(ひがしやまてんのう 1675年10月21日~1710年1月16日)とは、第113代天皇である。諱は「朝仁(あさひと)」。
1675年に霊元天皇と松木宗子の間に第四皇子として生まれる。
1683年に、直仁親王以来300年ぶりの立太子礼をうけて皇太子となり、1687年に元服した後に、霊元天皇の譲位をうけて即位した。
霊元上皇の院政下にあった東山天皇だったが、幕府の後見をうける近衛基熙が朝廷の実権を掌握すると、中御門資熙の更迭問題で両親と対立した事から近衛基熙に近づき、補佐をうけて親政するようになった。
親政を行っていた間は、当時の江戸幕府将軍が皇室に友好的な徳川綱吉だった事もあり、皇室と幕府の関係は非常に良好だった。
1709年に中御門天皇に譲位し、父・霊元法皇を抑えて上皇として院政を行った。しかし1710年に天然痘を患ってお隠れになられた。
東山天皇により江戸に派遣された勅使の柳原資廉・高野保春の接待を巡り、江戸城松の廊下にて指南役の吉良義央に対して浅野長矩が斬りかかる事件が発生し、近衛基熙によって事の次第が東山天皇の耳に入る事となったが、吉良義央に凶事が降りかかった事について東山天皇が喜んだと近衛基熙の日記に記されている。
喜んだ理由の本意は不明だが、後西天皇への譲位圧力等の調停工作を幕府が行った際に、吉良義央がそれにかかわったとされていた事があげられている。
また東山天皇は、浅野長矩を見殺しにしたとして、柳原資廉・高野保春および清閑寺熈定の三名に参内禁止の処分を下している。
太平洋戦争終結後に天皇を自称した三浦芳聖によると、後醍醐天皇の皇子で越前国金ヶ崎城で足利軍に敗れて自刃した尊良親王が、1336年に後醍醐天皇の譲位をうけて即位したとの霊示を神界からうけたと主張した。即位した後に自刃した尊良親王こそ東山天皇であるとしている。
三浦芳聖は霊示の他に、尊良親王が自刃した際に多くの殉死者が出た事を天皇に即位していた為だとしている。
112代 | 113代 | 114代 |
霊元天皇(れいげんてんのう) 1663~1687 |
東山天皇(ひがしやまてんのう) 1687~1709 |
中御門天皇(なかみかどてんのう) 1709~1735 |
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最終更新:2024/04/24(水) 07:00
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