東欧の歴史 単語

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トウオウノレキシ

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東欧の歴史とは、東ヨーロッパの歴史である。本項では東欧の通史を要点毎に記載したい。

前史 古代ローマ帝国まで

前史時代の東欧に当たる地域は、ギリシャなどの地中海沿中央アジアに続く原地域、西方から延びるヨーロッパ平原北方森林地帯が広がっていた。紀元四千年ごろから、黒海にいた印欧語族が東西に拡大し、現在東欧地域にも広がり始める。最初にギリシア語が南下、その北バルカン半島から北方森林地帯にかけてバルト語族やスラブ族がフィン・ウゴルゴ族を押しのけ拡大する。原にはスキタイなどのイランの遊牧民族が住んでいた。

地中海世界ローマ帝国が台頭すると、西暦14年ごろに現セルビアにあたるバルカン半島西部が、117年にウクライナ南端(クリミア半島)やブルガリア、そしてルーマニアがその領土となった。これらの地域は古典ギリシアをもとに研磨されたローマ文化により文明化していき、ことに上流階級は学問の多くをギリシャに学んだ。

東欧が独自の文化圏を形成し始めるのは、ローマ帝国が東西に分割統治された後のことだった。

西ローマ帝国が476年に滅亡すると、東ローマ帝国一の「ローマ帝国」として欧州を先導する。そんな折、6世紀になるとラブ東ローマ帝国領であるバルカン半島に南下・定住、セルビアブルガリアの原形を生む。

ビザンツ帝国と東欧世界の形成

東ローマ帝国は7世紀のヘラクレイオスの治世をギリシア化したが(もっとも古代ローマ帝国自体、ギリシア文化の色合いが強いが)、それゆえに古代ローマ帝国から明確に変質した(以下、ギリシア化したローマ帝国ビザンツ帝国と表記する)。皇帝が政教ともに統治するビザンツ帝国のもとで、東欧ギリシア正教の布教によりキリスト教化された。

ビザンツ帝国726年から像を否定的にとらえはじめると、布教の際にマリア像などを使用する西欧顰蹙を買い、結果的に東欧は独自の路線をいく形となる。この西欧との轢は、800年にカール大帝が「ローマ皇帝」として戴冠し、ビザンツ帝国を「ローマ帝国」と認めず、西欧自らが新たに「ローマ帝国」を再現自称したことに繋がった(神聖ローマ帝国の原形)。962年、西欧にてオットー1世がこれまた「ローマ皇帝」として戴冠すると、欧州の東西分裂は決定的となった。

キエフ公国

ビザンツ帝国の権威が低下していく一方で、9世紀ごろにはスウェーデンノルマン人(ヴァリャーグ)がノヴゴロド、そしてキエフを建し、現地のスラヴ人と同化、ウクライナロシアベラルーシの原形を作った。とくにキエフはウラディミル1世の代で領土が拡大し、またビザンツ帝国からギリシア正教を受け入れた。さらにはビザンツ帝国の専制君主制をも受容したため、ウクライナロシア地域は西欧とは異なる東欧圏のとなった。なお、ビザンツ帝国キエフともに、農民の農化と貴族の大土地所有に、その社会的特徴が見られる。

ビザンツ帝国の最盛期

ビザンツ帝国バシレイオス2世(在位:976年 - 1025年)の治世期に、最大級の繁栄を見せた。

ついに長年の宿敵であった第一次ブルガリア帝国を滅ぼし、バルカン半島全に統一したのである。その領域は東はアルメニアシリアから西はイタリア南部まで、北はドナウから南は地中海々にまで至る。しかも驚くべきことに、それら領域のどこであれ、常に平和で安定していた。

首都コンスタンティノポリス西欧アジアの、また北の黒海と南の地中海の中継地として十字を切るように発展し、都内は黄金く壮麗さを誇ったという。庫にもその繁栄は現れていた。すなわち、金銀財宝をこれ以上しまいきれないからと、庫を拡大工事したのである。

まさしくこの時代、東地中海世界ビザンツ帝国のもと平和を享受していた。

ポーランド地域の変遷

ポーランド地域はミェシュコ1世(在位:963年 - 992年)の代でローマ教会からキリスト教カトリックを受容し、ビザンツ帝国を宗としない、ローマ教会神聖ローマ帝国による西欧文化圏に編入された

