東名駅(とうなえき)とは、宮城県東松島市にあるJR東日本・仙石線の駅である。
東名駅は、私鉄「宮城電気鉄道」の駅として1931年に誕生した。これは駅の所属する仙石線が全通した、1928年の3年後にあたり、恐らく当時の周辺住民の尽力によって、開通後に改めて設置されることになったものと思われる。のち1944年には戦時買収のため国鉄へと、1987年には分割民営化のためJR東日本へと所属が変化した。
一部資料によれば、駅名の由来は『元々の集落の、東側に出来た地区or集落』となっている。ただし付近には古くからの集落が散在し、どこが『元々の集落』であるかは具体的に定かでない。
施設としては、新駅、旧駅とも、一面一線の単式ホームを持つ無人駅である。自動券売機と、Suica(仙台エリア)用の簡易タッチパネルが設置されている点も共通しているが、新駅にはこれまで無かった待合室が設置され、利用者の使い勝手が少し良くなっている。
駅のあった場所は、東松島市の西辺。北側には地域交通の動脈である宮城県道27号奥松島松島公園線が走り、また比較的新しい住宅地も見られた。南側は明治時代に開削された東名運河に面しており、その向こう側には駅名の由来となった東名集落があった。
駅としての規模はそれほど大きくはなく、自動車で赴いた場合は、面しているはずの県道からも気付きにくいほど。しかし、駅のすぐ東側には県道が線路を跨ぐための陸橋があり、ここから構内を一望することも出来た。
松島湾などの海岸からは約400mほど離れていたものの、すぐ近くに東名運河があるためか、周囲にはいつも潮の香りが満ちていた。また運河には多数のボートや小型漁船などが係留され、水路に沿って松林が続くのを見るなど、まるで海沿いにあるかのような風情もこの駅は漂よわせていた。
場所により違いはあるものの、巨大な津波によって、周辺地域もまた甚大な被害を受けざるを得なかった。幸い駅北側の住宅地は無事だったものの、南側に位置していた古く、広い干拓平野が、駅名の由来となった東名集落ごとほぼ水没。広い範囲にわたって人家や線路も流失し、多くの死者、行方不明者の出る悲惨な事態となった[1]。
まるで地形さえ書き換えてしまうかのような巨大な災害により、当駅自体も、駅利用の方々が住まわれていた周辺の住宅と同様、非常に大きな被害を受けた。駅は一部が流失し、残った部分も使用不能となり、構内は大量の瓦礫に埋め尽くされた。
震災の後、仙石線復旧の活動自体は行われたものの、当駅は不通区間内(高城町駅~矢本駅)に位置していたため、代行バスの発着場としてのみ扱われることとなった。また2012年ごろまで残っていたプラットホームも、2014年の上半期までには取り壊された。加えて防災のため、新しい駅はこれまでよりも北およそ500mほどの所に新築されることとなったため、従来の駅はもう、かつての面影を見出すことの出来ない状態となっている。
2015年5月30日。徐々に進められていた復旧はついに成り、仙石線の、残されていた最後の区間が復旧した。それとともに、東名駅も新駅が落成することとなり、待望されていた業務の再開が果たされた。
新しい駅は、従来の駅の北側に約500m。予定されていた通り、大仏山の山中を切り開いた、住宅用造成地の一画に設置された。そこは東名や野蒜と言った、津波によって壊滅させられた集落から人々が移り、新しい生活を始めるために作られた場所である。
新駅もこれまでと同様の、一面一線を持つだけの小さな駅である。距離的にはやはり海からそれほど離れている訳では無いが、地形的には高台と言える場所であり、ともに被害を受け移転した隣の野蒜駅と同じく、山合いの駅のような風情を持つこととなった。
周辺のほとんどの場所は未だ工事の途中で、店も無く、ただ新しい住宅などの散在する様子を見るだけである。それでも、大変な目に遭った土地に鉄道が再び戻って来た、その事実はとてつもなく大きい。
仙台市や石巻市とのつながりが強いこの地域に対して、駅は実用的にも、復興の意味においても、これからも重要な施設として存在して行くことが考えられる。
隣の駅(上り方面) | 当駅 | 隣の駅(下り方面) |
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陸前大塚駅 | 東名駅 | 野蒜駅 |
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最終更新:2023/03/23(木) 04:00
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