家」の誇りはなかった。先達の「法家」の言葉も、同門のライバルの言葉も、自分の保身のための同調の意見を正当化するために、ただ利用した。
胡亥は予想通り、大喜びした。胡亥は自分の行いが父・始皇帝の教えに反しているかだけは少しは気にしていた。だが、その父が信任した李斯が、現在の胡亥の行いを肯定した。もう、胡亥が気にとがめる必要があるものはなにもない。
胡亥は「督責の術」と称して、さらに税を重くし、刑罰を厳しくして、それを実行する役人を高く評価するようになった。
だが、胡亥は趙高の進言により、大臣ともあわなくなり、宮中にこもるようになった。政治は皇帝の代理として、趙高が行うようになった。
胡亥に媚びた李斯であったが、反乱はおさまらないのに、阿房宮の工事は再開され、労役は増える一方であった。このままでは秦王朝は本当に滅亡してしまう。李斯は気を改めて、胡亥を諫めようと考えていた。
その時、趙高に呼び出される。さすがに、趙高も自分と同じ考えに至ったようだ。李斯はそう考えた。
趙高「陛下(胡亥)をお諫めしたいのですが、私は身分低く、できません。丞相にお諫めいただけませんか」
だが、これも趙高の罠であった。趙高の狙いは李斯の失脚であった。
趙高は、胡亥が美女をはべらせ、酒宴を楽しんでいる時をねらって、李斯に人を送って、拝謁を願わせる。これが三回続いたところで、胡亥が激怒する。
趙高は、「丞相(李斯)は王になりたいのでしょう。盗賊の陳勝たちは丞相の故郷の近くの出身者ばかりの上、丞相の子である李由は討伐しようとしませんでした。李由と陳勝は通じていると聞いています。また、丞相の権勢は、宮中の外では陛下(胡亥)より大きくなっています」
胡亥はすぐに証拠を見つけようと、李由のいる三川郡に使者を送り、陳勝との通謀の事実を調べさせた。
李斯はこのことを聞いた。胡亥には会えないため、上書して趙高を訴えることにした(以下は文書による会話)。
李斯「趙高は、陛下のお側(そば)にあって、賞罰を行うところ、陛下と同等の権力を有しています。今のうちに処置しておきませんと、反乱が起きるのではないかと心配しています」
胡亥「趙高は、元々はただの宦官だ。また、趙高は忠義と信義にすぐれた賢人である。朕は若くて、政治に慣れていない。そなたは年老いている。趙高に頼るしかないではないか。疑うに及ばぬ」
胡亥は、李斯が趙高を殺害しないかと恐れて、このことを趙高に告げる。
趙高は「自分が死ねば、李斯は秦を乗っ取るだろう」と胡亥に告げる。胡亥はすぐに李斯を逮捕させた。
李斯はついに逮捕され、枷(かせ)をつけられ、牢獄につながれた。
李斯は、胡亥が無道の暗君でどれだけ諫めても無駄であり、秦の滅亡はまぬがれないことを悟ったが、全ては遅かった。
※史記の別箇所では、胡亥の過大な労役と重税を、右丞相の馮去疾(フウキョシツ)と将軍の馮劫(フウキョウ)とともに諫めて、捕らえられたことになっている。牢獄で、馮去疾と馮劫は自害している。
胡亥は趙高に命じて、李斯と李由の謀反の罪状を調べさせる。李斯の一族と食客は全て、牢獄につながれた。
李斯に対して、拷問が行われた。李斯は、笞(むち)や杖で千回も打たれる。老齢の李斯は拷問に耐えかねて、えん罪である謀反の罪を認めてしまう。
自害は可能ではあった。しかし、己の功績と弁舌の才能、謀反がえん罪であることから、胡亥への上書の機会を待っていた。自分の最後の訴えを見たら、胡亥も心をあらためて放免するかもしれない。
李斯は最後に獄中から上書した。
李斯は己の罪といいながら、今までの己が秦に行った功績を述べ立てることにした。
1 諸国の臣下を買収し、軍備に協力し、天下統一に貢献したこと
4 社稷(しゃしょく)と宗廟(そうびょう)を造営し、皇帝の賢明さを示したこと
5 器物の文様や度量衡を統一して、文章として布告して秦の栄光を高めたこと
