関東軍参謀長、陸軍航空総監などを経て第二次近衛内閣に陸軍大臣として入閣。太平洋戦争(大東亜戦争)直前の昭和16年、内閣総理大・臣に就任(内相・陸相兼任)。のちに、外相、文相、商工相、軍需相も兼任した。
敗戦後、拳銃自殺を試みるものの失敗。その後A級戦犯("平和に対する罪"に対しての法廷の便宜的な分類。誤解されることが多いが、罪の軽重を指すわけではないことに注意)として連合国に逮捕され、東京裁判(極東軍事裁判)にて絞首刑判決を受け、処刑された。
陸大教官を務めた東条英教中将の嫡男として東京に生まれる。本人は東京育ちだが、東條家は盛岡藩士の家系として佐幕派に属した一族であり、 父の英教も秀才との評判ながら陸軍大将になれなかったという。一方、日露戦争で消極策を用いた為とも、そもそも大将職は例えエリートでも殆どが獲得できない地位だったとする意見もある。
真相はともかく、こうした背景が東条の権力志向や徹底した尊皇思想へと繋がったとみる向きもある。
東条は父の期待を背負い、陸軍幼年学校から陸軍士官学校という軍人としてのエリートコースを進み、順調に陸軍中尉にまで昇進する。しかしエリートから更なる選抜を行う、陸軍大学校(陸大)の試験には落ちてしまう(因みに英教はこの陸大を首席卒業した事で「秀才」と呼ばれていた)。父や本人の落胆は大きかったが、諦めずに挑戦して最終的には合格、父は息子の陸大入学を見届けた翌年に死去している。
陸大卒業後、駐在武官の任務を受けてスイスやドイツなどへの赴任をこなしつつ、陸軍少佐に昇進。佐官時代には父と同じ陸大教官を勤めた他、陸軍省や参謀本部の役職も歴任している。部隊指揮官としても陸軍大佐の時に歩兵連隊長を務めているが、基本的には軍官僚型の出世であった。
軍内の派閥では対外強硬派に属し、積極的な領土拡大による富国強兵を志向していた。その為、当初は同じ強硬派の石原莞爾、板垣征四郎とも協調関係にあった。しかし次第に独特の軍事理論や政治思想に基いた戦争計画を練る石原と、あくまで常識人の東条とでは意見が相容れなくなり、敵対関係へと転じる事となる。1933年、陸軍少将に昇進。
東条が歴史の表舞台に出てくるのは関東軍憲兵隊長として満州に派遣されてからとなる。当時、軍内の青年将校を中心に急進的な改革思想(国家革新、昭和維新)が広まっており、満州ではソ連を通じてその理論と近接していた社会主義思想も支持を広げていた。 東条はその対処に辣腕を振るい、続いて本国で二・二六事件が起きると同様に呼応しようとした勢力を粛清する功績を残し、陸軍中将・関東軍参謀長に昇進する。
そして関東軍参謀長となるや、開戦した日中戦争で察哈爾派遣兵団(東条兵団)を編成して攻勢を開始する。作戦自体は東条の積極策もあって大きな勝利を挙げる。東条からすれば消極策で左遷された父の汚名を雪ぐ想いもあったと想われるが、同時に物資欠乏などの問題も引き起こされており、必ずしも功績ばかりではなかった。
また同兵団は軍の合理化に理解の乏しかった旧陸軍内では例外的に機械化歩兵を多数加えていたが、東条本人も新戦術を軽視する傾向に倣っていたため、活躍の機会は得られなかった。この点でも満州事変で板垣征四郎と共に関東軍を率いて電撃戦を採用した石原莞爾から「自論がない」と軽蔑される理由になった。
ともあれ軍功を挙げて本国に戻り、陸軍大臣になっていた板垣征四郎から陸軍次官に指名される。
満州事変と日中戦争以降、大日本帝国が国際的孤立を深める中で軍・貴族・政治家・民衆からそれぞれ人気があり、事態解決へ向けた最後の切り札と見なされていた近衛文麿元首相による第二次・第三次近衛内閣が成立する。東条は 板垣に代わる形で陸軍大臣として入閣し、 大陸情勢の責任者である陸軍の政治的意見を代表する立場となった。
東条は陸軍の権威にも関わる中国大陸からの全面撤兵は認められないとする意見を述べた(無論、東条個人の意見という訳ではない)。これ以外にも軍内の強硬意見に押された近衛は「ならば自分でおやりになれば良い」と半ば周囲に丸投げする形で首相職を退き、そして周囲から新たに首相指名を受けたのが他でもない東条であった。
陸軍の政治的代表であり、また本人も強硬派である東条が穏健思想を持っていた近衛の後続に選出された理由として、東条が非常に熱心な尊皇家であった点があった。