東欧にあって西欧文化圏に位置するポーランドであるが、当初は神聖ローマ帝国の属ポーランド)として安政を維持していた。ところがポーランドはやがて神聖ローマ帝国との溝を深め、ボレスワフ1世(在位:992年 - 1025年)の代では現ウクライナにまで領域を拡大し、ポーランド王国として独立した(1025年)。

として際的に承認されるまで、ポーランドボヘミア(現チェコ)の侵攻に遭っていたが、1037年からは首尾良くそれを跳ね除ける。ちょうど、王は安定した時代を謳歌し始めていたのである。

新興国の受難

ところがカジミェシュ1世がした1058年以降、ポーランド王国は内乱期に突入した。神聖ローマ皇帝ローマ教皇が叙任権闘争に揺れる1076年、その叙任権闘争をポーランド王位に結びつけ即位する者が現れたが、諸侯がこれに反し乱を起こす。

この内乱を鎮めようやく内を統一できたのが1106年、ボレスワフ3世(在位:1102年 - 1138年)によってであった。当時のポーランド軍は神聖ローマ帝国の軍にも勝り、東ドイツ地域にまで領土を拡大していた。しかしボレスワフ3世亡き後、ポーランドは再び不統一性を露わにし、諸侯のもが利潤をめ奪い合う状態となる。また君の諸侯への妥協も年々増していき、これが国家不統一に拍をかけた。

1241年、このような状況下にあるポーランドへ、追い撃ちとなる存在が現れた。モンゴル帝国である。モンゴルの襲来によりポーランドは著しく弱体化したが、さらに、神聖ローマ帝国から安住の地をめるドイツ人らが急遽押し寄せ(東方植民)、ポーランドはより混沌を極めていくのだった。

モンゴル帝国

さて、題を正教圏の々に戻すが、大土地所有者の貴族らが自立傾向にあったのはビザンツ帝国キエフも同じであった。が、キエフにおけるそれはとくに著しかった。キエフ内では諸侯が多数分立したが、13世紀、そこを突いたのがバトゥ率いるモンゴル帝国の軍であった。分裂し弱体化したキエフまもなくモンゴル軍に圧倒されると、南ロシアには新たにプチャク=ハンが成立した。モンゴルによるウクライナロシア支配はその後およそ240年間も続くが、これが有名な「タタールのくびき」である。

モンゴル帝国の襲来はキエフに限らず、中欧にあったポーランドハンガリーもまた襲撃されていた。西欧はこれに対抗すべく教皇を中心に十字軍を結成して対抗したが、モンゴル軍の前に死体の山を築くこととなった。モンゴル帝国のハーン位を巡る争いが辛うじて、ポーランドハンガリー、そして西欧をくびきから逃した。

一方、ビザンツ帝国にとっては幸運であった。モンゴル軍はオリエント地域にも襲来していたからである。オリエントにあったセルジュークやその後裔のルーム・セルジュークと言ったイスラムビザンツ帝国は長らく押され続けていた。それらの要な国家モンゴル帝国によって滅亡させられるか、弱体化させられた。モンゴル帝国ユーシアに築き上げた巨大な交易ネットワークから得た富もあり、ビザンツ帝国は今しばらくの安息を得る。

ポーランドの栄光

モンゴル軍が襲来して間もない13世紀中ごろ、ポーランド内では、十字軍による迫から逃れてきたユダヤ人たちが移住してきていた。といっても彼らユダヤ人たちは、東方植民されたドイツ人らと同様、友好的で包括的なポーランド社会によく染んだ。とくにユダヤ人の活躍は次第にポーランド発展の礎ともなった。

13世紀はまた分裂やモンゴルの襲来など、ポーランドにとっては負の一面でもあったが、これも14世紀にもなると、回復の兆しへと変化する。1320年、ハンガリーの援助により即位したヴワディスワフ1世(在位:1320年 - 1333年)の手により、ポーランドは再び統一された王として復権する。

この流れは彼の息子カジミェシュ3世(「ポーランド一の大王」、在位:1333年 - 1370年)にも受け継がれ、ポーランドの対外的地位を高めるに至った。さらに、大王クラクフに大学を設立し、ヨーロッパ最重要の文化都市とした。14世紀はまさにポーランド絶頂期への前段階だったのである。