6 皇帝専用の馳道(ちどう、大きな道路)や施設を建設し、皇帝の思いのままになるように天下に示したこと
7 刑罰をゆるめ、租税を軽くして、民心を得たこと
以上であった(7番目は意外であるが、史書に残っていないだけで、始皇帝の治世ではこのようなことも行われたことがあったかもしれない)。
だが、趙高はこれを見て、「罪人が上書などできようか」と破棄した。
※破棄といいながら、内容が残っているのは不思議であるが、李斯の遺言代わりに趙高がとっておいたか、あるいは、李斯の気持ちを代弁したい誰かの文章を『史記』の著者である司馬遷がとっておいたのかもしれない。
趙高は自分の食客たちを官僚の一人であるといつわって、李斯の取り調べをさせて、訊問を繰り返す。李斯が事実をありのままに述べると、彼を笞うたせる。
ある時、胡亥が使者を派遣して取り調べを行うと、李斯は同じものと思い込んで、罪状を認めてしまう。使者が帰って報告すると、胡亥は喜んだ。
「趙高がいなければ、丞相(李斯)にだまされるところであった」
胡亥は、さらに、三川郡守の李由の取り調べを行おうとしたが、李由はすでに項梁の武将である項羽(コウウ)と劉邦と戦い、戦死していた。
ついに、李斯の謀反の罪は決まり、刑罰がくだされた。
李斯にはまず、五刑が行われた。李斯の顔には無残なイレズミがなされ、続いて、鼻がそがれた。さらには、足まで斬られた。そして、腐刑(男子の股間をそぐ刑罰)がなされる。五刑の最後は死刑である。死刑も、苦しみが強い「腰切り」であった。
李斯は咸陽の市場での処刑が決まった。李斯は監獄が出される。そこで、自分とともに処刑される次男の李執(リシツ)に会う。二人ともに市場まで引かれていく。
父子ともに号泣する。
李斯と李執が処刑されると、一族もまた、皆殺しとなった。
李斯の死刑は紀元前207年の冬とする『史記』の別箇所の記述もある。
こちらの方が正しいとすれば、胡亥と趙高の死はわずか9か月後、秦の滅亡も1年以内のことであった。
「李斯は、平民の出身でありながら、諸侯を遊説して、秦に仕えて、他国につけいる策略をさずけて始皇帝を補佐して、天下統一を成し遂げさせた。李斯は最高の地位につき、重用されたといっていい。
しかし、主君の欠点を補うことをせず、ひたすら媚びへつらって、権力を握って刑罰を厳しくした。さらに趙高の陰謀に加担して、扶蘇を廃して、胡亥を立てた。諸侯が反乱するに至って、主君を諫めようとしたが本末転倒というものだ。
世間では、李斯が忠義を尽くしながら、五刑に処されたと考えている。しかし、その根本を考えるなら、私の見方は俗説とは異なる。
さもなければ、李斯の功績は周王朝に大きな功績のあった周公旦(シュウコウタン)や召公奭(ショウコウセキ)に並ぶものであったろう」
と、ある程度は能力と業績は評価しながらも、厳しく評価している。
ただ、これを読むと、司馬遷の生きた時代は、李斯のことを「忠義を尽くした秦の宰相」という見方も多くの人からされていたようである。
近年、発見された司馬遷と同時代の「史料」の一つと思われる『趙正書』という書物が存在するが、その中では李斯は、始皇帝から胡亥を託されて、その後は胡亥を諫めて処刑された忠臣とされている(『趙正書』では後継者を扶蘇から胡亥に代える謀略は行われてはいない)。
『趙正書』の李斯は、最後に「今まで存在したものを変えたら、滅びます。秦王(胡亥)は、みずから一族を滅ぼし、社稷を壊し、法律を変えて、今まであったものを乱して、改革を求めておられます。李斯は、秦の衰退を目の当たりにしているのです」と、胡亥を諫めた上で、処刑されている(この李斯の発言は、秦の改革に尽力した『史記』の李斯の発言にはそぐわないところがある)。
※もっとも、『趙正書』は歴史書なのか、教訓をふくんだ歴史物語なのか、分からないところがある。また、司馬遷がそういった種類の書物をおそらく読んでいながら、あえて、否定しているところを見ると、見つけてきたであろう別の「史料」の方が、信ぴょう性があると判断したらしいところは注意すべきである。
