杜預 単語

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トヨ

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杜預(トヨ またはドヨ 222年-284年)とは、三時代末期~西政治家将軍・学者である。

字は元凱。兆(陝西省西安)の出身。

運動音痴オタクコンプ持ち、三十代まで独身無職という「それなんて俺ら?」な状態の時代を先走りしすぎた人。

でも有名な「の勢い」の者で、軍事経済農業法律の制定まで何でも持って来い!なチート

出仕

杜畿の尚書射、恕は州刺史と、杜預の系は代々官吏を務めていた名門である。その為、杜預も博学多通で才があったが、恕が司馬懿と折り合いが悪くなり、別の官僚からは罪を被せられて閉され亡くなってしまう。杜預は罪人の子として出仕できず、不遇の青年時代を送る。

その後、楽詳という人物から朝廷推薦され、更に司馬昭が杜預を気に入って自分のを妻にくれるわ(ラッキー!)、出仕させてくれるわ(ニート脱出!)で結構トントン拍子に話が進む。しかし、この時の彼は36歳魔法使いであったかは)でかなりスタートが遅かった。尚書郎となり、祖杜畿爵位も継いだ。ここから彼の動の人生の幕開けとなる。

蜀漢討伐

鍾会の討伐に赴いた際に従軍するが、討伐後まもなく鍾会謀反を起こす。結果的に鎮圧されるが、鍾会はこの時部下達に署名させており、謀反に加担したとして処罰された者もいた。しかし、杜預は計画に加担していなかったとして処罰を免れた(または才を惜しまれたか)。

討伐時に鍾会は、「姜維ってスッゴーイ」的なことを杜預に話している。

また衛がこの反乱に間接的に関わらされて(鍾会のせい)、どさくさに紛れ鄧艾を殺す。杜預は鄧艾を尊敬しており、その後、人々の前で衛

アイツは器量が小さいくせに、君子の皮を被っている。責任はどうするつもりなんだろうね。

しく非難した。

これにビビった衛は杜預に謝罪している。

 泰始律令の制定から異民族討伐まで

265年、革命によりに変わると、将軍であった賈充らとともに泰始の制定に尽する。

また、杜預が河南尹となり官吏の昇降についての意見をめられた際には、

毎年、その人を評価し、評価が高ければ優をつけ、低ければ劣をつけます。6年後にまた評価し、その時に優が多ければ昇進させ、劣が多ければ左遷させれば良いのです。

と実に理に適った上奏をしたら、隷校尉であった石鍳に何故かブチギレられ、免職される。

その後も石鍳との折り合いの悪さは続く。異民族が来した時、朝廷は石鍳を安西将軍、杜預を安西軍として派遣させる。石鍳は杜預に出撃を命じたが、

敵は血気盛んで今の状態ではこちらは勝てません。まで待つべきです。

とか言ったら、またも石鍳がブチギレて、今度は杜預が檻で護送されるハメになった。処遇については杜預の妻が司馬一族である為、爵位を捨てるだけで事を終えたが、やがて情勢は杜預の言う通りになる。

そして、匈奴猛が反乱を起こすと、対策の為に杜預は度支尚書に任命された。この時、フル稼働して軍事経済など様々な功績を挙げて地域を救済した。しかし、ここでも石鍳のご登場。石鍳が論功を自分のものにしようとした。そこで杜預が反乱鎮圧の論功がおかしいと言い、石鍳とかなり低レベル喧嘩をして、今度は二人とも免職となった。頑ったのに。因みにこの免職を食らったときにはもう50歳くらいである。その後、しばらくしてまた度支尚書に任命された。

石鍳から誣告されて召喚された時、叔母の厳から「今耐えれば、きっと三になれますよ」という励ましの手紙を貰っている。なんて良い叔母さんだ!

呉討伐までの道のり

司馬炎はいずれを討伐し下を統一したいと考えていたが、その考えに賛同したのは羊祜張華、そして杜預の3人のみであった。司馬炎羊祜を襄陽に就かせ、いつでもを攻められるように対峙させていたが、当時の朝廷内では賈充・荀勗ら討伐慎重ヒャッハーしており、278年に羊祜は果たせずに亡くなってしまう。その時、羊祜が後任として託したのが杜預であった。杜預は鎮南将軍・都督荊州諸軍事となり、に赴任する。

赴任後、速杜預の智謀が発揮される。の西陵には名将といえる政が赴任しており、杜預は討伐において政が手強い相手と見ると、不意をついて西陵に攻め込み勝利を収めた。政は名将の自負から、敗北を喫したことを孫晧に報告しなかったが、杜預はそのことも見越して離間策としてわざと捕虜を還した。案の定、政は敗北をしたことを知らなかった孫晧召還されてしまった。

杜預は更に司馬炎討伐に関して上奏する。朝廷内では、なおも慎重論が根強かったが杜預は

他の者が討伐に対して消極的であるのは、陛下羊祜が計略を密議していたからです。この策は、十中八九、こちらに利があり、残りの一、二の臣たちが、自分達が除け者にされ、討伐後には皆に功績がないことです。そうこうしているうちに、孫晧が都を建業から地へ移動してしまいますよ!