ポーランド・リトアニア連合

1385年から1569年の間、ポーランド王国ヤギェウォの下リトアニア大公と同盟し、ポーランドリトアニア連合としてヨーロッパ最大の繁栄を見せた。

1410年にはドイツ騎士団に大勝し、十字軍から決定的な優位を獲得。さらにその数十年間の間にボヘミアハンガリーをも領土とし、その領域を東欧どころか中欧にまで拡大させた

1526年にはオスマン帝国と対峙し、モハーチの戦いによりハンガリーを喪失、また1547年に戴冠したイヴァン4世が率いるモスクワ大公国の脅威にも曝されるようになり、防上の懸念がなされたが、ポーランド黄金期は健在であった。ヤギェウォが断絶すると共和政に移行した。この共和政はポーランド黄金の時代をもたらした。選挙権を持つ貴族は王の地位の確立と維持に貢献した。また、当時の西欧は人口が増加し、穀物をより多くめたが、これが穀物を大量に抱えるポーランドにとって何よりも吉報であった。まもなく共和欧州最大の穀物供給地となり、非常に潤った庫に歓喜することとなる。

オスマン帝国

1299年にアナトリア半島西端、すなわちビザンツ帝国の右隣にテュルクトルコ)系のオスマン・ベイがオスマン朝を開いた。オスマン朝は周辺を統合しつつ、次第にビザンツ帝国バルカンを圧しはじめる。1393年には第二次ブルガリア帝国を滅ぼし、続く1394年にはセルビアを臣従させた。これによりオスマン朝帝国的性質を強め、オスマン帝国として東欧に君臨し始める。ティムール帝国敗北したため、一時的に弱体化した。それにとともに、ハンガリーを含むバルカンは猛抵抗を行った。しかし、1453年にはメフメト2世ビザンツ帝国首都コンスタンティノープルを陥落させ、そのままビザンツ帝国を滅亡させた。

古代より続いた「ローマ帝国」、すなわちビザンツ帝国が滅亡したことは当時にして衝撃的だった。オスマン帝国はその後も拡大し続け、15世紀中にギリシア、エーゲ沿アルバニアセルビアボスニアを次々と征し、クリミアハンを属として、ワラキアモルダビアを臣従させた。この帝国の領域は欧州にとどまらず、16世紀には、アナトリアアルメニアメソポタミアシリア、ヒジャーズ、エジプト、トリポリ、チュニジアアルジェリアアジアアフリカにもその勢を拡大。旧ビザンツ帝国領を継承・昇させた。1526年にはハンガリーを奪い、中欧にも進出。全盛期を築き上げる。

ロシアの成立

モンゴル帝国オスマン帝国と、東欧にはビザンツ帝国時代とは一転して黄色人種モンゴロイド)を出自とする遊牧国家が割拠していった。

しかし、15世紀ごろには商業都市モスクワを軸とするモスクワ大公国が台頭する。イヴァン3世の時代にもなると東北ロシアを統一し、モンゴルによる支配から脱し、逆にモンゴル帝国の末裔である原の遊牧民族国家を次々と吸収していく。こうして自信をつけて行った大公は徐々にキエフの後継を自認し始める。またイヴァン3世はビザンツ帝国最後の皇帝の姪と婚姻し、ギリシャ正教を亡きビザンツ帝国から継承していることから、「(東)ローマ帝国の後継者」を自称、ツァーリ(王あるいは皇帝)と号した。モスクワ大公国はその後も発展していき、雷帝ことイヴァン4世の時代には正式にツァーリを称号として名乗りロシア・ツァーリが成立。農制の強化と中央集権化が推し進められた。

然し、余りい中央集権化はロシア混乱を呼んだ。イヴァン4世の死後、西欧大航海時代宗教改革オスマン帝国との対立に一喜一憂している間、ロシアは後継者争いの動乱期にあった。これを定したのがフョードルニキチチ・ロマノフであり、そのため彼の息子ミハイル・ロマノフは1613年に正統なツァーリとなる。これがロシア300年王、ロマノフの成立であった。

当初、ロマノフは微弱な権基盤に悩まされた。また、絶頂期を迎えていたポーランドリトアニア共和国スウェーデンの攻撃にしばしばさらされた。共和にはスモレンスクを奪われ、スウェーデンにはへの出口カレリアイングリアを取られた。しかし、幸運だったのは、共和スウェーデンしく争っていたことだった。