創作の中の李斯は、「老獪であり、政治能力が高く、始皇帝からの信任は厚いが、小心なところがある人物」に描かれることが多い。
李斯の長男。
本文にある通り、秦の皇女をめとり、秦の三川郡守に任じられていた。
陳勝・呉広の乱では、三川郡の治所である滎陽(ケイヨウ)に陳勝の仮(副)王である呉広が軍を率いて攻めてくるが、守り抜いた。
しかし、その間に陳勝配下の将軍である周文(シュウブン)が、函谷関(カンコクカン)を落として、咸陽に迫る。
秦では、章邯の軍が周文を破り、戦死させる。呉広も部下に殺され、滎陽を囲んだ陳勝の軍は章邯によって破られた。
だが、守備に徹したことが、「盗賊」に過ぎない陳勝たちをのさばらせたとして、秦では問題となった。
※状況と兵力が分からないので、李由が優れた判断をしたのか、臆病であったのかは不明。
このことによって、父の李斯の立場も危うくなった。また、趙高によって、「陳勝と内通していた」と胡亥に告げられたため、謀反の疑いがかけられる。
李由はどういった理由か不明であるが、楚の項梁の軍と戦うために、雍丘(ヨウキュウ)という土地を攻める。
ここで、項梁配下の項羽と劉邦の軍という死にフラグでしかない相手と交戦し、劉邦配下の曹参(ソウシン)によって討ち取られる。
などと、様々な想像ができる人物である。
創作でも、最後の敵が、項羽と劉邦といった、交戦中は不幸以外なにものでもないが、ある意味相手に恵まれているため、登場することが多い。
李斯が大きく貢献した秦の制度については、不明な部分が多いが漢の制度は秦の制度を継承し、そのことについて史書にも記されているため、かなりの部分を再現して知ることができる。
秦の都である咸陽には、皇帝が政務を行う宮殿と多くの役所が存在していた。
秦王朝の頂点に立つのはもちろん、「皇帝」である。皇帝は最高の権力を有し、秦全土の主要な官僚は全て皇帝みずから任命した。全ての役人は、皇帝の意思を反映して、職務を遂行する必要があった。
秦王朝では、中央集権的な政治体制をとられ、官僚の世襲は許されなかった。
皇帝のもとにある中央政府はピラミッド式の官僚制度がとられていた。
その中心となるのが、「三公九卿」である。
「三公」は、丞相(宰相)、大尉(軍事長官)、御史大夫(副宰相)の3つであり、丞相は「左丞相」と「右丞相」の2名がおかれることもあった。また、大尉は、常設はされなかったようである。
「九卿」は、奉常(ほうじょう)、郎中令(ろうちゅうれい)、衛尉(えいい)、太僕(たいぼく)、廷尉、典客(てんかく)、宗正(そうせい)、治粟内史(ちぞくないし)、少府(しょうふ)であったとされる。
李斯がついていたことがある廷尉は、「裁判と法律」をつかさどっていた。治粟内史は「国家の穀物と財物」、郎中令は「皇帝の側近の統括と護衛」、衛尉は「宮中の護衛」をつかさどった。
「三公九卿」はそれぞれが行政機関の長でもあり、日常の業務はそれぞれが処理して、重要な事柄は宰相の指示を仰ぎ、皇帝が決定した。
また、秦の中央部関中の重要地域にあたる「京師(けいし)」は、「内史(ないし)」という行政区画となり、その長官も「内史」と呼ばれた。京師の軍事と治安は、中尉(ちゅうい)が担当した。
秦は地方の郡が36郡設置され、これは次第に増加した。郡の下にはいくつかの県と呼ばれる町があり、郡はその県をまとめて、統括した(日本の現在の県と郡(市町村)とは逆の関係にあたる)。
それぞれの長官となる郡守(ぐんしゅ)が任じられた。その副長官は、丞(じょう)と呼ばれ、郡全体の行政を統括し、多くの文書や実務を処理する官吏が部下として存在した。郡守は、郡を治める人口の多い県に赴任した。