昭和天皇は自分を中心とした親政を望む二・二六事件にむしろ激怒するなど穏健な人物であり、対米開戦にも当然ながら反対であった。批判的な人間からも「軍随一の忠臣」である事は認められていた東条ならば、自論や陸軍を抑えてでも陛下の御意志に従うはずという考えがあったのである。そして軍の指導者であればこそ、軍を唯一抑えられる立場でもあった。
この東条の忠臣さを評価した抜擢はある程度は正鵠を射ていた。実際、東条は持論を曲げてでも「陛下の意向」に従う事に奔走し、陸軍を説得して対米交渉を再開させる行動に出ている。そして「軍の権威に関わる」と考えていた中国大陸からの撤兵すら「日中戦争で占領した地域に関しては段階的であれば認める」とまで譲歩し、遂には枢軸同盟からの離脱すら可能性に挙げている。
しかし連合国側からすれば、石原莞爾と板垣征四郎が引き起こした満州事変の時点で既に認められない訳であり、それらの譲歩では不十分である(満州からも撤兵する必要がある)と返答した。流石に東条もこれ以上の妥協を軍に認めさせる事は出来ず、対米開戦に舵を切る事になった。
東条本人の持論は元から開戦派であったとはいえ、対米開戦決定時には陛下への申し訳の無さから号泣したと伝えられている。彼の忠臣振りと、それを強硬派の尻拭いに利用された悲惨さを物語っている。
遂に開戦に至り、開戦前の戦争計画に従って日中戦争の継続と真珠湾攻撃・南方作戦など対米作戦を同時に行う二正面作戦が展開される。しかし東条は緒戦の圧勝に諸将共々喜びつつも、戦争の結末にはやや悲観的な向きも見られたという。
実際、戦争中盤から徐々に太平洋戦線から戦争は行き詰まりを見せるのだが、東条は難局の打開には軍指揮権の一本化など一層の国家団結が必要との考えを持つ様になる。結果、それまで陸相職を除いて首相職という政治的任務に専念していたのを改め、徐々に戦争指導全体に介入する様になる。
具体的には軍需大臣を新設して首相職と兼務する、陸軍の政治的代表である陸相に加えて実務の責任者である陸軍参謀総長職の兼務、及び海軍に対しても海軍大臣と軍令部総長の兼任を求めるなどの路線を進め、国家指導の集権化を進めていった。これには東条を支持していた者たちからも「東条幕府」と揶揄される程の実権を東条政権に集中させる事になった。
因みに丸投げ後は隠棲していた近衛は反東条派に「せっかく東条が憎まれ者になってるんだから、このまま全ての責任を押し付ければいい」と述べている。お前…
大戦末期、絶対国防圏も崩壊する情勢に降伏もやむなしとする和平派が倒閣運動を本格化させる。東条は一部実権を手放す事で和解を図ろうとしたが、これが仇となって新たに入閣した岸信介による退陣要求へと繋がってしまう。それでも関東軍以来、共に歩んできた憲兵隊は東条内閣支持で抵抗し、東条にクーデターすら進言したという。
しかし謁見した昭和天皇から暗に退陣を促された事を受け、東条本人は首相辞任を受けいれた。首相辞任後は実質的に隠棲状態に入った。戦争指導の失敗を責任として背負わされた事もあり、和平派が主流の重臣団内では冷淡に扱われたという。
唯一、他でもない昭和天皇のみが忠臣である東条に極めて同情的であった。 退陣後の首相に対して異例とも言える勅語で労いの言葉をかけている。また人物評についても開戦の要因を作った石原莞爾らへの叱責を述べつつ、東条に対しては「民に東条の心が伝わらなかった」とまで擁護している
敗戦後、一度は自殺を試みるものの法廷での裁きを望んでいた連合軍の治療で一命を取り留めてしまう。
以降は東京裁判の法廷において検事側を相手に積極的に弁論を戦わせ、日本が戦争へと突入した過程に対する検事側の告発に抗弁した。宣誓供述において東條は日本の戦争そのものは自衛戦であって当時の国際法に違背しないことを主張したが、敗戦に至ったことへの責任は自分にあることを認めている。
今の日本は東條を死刑台に送った人たちが歴史の基本的なとこを書いたので、その評価が安定しないのは仕方がない面もある。
軍官僚として卓抜した政務能力を持ち、軍内での風紀の引き締めを徹底する規律屋として知られていた。作戦中の不当な略奪や虐殺に関しても軍法会議で厳しく処罰している。一方、幾つかの中国戦線での便衣兵狩りについて不問としているが、自身も東条兵団の攻勢で民兵と見なした者の処刑を示唆しており、ゲリラ狩りについてはそもそも虐殺と見なしていなかったと思われる。
首相時代には戦時体制での民間生活に気を払う姿勢を見せた為、大戦末期まで国民からの支持は高かった。しかし先に述べた塵箱チェックの逸話など妙に真面目で融通が利かない部分があり、規律屋の性格も相まって憲兵隊を用いた統制的な統治も行っている。