ポーランド、オスマン帝国、スウェーデンの弱体化、ロシアの躍進

共和ではこの時期に新大陸からの農産物によって、要な商品であった食料が売れなくなり始め、黄金期を支えた貴族層が経済難から落、大貴族達が権闘争を行い始めた。そうした中で、バルト帝国として全盛期を迎えていたスウェーデン王国は、バルト沿部を手に入れるべく、共和内部の勢と結びついて、共和を時に軍事的に圧倒した。

これにロシアは便乗した。1667年には、ドニエプル以東のウクライナを割譲させることに成功した。この間にも、シベリアを東に征し、領土がついには太平洋に達した。

オスマン帝国弱体化をしていた。第二次ウィーン包囲が失敗すると、1699年ついにハンガリーハプスブルクに割譲した。オスマン帝国の拡大はここに止まったのである。同時期にオスマン帝国との紛争を抱えていたロシアも優勢の内に講和を進められた。

また、スウェーデンバルト覇権にもガタが来た。スウェーデンの繁栄はスウェーデンの技術の先進性と君軍事バルト上優勢だった。スウェーデンは巧みに周辺を圧倒したが、その結果全方位に敵を抱え込むこととなった。元々、スウェーデンは共和ロシアべれば、かに少ない人口であったが、こうした中で、ついに外交的にも財政的にも、そして軍事的にも限界が来たのである。

5代君ピョートル1世近代化政策を進めると、ザクセンデンマークと共に反スウェーデン同盟を結成。大北戦争が始まった。この大北戦争勝利した結果、東欧ロシアを圧倒する国家は一つもくなっていた。1721年、彼は「インラートル(皇帝)」として承認を受け、ロシア皇帝となった。こうしてロシア帝国は成立したのだった。

激動の近代

西欧に軸を置くオーストリア事実ロシアの保護となっていたポーランドを除き、東欧オスマン帝国ロシア帝国の支配に二元化されていた。興味深いのは二ともに「東ローマ帝国ビザンツ帝国)の継承者」を自任していることであり、ある意味東欧は再び東ローマ帝国が統治する時代となったのである。

しかしオーストリア帝国オスマン帝国による多民族支配は限界を見せ始め、ロシア帝国の農民の農化も臨界点を迎えつつあった。これがフランス革命、そしてナポレオン・ボナパルトの登場によって「市民階級の台頭」というに煽られ、より顕著なものとなる。すでに時代は近代に入っていた。

ナポレオン1812年のロシア遠征(ロシア側では祖国戦争)以来失脚し、1815年のワーテルローの戦いにおいて決定的に転落する。これによりロシア帝国際的地位は高まるが、一方で、「市民階級の台頭」も抑えがたくなっていた。欧州ウィーン体制により旧体制、すなわち支配階級による統治体制を維持・回復しようと試みるが、すでに革命はもうすぐそこまで迫っていた。

オスマン帝国も他人事ではなかった。一連のナポレオン戦争によってバルカン半島の支配は動揺し、1805年にセルビアが、1821年にはギリシャが、それぞれ独立に向けて動き出した。また1830年にはムハンマドアリーによりエジプトが半独立し、もはやオスマン帝国は「瀕死病人」というレッテルを否定できないようになっていく。

オスマン帝国 VS ロシア帝国

ロシア帝国の悲願は「凍らぬ」であった。極寒帝国にとって、自由世界へと航できるを確保することがいかに重大であったかは、想像に難くないだろう。近代に入りロシア帝国は農民の不満が爆発し、それを何らかの形で発散させる必要があったから、戦勝と不凍港の獲得でそれを帳消しにしたかった。内の憤を外へ向けるという点でも、凍らぬへの戦い――すなわち「南下政策」は不可欠であった。

一方でオスマン帝国標は国家の再、「名誉挽回」にあった。1829年には英ロシア帝国の介入によりギリシャ独立を許した。1831年からはエジプトトルコ戦争事実上の敗北を喫し、エジプトの半独立を認めざるを得なくなると、いよいよ領土の縮小が加速した。そこにロシア帝国の「南下政策」が登場、オスマン帝国が統治するバルカン半島に浸透し、それゆえかセルビアブルガリア独立傾向を露わにした。

内の不満を外へ向けるべく、汎スラブ義と称して同じスラブ人地域に干渉し「南下」を画策するロシア帝国
相次ぐ離反の逆に終止符を打つべく、ふたたび世界帝国として「名誉挽回」をオスマン帝国