また、郡守を補佐して、郡の軍事をつかさどるものとして、郡尉(ぐんい)がいて、これにも副官として「丞」がいた。郡守のいる役所は、郡守とは別の交通の要衝にあたる県におかれることが多かった。
このように、郡の権力は、二分されるように配慮され、さらに、郡を監督する監御史(かんぎょし)も置かれていた。
それぞれの県では、城壁で囲まれた県城という町を中心として、実務を処理した。県は100里(約40キロメートル)四方を基準とし、人口が多ければ狭くし、少なければ広くされた。これは大体、人が一日で往復できる距離を基準としていた。
県の下には、「郷(きょう)」という区画(村のようなもの)があり、これも同じように、人口で決められた。郷は、いくつかの「里」という集落を統括していた。里は一つで存在することもあった。
「郷」では「郷主」または「郷部嗇夫(しょくふ)」、が官吏として存在し、「里」では代表者として、「里典」や「里老」がいた。
それ以外には、「亭」という区画もあり(田舎の駐在所みたいなもの)、地方の治安維持、交通機関(宿や馬の提供)のような役割を持っており、「亭長」、「求盗(きゅうとう)」、「卒」がいた。漢を建国した劉邦も亭長だったことがある。
県より下の機関は一部の役割を担当するだけで、独立した行政機関とはなっておらず、県単位で人々は生活していた。
郡守や郡尉がいない県では、大きい県では、「県令(または県嗇夫)」、小さい県では「県長」がおかれ、副官の丞と、軍事や労役をつかさどる県尉がいた。
ここまでが「長吏」と言われ、中央から赴任する役人であった。なお、(漢代から推測すると)自分の出身地では任命されることはなく、長吏より下の役人は地元で採用された。
地元で採用される役人の役職は、司空(しくう)、倉主(そうしゅ)、少府(しょうふ)、令史(れいし)、獄史(ごくし)などがいた。
令史は、「長吏」に仕えて、その直属として、県廷を構成した。県廷では、県内での裁判や官吏任免などを行った。
県では、それ以外に、農業の生産・税・厩(うまや)・徭役の徴発・山沢の国家財産化・穀物倉庫・物品庫・市場・文書などの管轄する機関が存在しており、長官として地元で採用された「官嗇夫」と、それに仕える「佐」、「史」という役人がいた。
地元で採用される役人の方が地方の実情を知っており、こういった役人の中からも、漢の政治をつかさどった蕭何(ショウカ)や曹参のような人材が生まれている。
李斯が制定と実施に尽力した秦王朝の法律である「秦律(しんりつ)」は、李斯が秦に仕えるより約100年前の人物である商鞅(ショウオウ)の変法をベースとしており、この頃から秦は法律を中心にして統治する国家へと変化している。
この法律の理念は「信賞必罰」であり、「公正無私」を理想と定めている。
秦王朝では、始皇帝が法律を定めてからは、皇帝権力を法律の上におき、皇帝が大きな権力を有して、皇帝の言葉そのものが法律となった。
皇帝の命令のもとで、官吏たちは法律に基づいて業務を行い、人々は法律によって生活をした。
「秦律」は、刑法や民法、行政法、軍法など、様々な分野が分かれ、社会生活全般に強い影響力を与えた。国家の官僚の任免から、民の争いごと、役人や民の服装まで、細かくさだめられ、法律が社会や人々の生活規範までなっていた。
「秦律」は、「律」、「令」、「法」、「法律答問」、「例」の5種類があり、合計で400条以上あり、様々な規定も含まれていた。その他にも、刑法60数条もあった。
秦律は中央政府から地方政府に発布されて、地方政府では竹簡(文字を書くために使った竹の札、当時は紙はない)を使って、細かく記録して執行した。
秦では、郡県において税として、農民から穀物と銭を税として徴収した。税は、中央に納めると同時に、役人の給料や役所の物資、公共事業、軍事などの費用として使われ、残りは倉庫におさめられた。