昭和天皇に対する忠義が同時代の人間から見ても群を抜いていた事は関係者から一様に証言される。皇道派が単に自身を持ち上げて利用しようとしていると看破していた昭和天皇も、東条については全幅の信頼を寄せている。
他に大アジア主義についても政治家も軍人も殆どが植民地支配を正当化する方便と見做していたが、東条個人は本気でアジア解放の大義の為に戦っているつもりであった。その事は「東亜の盟主たる日本」というフレーズを他のアジア諸国を下に見ているとして削除させた事からも理解できる。
東条について特に批判される部分として人間関係が挙げられる。具体的には自分に従う者は問題人物でも取り巻きにする一方、逆に意見の対立する人物には苛烈であったとされている。
非協力的な将官を予備役に編入させる、批判した新聞記者や官僚・学者を徴兵に不適格な高齢であっても戦地に送るなどの行為は特に批判される。当時も同様に批判が行われたが、辻褄合わせに同世代の徴兵不適格年齢であった国民も数百人徴兵し戦地へ送り込むという行動に及んでいる。
石原莞爾とは先述の通りとても仲が悪く、石原から器の小ささを揶揄して「東條上等兵」というあだ名を付けられていたのは有名。戦後、GHQの将校に「貴方と東條には意見の相違があったようだが」と聞かれ、「私には少々意見というものがあるが、東條にはない。意見のないものとの間に意見の相違は起こらない」旨の返答をしている。
本人は自分にも他人にも厳しいタイプであったが、他者を見る目の無さは致命的であった。腹心あるいは目をかけていた人物として辻政信、木村兵太郎、富永恭次、牟田口廉也、田中隆吉らといった、いわば戦争中に「悪行」を残した人物ばかりというのも彼の評価を落とす一因ともなっている。
一方、陸士時代から不仲で、なおかつ後に事故死について戦死か戦病死扱いかで遺族と論争になった前田利為将軍の葬儀弔辞などの下りを読むと…果たしてどういう心情だったのか悩むところではある(仲が悪かったのに竹馬の友とか言うあたり…ねぇ)…ここは彼のツンデレ気質だと思うほうが良いのかもしれないけども。
情報処理の能力の高さから、「カミソリ東條」といわれていた。所謂メモ魔であり、些細なことでもメモを取り、それを帰宅後に清書し、きっちりと分類していた几帳面な人物だったという。しかし逆にそうした気質から民家のゴミ箱を視察してまでその経済状況を批評したエピソードもあり、同僚の西尾寿造から「塵箱をあさっとる奴」と揶揄にされている。
連合国側ではヒトラー、ムッソリーニと共に枢軸国指導者の代表格として(両者とは幾分立場が異なるにも拘らず)引き合いに出されることもあった。 また本人のあだ名ではないが、連合軍は二式単座戦闘機『鍾馗』に『tojo』というコードネームをつけていた。戦後、アメリカで活動した日系ヒールレスラーが「グレート・トージョー」を名乗っていたりもする。
既に述べた通り、ヒトラーやムッソリーニとは個人崇拝が余り無かったという点で大きく異なるのだが、同時に戦意高揚の一環としてそうした個人崇拝的な風潮を進める動きもあった。 一例として朝日新聞が「我らが東條さん」 というフレーズで政務に熱意を示す東条首相の姿を英雄的に描いた報道を行っている。
3男4女を儲けた。
意外にも軍人になったのは三男だけ(ただし、陸士在学中に終戦、のち、航空自衛隊に入る)で、長男はサラリーマン、次男は航空技術者になった。(元上司の堀越二郎らに託されてYS-11の開発の指揮をとったことで有名。)
政治活動家の東條由布子氏は長男の娘に当たる。
ハエがとまれば つるっとすべる
すべってとまってまたすべる
とまってすべってまたとまる
おお テカテカのハゲ頭
そびゆる富士もまぶしがり
あのハゲどけろと くやし泣き
雲にかくれて おおむくれ
※なお、 愛国行進曲の替え歌は「トージョー」の部分を「センセー」「関東焚」などに入れ替えたバージョンも多数あり、当時から汎用性の高さが注目されていた。
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最終更新:2024/10/15(火) 15:00
最終更新:2024/10/15(火) 15:00
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