この落しゆく二は、もはや他者と干渉しあうか、あるいは下すことでしか生き残れなかった。

クリミア戦争

1831年から起こったエジプトトルコ戦争において、ロシア帝国オスマン帝国を援助する代わりに、黒海から地中海へと繋がるダーダネルス・ボスフォラス峡を要した。「南下政策」の故である。しかしロシア帝国の拡大を恐れた大英帝国の干渉によりこれは実現し得なかった。

1853年、ロシア帝国オスマン帝国内のギリシア正教徒の保護を理由に、オスマン領のイェルサレムの管理権を要、そして侵入した(もちろんこれも南下政策の一環である)。クリミア戦争の勃発である。

大英帝国フランス帝国はやはりロシア帝国暴走を恐れ、翌年戦争に介入、オスマン側につく。もはやクリミア戦争オスマン帝国ロシア帝国の生き残りをかけた戦いにとどまらず、ヨーロッパ全土にしかねない列強間の争いとなってしまったのである。

ウクライナ南端に位置するクリミア半島、そこのセバストポリ要塞を巡って戦が繰り広げられたが、サルデーニャ王が英オスマン帝国に味方したことにより、1855年9月11日ロシア帝国敗北をもって終結した。

分立する東欧

戦後1856年、コンスタンティノープルイスタンブール)に隣接する、黒海地中海を結ぶダーダネルス・ボスフォラス峡の通航が禁止され、黒海中立となった(パリ条約)。これにより南下政策は大きく頓挫し、また戦争による疲弊もあわさったため、ロシア帝国は著しく弱体化した。

オスマン帝国もまた大きく打撃を受けた。戦後の疲弊もそうだが、なにより「他の助けなしには戦勝できない」ことがめて明るみとなったからである。「瀕死病人」という不名誉極まりない渾名を覆すことなど到底かなわず、むしろ、帝国弱体化バルカン独立を一層煽っただけだった。

この脆弱化していくオスマン帝国による、東欧の支配にとどめを刺したのがセルビアで、1878年にセルビアとして独立すると、同年ルーマニア独立ブルガリアも1908年に独立し、その他のバルカンも相次いで離反した。

世界大戦期

20世紀の東欧は、ロシア帝国オーストリアハンガリー帝国、そして独立後のバルカンに大きく分類できる。ここで厄介なのがオーストリアハンガリー帝国で、クロアチアスロバキアなどのスラブ人地域を内包していながら、必ずしも多数ではないドイツ人がそれを統治するという、時代とは逆行した体制をとっていた。

先のオスマン帝国に見られるように、このような多民族支配には限界が付きものである。そしてそこには宗教上の混沌も存在するということを、過去クリミア戦争明していた。

ロシア革命

1914年、ボスニアサラエボにてオーストリア皇太子夫妻が殺されると、オーストリア側はスラヴ民族をおさえる好機とみて、ドイツ帝国と結託し、7月末にセルビアへ宣戦した。ドイツオーストリア側には汚名返上を図るオスマン帝国も加わるが、対してロシア帝国は同じスラヴ国家であるセルビアの側に立ち、たちまち戦争の規模は拡大していった。第一次世界大戦の勃発である。

ポーランドルーマニアセルビアは同盟側(ドイツオーストリアオスマン)に占領されたが、1917年、ロシア帝国戦争どころではなかった。というのも革命っただ中にあったからである。

3月8日都ペトロラードでは民衆が平和を訴え、あるいは大規模なデモストライキを起こしていた。これに軍隊も同調すると、革命の波はロシア帝国全域に広がった。労働者を代表とする兵士たちはソヴィエトと称して革命を推進、結果、ロシア皇帝ニコラ2世位とロマノフ終焉をもって、ロシア帝国は解体された。

第一次世界大戦もまた、1918年11月11日、今は亡きロシア帝国を含む連合側(英希露)の事実上の勝利により、また新たに誕生したドイツ共和との休戦協定により終結した。

第一次戦後の東欧

第一次世界大戦が終わる頃には、世界地図が大きく塗り替えられた。

東欧もその例外ではない。北から順に、フィンランドエストニアラトビアリトアニアバルト三国ポーランドチェコスロバキアハンガリーなど、ながらく他の領土とされていた多くの独立した。またバルカン半島では、ルーマニアが領土を拡大し、セルビア一帯はユーゴスラビア名したほか、アルバニア独立した。