しかし、農民にはこの税以外にも、「兵役」と「労役」という負担が存在した。男子は「兵役」となる年以外は、農閑期に「労役」があり、この労役は、基本的には出身の郡県において、秋から冬にかけて、県城の内外にわたる労働が行われた。
労役は、倉庫などの造営、河川の工事や道路、橋の補修、穀物の輸送などがあった。
古代の中国の王朝は、税負担よりも兵役や労役の方が、負担が重かった。中国の王朝は民の労役の負担によって国家を運営することができた。
ただし、秦王朝では農民よりも、優先的に「刑徒(けいと)」という「敵国の中で降伏したもの」や「刑罰の対象となった人間たち」の労役刑を課せられた人間たちや、「借金により奴隷となった」人間たちに、優先的に労役が課せられた。
それでも、不足する時のみ、農民に労役が課せられていた。まず、交代で労役に服すものが優先され、さらに足りない時は臨時で駆り出され、他の郡県まで徴発されることもあった。
秦ではできるだけ民に負担をかけないように命令は出されていたが、国に大事業が頻発した時や、役人たちが守らない時は、民の負担は増大した。
実際には、そのような事態になることが多く、労役に耐えられず、刑罰を受けるものが増大したため、秦王朝は滅亡する結果になったものと考えられる。
秦の范陽(ハンヨウ)という県の県令は、後に、「秦の法律は重い。あなたが県令になってから10年。人の父親を殺し、多くのみなしごをつくり、人の足を断ち切り、いれずみをいれた数は数えきれないでしょう」と言われている。
李斯について書かれた書籍。小説や伝記ではなく、研究書であり、アメリカの研究者の研究書を翻訳したものである。
内容は1930年代に書かれたものであり、近年、発見された『趙正書』などの内容は反映されていないが、李斯について様々な史料をつかって細かく分析している。
この書籍では、迷信深い始皇帝よりも、李斯を「冷静で計算深く、著しく合理的な人間」と高く評価している。
中国の統一の第一の功績は始皇帝ではなく、李斯にあるものとする。また、李斯が行った改革は中国に永続的な影響を与えることになったと評している。
近年の様々な秦代における発掘文献から分かる秦の法律や制度の実態についておおまかに知りたい人におすすめの書籍。
「第二章 秦社会の地方社会」では、発掘文献や漢の制度・法律から推測できる秦の制度や法律について説明を加え、比較的、詳細に分かる劉邦のいた沛県を例にとって、秦の時代の県の実態について説明している。
内容は一般書にしても難しいが、秦から漢への制度の変化の流れを知る上でもおすすめである。
掲示板
3 ななしのよっしん
2022/08/29(月) 06:45:47 ID: 9W7+k39lAv
>>1
手厳しいがそう思う、功績大だけに惜しい
韓非みたいな家柄の生まれだったら
趙高の悪だくみに乗らなかったかもね
4 ななしのよっしん
2022/12/16(金) 18:14:48 ID: kLfNsy7ZXR
史記の李斯と趙高のやり取りは鬼気迫っていて面白い。司馬遷は政治家としての李斯は
最大限の評価はしつつ李斯冤罪論は一蹴してるけど、保身で流されてしまう弱い人間性には
自身の経験からも思うところはあったんだろうね。
5 名無しさん
2024/04/11(木) 11:16:55 ID: Yp2tw0RaRR
李斯は秦の丞相だったので数多くの書物を咸陽に残したんだと思うけど、それを引き継いだのが秦の役人だった簫何だと思うと深いなぁ。
2人とも階級が違いすぎるけど、李斯の晩年を知って長生きするためにあえて小悪党に落ちぶれる簫何が凄いけど。
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/20(土) 08:00
最終更新:2024/04/20(土) 08:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。