来原良蔵とは、幕末の武士である。長州藩出身。来原の読みは「くるはら」または「くりはら」。
文政12年(1829年)12月2日、長門国にて大組(八組)士・福原家の三男に生まれる。天保13年(1841年)、親戚に当たる来原良左衛門の養子となる。
藩校明倫館で学んだ後、嘉永4年(1851年)、江戸に出府し、朱子学者・安積艮斎(あさかごんざい)の私塾で学ぶ。 この時期、吉田松陰の脱藩計画に協力している。
嘉永5年(1852年)一度萩に戻り、嘉永6年(1853年)再び江戸に出府。 当時江戸にいた桂小五郎と親交を深め、桂の妹と結婚し義弟になる。後に最後の内大臣となる木戸幸一は彼の孫に当たる。
同年、米国艦隊が来航した後、藩重臣で志を同じくする来島又兵衛や周布政之助と協力関係を結ぶ傍ら西洋兵学を学び、長崎海軍伝習に参加している。
安政4年(1857年)、浦賀の警護を務めていた来原の部下として伊藤利助(後の伊藤博文)がやって来ると、伊藤を気に入った来原は漢学や武士としてのたしなみを叩き込み、 吉田松陰の松下村塾を紹介して送り込んでいる。来原の指導は非常に厳しいものだったが、一生忘れられない良い教育を受けたと後年の伊藤は述懐し、生涯に渡り最大の恩人として感謝していたという。
安政6年(1859年)から明倫館にて西洋兵学を取り入れた軍制改革に着手し始め、将来を嘱望されるが、文久2年(1862年)、母方の従兄弟であり、積極的開国論『航海遠略策』を唱える長井雅楽と対立。長井の説得を受けて公武合体の周旋を担うも、藩論が開国論から攘夷論に急旋回したため、攘夷論と開国論の間で藩内部が混乱したことに責任を感じ、切腹して詫びると申し出る。
周囲に諌められ一旦思いとどまったかのように見えたが、既に死の覚悟を決めた来原は続いて横浜の外国人居住区を襲撃する計画を立てる。計画を知った長州藩世子・毛利定広に「忠義の心から出たこととは分かっているが、今は暴発する時期ではないから自重して助けて欲しい」と諌められ、涙を流して「仰せの通りに」と謝罪したが、心情的に追い詰められ8月28日に江戸藩邸で切腹した。享年34。
遺書には「私儀かねて尊王攘夷の志不行届きよりして従来忠義と相考え候こと、全て不忠不義と相なり」と書かれていた。 桂や伊藤は来原の死に深く落胆し、藩庁としても藩論の混乱が原因で有為の人材を死に追いやったことに後ろめたさを感じたのか、国葬に近い形で弔った。
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最終更新:2024/04/24(水) 23:00
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