こうして第一次世界大戦後は、オーストリアハンガリー帝国オスマン帝国が解体され、多くのが誕生したのである。オスマン帝国トルコ共和国にとって代わり、多民族支配のから「トルコ人の国家」として軌を修正したのだった。

ロシア帝国亡きあとのロシアでは、いわずもがなソビエト連邦が成立していた。

ナチス=ドイツの拡大

1938年3月、新たにナチス労働党による国家となったドイツは、民族統合を理由にオーストリアを統合した。同年9月ドイツは、ドイツ人が多く住むチェコスロバキアズデーテン地方の割譲を要チェコスロバキア代表を会議に参加させない状態で、英の四カ話し合いチェコスロバキアからズデーテン地方を奪い取ったヒトラードイツの領土欲はそこで収まらず、翌39年にはチェコスロバキア解体を強行し属とした。

またポーランドに対しても、ダンツィヒの返還と東プロイセンへの陸路を要した。このイタリアアルバニアを併合、東欧は着実に蝕まれていった。

ようやく独立し得たポーランドとしては、ナチスドイツの要などのめるがなかった。というわけでドイツ側の要拒否するが、ドイツソ連独ソ不可侵条約を結び、後顧の憂いを断つと、9月1日ポーランド侵攻を開始。これに脅威を感じた英ドイツに宣戦、かくして第二次世界大戦が始まった。

ソ連の侵攻と大戦の終結

ドイツ軍されるポーランドに対し、ソ連は侵攻を開始、まもなく独ソ間で分割占領した。ソ連1940年フィンランドから地帯を奪い、さらにバルト三国をも併合、ルーマニアの一部も獲得した。

ソ連と隣接するようになったドイツは、1941年6月独ソ不可侵条約を破棄し、フィンランドイタリアルーマニアとともにソ連に攻撃を開始した(独ソ戦)。当初ドイツ側はモスクワにまで迫る進撃を見せたが、結果的に戦局は逆転し、1945年にはソ連ドイツへと迫っていく。オーストリア首都ウィーンソ連に占領され、まもなくドイツベルリンも占領された。5月7日のことだった。ドイツ無条件し、ここにナチスドイツ全に消滅、第二次世界大戦日本軍の降により全に終結した。

二度の大戦の結果、東欧はもちろん欧州そのものが大きく転落した。かつては世界導的位置にいた欧州も、とうとう世界の一地域にまで落したのである。

冷戦から現代へ

戦後ソ連アメリカ合衆国と並ぶとして世界に君臨した。次第に戦後世界についてソ連アメリカ合衆国は相互不信を深めていき、その結果、世界ソ連を盟とする社会主義(いわゆる「東側」)と、アメリカ合衆国を盟とする資本主義(いわゆる「西側」)とに分かれた。

ソ連に代表される東側諸国と、アメリカ合衆国が率いる西側諸国界線は、「東欧」をもってして明に表れた。

東側諸国の西側に対する最前線が、そのものずばり東欧だった。東ドイツポーランドチェコスロバキアハンガリールーマニアブルガリアアルバニアが、ソ連衛星あるいは属としてすぐ隣の西側に面していたのである。

ユーゴスラビア

セルビアを実質的な盟とするユーゴスラビアは、非同盟運動底し独自の路線を行っていた。とくにチトー政権下では多民族・多文化・多言・多宗教をある程度は越えた、安定した国家運営がなされていた。

しかし1980年チトーが亡くなると、コソボ独立志向が高まり、他地域も次々と独立していった。2006年には最後に残ったモンテネグロさえも離別し、とうとうセルビアだけのセルビア共和国となる。ところがこのセルビアにおいても、2011年現在イスラム教徒が多い南部コソボが独自にユーロを流通させるなど、独立の意志を強めている。

ソ連の崩壊

1980年代に入ると、ソ連にも限界が生じていた。エストニアラトビアリトアニアバルト三国独立の意思を表明し、また1989年にはベルリンの壁崩壊が見られた。くわえて1990年3月から7月東欧選挙が行われたが、ほとんどの共産党が第一党から脱落した始末。

1991年12月8日ソ連内部にてクーデターが起こり、それがバルト三国独立を促した。またウクライナベラルーシソ連から独立することで同意、12月25日ソ連全消滅した

ソ連の崩壊後、東欧は次々と資本主義となっていくが、この東欧の歴史や遺産あるいは遺恨は、現代へ密接にし、現在世界情勢を形成していくこととなる。

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