村本善之(むらもと よしゆき)とは、北海道出身の元JRA所属の騎手である。
村本善之 むらもと よしゆき |
|
基本情報 | |
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国籍 | ![]() |
性別 | 男性 |
出身地 | 北海道亀田郡 |
生年月日 | 1955年6月7日 |
騎手情報 | |
所属 | 日本中央競馬会(JRA) |
坂田正行(関西)→フリー | |
初免許年 | 1975年 |
免許区分 | 平地・障害(-1978年) |
引退日 | 2003年 |
重賞勝利 | 42勝 |
通算成績 | 8665戦972勝 |
騎手テンプレート |
1955年6月7日生まれ。 北海道亀田郡大野町(現・北斗市)出身。父は水田耕作に精を出し、冬には都会に出稼ぎに行き生計を立てていたという。
村本自身の小学校の頃は寿司職人が夢だったが、地元に輓馬(ばん馬)の売買に携わる人達が何人もいた影響で騎手に興味を持つようになった。
中学卒業後の進路として高校を受験し合格したものの、親戚筋をあたり、開業予定だった栗東:坂田正行厩舎の短期講習生となり騎手の勉強をすることになった。
1970年に馬事公苑騎手養成所に長期講習生として入所。だが、騎手試験に2度不合格となり3度目で合格、騎手になるのに5年間を要することになった。
1975年3月1日、中京競馬 1R にて8番人気のコロナリイクイン騎乗でデビュー。ただ、このレースではゴーグルを付け忘れた上、コーナーでは遠心力でしっかりと締めていなかった鞍がズレてしまい、曲芸のような形で9着でゴールしている。同日 9R 4番人気のキタノボーイで初勝利。同年は15勝を記録している。
1976年、障害馬の調教中に落馬し、鎖骨を骨折。テンメイ騎乗で菊花賞に挑む予定であったが、休養を強いられた。ただ、ここで折れること無く、復帰後も実力を磨いていった。
1979年に坂田厩舎所属のニチドウアラシで金鯱賞に制し、重賞を初制覇。同年42勝を挙げて全国リーディング12位と飛躍。この年、障害免許を更新せず平場専門になった。
1980年にはニチドウタローで天皇賞(春)を制し八大競走に初優勝。このひと月後に結婚している。
1984年に厩舎の都合によりフリーランスに転向。厩務員や調教助手たちをクビにできないため、村本ならフリーに転向しても稼げるということで、「フリーになってくれと」と坂田師から頼まれての独立であった[1]。同年は重賞3勝を含む63勝を挙げ、キャリアハイとなるリーディング7位という成績を残している。
以降も順調に勝ち星を積み重ね、毎年40~50勝前後の勝利数を安定して維持し続け、関西の実力派として活躍を続ける。
1986年・1987年にはメジロデュレンで菊花賞と有馬記念を、1988年にはラッキーゲランで阪神3歳ステークスを制覇。
1990年にはアドラーブルで優駿牝馬を制覇し、1995年にはダンツシアトルで宝塚記念を制覇。この間、イクノディクタスの主戦として30戦ほど騎乗し、重賞で4勝を挙げている。
1996年、フジヤマケンザンで金鯱賞を制覇。これが最後の重賞制覇となった。
1990年代後半から徐々に勝利数が徐々に減少。2001年はデビュー以来初の一桁勝利となる8勝に終わると、翌年も8勝に終わり、2003年12月10日に騎手を引退した。
引退後は調教助手に転身。栗東トレーニングセンターの吉岡八郎厩舎に所属した後、2008年から池江泰郎厩舎へ所属を移した。その後、池江師の定年退職による厩舎解散に伴い、高野友和厩舎へ移籍した。
クリーンな騎乗が持ち味としており、他馬を邪魔せず真っ直ぐと走らせる技術に長けた、「フェアプレー男」。フェアプレー賞13度受賞は、藤田伸二に次ぐJRA歴代2位の記録である。
騎乗に関しては、異名の通り「人の進路を押しのけてまで乗りたくない」とフェアプレーを貫き、「ラフな騎乗をする若手には注意や指導することもあった」と語っている。ただ、「向上心のない者は何度やっても治らなかった」とも語っている。
釣りを趣味としており、釣った魚を自ら捌くこともあるようである。
※ニコニコ大百科に記事のある競走馬を記載。( )内は村本騎乗での重賞勝ち鞍。
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最終更新:2025/04/20(日) 05:00
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