などと何度も上奏した。

杜預からの上奏が届いたとき、司馬炎張華を打っていたが、張華の後押しもありついに討伐を決意した。

ついに呉討伐へ

討伐のプラン羊祜が生前に用意していた。羊祜に攻めようとした例である、曹操合戦と、劉備の夷陵合戦を調し、それぞれの失敗点から作戦を練った。曹操は長江を全て制圧せず、劉備は長江付近の陸路を利用した為とわかり、長江を全に制する為に上流から軍で河を下り、一気に数ヵ所を渡り攻めるという作戦である。杜預はこの作戦を受け継ぎ、279年に討伐の大命が下った時、ついに決行する。羊祜が亡くなって1年後のことである。

王濬率いる長江を下る軍と連携し、杜預は江陵に出兵した。配下である周旨に楽郷夜襲させ、山に大量の旗を掲げ、火を焚かせた。楽郷に駐屯する孫歆王濬に破れ、軍の士気は低下していく一方であった。なお、この時に王濬孫歆の首を取ったと上奏したが、杜預が生きた孫歆を送ったので、都の陽では大笑いしたらしい。他に進軍している王渾・胡奮らの部隊も順調に進撃していたが、予想を上回る速さ朝廷内では再び慎重論が起こった。しかし、ここで杜預が、

昔、楽毅はたった1戦で斉を追い詰めたよ。今の俺達は、を入れて手を添えるだけで割れるみたいにスイスイいけるから大丈夫だって。ここまで来たんだから建業まで行っちゃいましょ。

とか言って、本当に建業まで辿り着いて、280年には降した。ちなみにこの名言故事成語の「の勢い」のである。この時の勢は20万人もいたらしく、を片っ端から潰す気だったことがえる。

 

 その後・逸話・エピソードなど

  • 定の功績から当陽県侯の爵位・食9600戸を与えられ、その後も江南地方に赴任している。その際、下が統一されたからといって、闇に兵の訓練を怠るべきではないとして、きちんと訓練させている(司馬炎天下統一後に軍縮をした。この記述から杜預が軍縮反対だったことがわかる。他の軍縮反対は山濤・陶璜など)。

  • 杜預はいつも「徳ってモンは努して得られるほど容易くない。実績があり訓言をすることが一番それに近いんだ」と言っていた。実際に杜預は自身の半生で実現することとなる。

  • 2度の度支尚書時代、が荒れ、度々の転覆事故が起きていたを架けるように上奏した。周囲は架けなくてよいと反対していたが、杜預が論破してが架けられた。の出初式の際、司馬炎が「いやあ、君がいなかったらここにはできなかったよ」と言うと、杜預は「いえいえ陛下が架けさせてくれたおかげですよ~」と司馬炎をよいしょした。杜預がを架けた理由に、祖杜畿難に遭い亡くなっているからとも言われている。

  • 277年~278年、長によりが起こり、イナゴの大群まで襲ってきた為に領民たちが困窮していた。そこで杜預は自らが考えた農業の方法を上奏している。おかげで領民たちは作物を育てられるようになり、杜預を慕った。すごく要約すると

東南地方では低いところにはが溜まり、高いところには逆にが行き届かない。氾濫を起こしても食べられやしない。いらないダム)は壊したほうがいいよ。まず産物を民に食べさせて、その後に穀物を植えたり耕させたりしたほうが、今後の蓄えにもなるよ。特に時代に造られたアレいらないよね?アレのおかげで陸田が出来ない。あと水田の為の焼き農業もやめさせること。昔(時代)みたいに人口が少ないときは使えるけどさ、今はもう人口も増えて時代が違うよ。陸田作ろうよ、水田も大切だけどさ。

