松平信定(まつだいら・のぶさだ)とは、
桜井松平家初代当主。松平長親の三男。兄に松平信忠、松平親盛。弟に松平義春、松平利長。子に松平清定がいる。
父の隠居により長兄・松平信忠が家督を継いだが、器量も無く人望も乏しかったため、信定の家督継承を求める声が大きかった。また父からの寵愛も大きく、信定自身も次期当主は自分であるとの自負があった。(それでも実権自体は長親が握っていた。)
しかし、叔父・松平親房(松平親忠の四男)の養子になったあたりから雲行きが怪しくなる。親房の養子になったことで家督候補から外されてしまう。
そればかりか、長親が本格的に隠居したため、日増しに家臣団の信忠への対応が厳しくなり、1523年に信忠の嫡男・松平清康が松平家7代当主に就任した。
これに不満に思った信定はここから松平家本家への姿勢を積極的従順から消極的従順へとシフトチェンジしていく。
尾張の織田氏に近づき、織田信定の娘を正室に娶った。後年、織田信定の子・織田信光に娘を嫁がせたという。
これにより織田氏との戦闘の際は出陣をボイコットし始める。
1530年、今川氏輝配下の熊谷実長が籠もる宇利城攻めでは出陣するものの、病と称して陣から出なかった。結果として次兄・松平親盛とその子・松平親次が戦死してしまう。
この一件の不手際を衆目の前で叱責を受け、深く恨んだという。これにより戦闘は行わないものの信定と清康の対立は明らかとなった。
1535年、清康が守山にて阿部正豊によって横死すると、この混乱の隙に岡崎城を占拠した。これにより清康の嫡男・松平広忠は家臣に守られて伊勢に逃亡した。
正豊の父・阿部定吉の機転により、今川義元の庇護を得ることに成功し、1537年には松平信孝(清康の弟)が広忠派に鞍替えしたため、情勢は大きく劣勢したため広忠に降伏して帰順した。
それでも松平家宗家には完全に従ったわけでもなく、1538年に病没した。
それ以降も桜井松平家は松平家宗家と敵視し続け、完全に恭順するのは曾孫の4代・松平忠正が当主期となった三河一向一揆終了後であった。
松平信綱の四男。兄に松平輝綱、松平吉綱、松平伊織。弟に松平信興、松平堅綱。子に松平斐章(三男)、松平信望(五男)、松平輝規(十男)、九鬼隆直(十一男)、松平信応(十三男)がいる。
柳生新陰流の使い手であり、柳生宗矩、柳生三厳、柳生宗冬、柳生宗在、柳生俊方の5名が信定存命時の柳生藩当主である。恐らく信定の師匠は宗矩であろう。
常陸国新治郡5千石の旗本領主となる。
1697年に五男・松平信望(四男とも)に家督を譲り隠居した。
実子には男子は13名いたが、成人したのはわずか5名だったという。
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最終更新:2025/04/10(木) 12:00
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