今はそうしないと時間がかかりすぎて需要と供給が間に合わない、これまでのやり方を盲信するんじゃなくて現実を見ろ、ということ。


  • 討伐の際、人が杜預の首にできた瘤を真似て、の首に瓠(ひさご)を付けたり、木の瘤に似ているところを切ってくしたりして「杜預の頸」と馬鹿にしていた。これがかなり杜預の癇に障ったらしく、関わった人はことごとく殺されていった。人のコンプレックスを安易にからかっちゃダメ。

  • また、石鍳の件の通り不正を嫌う性格であったが、定後は慎重であった賈充などの権勢にかなわなくなり(というかを付けられた?)、自身も要人を招き接待をして保身に躍起になる。杜預ほどの人物がこのような事態を想定していないとは考えにくく、一説には杜預と賈充両者とも司馬攸司馬炎)の擁立を争っており、結果、賈充が勝ったという見方もできるという。討伐の杜預も、慎重賈充もやっていることは逆でも、しているものは同じであったらしい。

  • 庭のことは一切関わらなかったと史書に書かれた男、それが杜預。

  • はじめに述べたように運動音痴である。に乗れず、も不得意の為、杜預が従軍するときには必ず将兵がついてに乗っていたと思われる。ただ彼の為に弁明しておくならば、当時のには鐙はなく、自らの股で固定しに乗らなければならない為、幼少期からの訓練が必要だったと言われている。代々官吏の系であった彼には、の訓練には縁がなかったのであろう(と思いたい)。

  • 自他共に認める左伝(左伝オタク)である。左伝とは左氏伝のことで、学。左伝に対するは、自らが注釈を施すほど。彼の左伝の注釈はいまだに現役であり、左氏伝を読むときは“注”が利用されている。ついでに自分の字の“元凱”も左伝の内容から意味をとった。どんだけ。

  • どうしても自分の功績を残したかったらしく、自分で自分の碑を2つ作って万山の下と峴山の上に建てた。もしかしたら後年に地形が変わっているかもしれないから全く逆の立地に建てたみたいだが、結局地形は変わらなかった。この時、峴山には杜預が名付けた羊祜の「堕碑」も建てられていた(ただしこちらは領民が建てたもの)。

  • 284年に63歳で死去し、司馬炎から征南大将軍・開府儀同三を追贈された。諡は成。杜預の墓の碑が今も残っている。
  • 著作者として、<経伝集解> <釈例> <盟会図> <長歴>、撰集者として<女記讃>がある。

上記からわかるように、一も二もある性格をしている。確かに政争や戦功などに自ら首を突っ込んで関わっていく強気な面があるが、清廉潔羊祜張華と話が合うところや領民から慕われていること、更にある他の逸話などから察するに、間違いなく有能で優しい人物であった。

杜預のニックネーム

 杜預はやたらいろんなあだ名で呼ばれている。

  • …慕われていた領民から。
  • 翁…後世の江南の住民から。「江南で叛くことがないのは翁のおかげ!」
  • 征南…討伐の実績から。
  • 武庫…するべきこと全て抜かりがないことから。あまりに出来すぎるので「杜預の正体は実は大蛇」という話も。
  • 左伝自称
  • …現代でたまに呼んでいる人がいる。

…どれでもお好きなものをどうぞ。

杜預の家系

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掲示板

  • 12 記事作成者

    2018/10/31(水) 23:35:34 ID: Uiy1JBEAk5

    >>10
    本記事を楽しんで読んでいただき光栄です。
    記事の文章全体の印は、変せず活かす方向です。
    ニコニコ大百科の記事、なおかつ杜預の人となりもかなり面いので、堅苦しい感じがしないように作成している為です。

    内容自体は、の制定の部分や杜預のプライベートな部分(対人関係など)はもう少し書き足しても良かったかなと思っており、追記を検討しております。彼の思想や人格が見える部分ですね。杜預という人物の記事なので、省いたのはかったかなと。

    また削ることはないようにしたいのですが、調していくうちに解釈が合っているのかわからなくなった部分は、もう一度内容を精すると思います。書は全日訳がないので、理解するのに苦心しているところもあります。

    最後に、長々と掲示板内でお汚し失礼致しました。今後も杜預記事を宜しくお願い申し上げます。

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  • 13 記事作成者

    2018/10/31(水) 23:41:47 ID: Uiy1JBEAk5

    すみません。>>12は、>>11様宛です。アンカー間違いました(恥)。

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  • 14 9の人間です

    2018/11/06(火) 00:05:32 ID: KRmamP4IYv

    >>12
    返信ありがとうございます
    ああ…史書の全訳本、本当にいですよね…
    ゆっくり訂を進めてください。
    気長にお待ちしています。

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