松平信定 単語

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松平信定まつだいら・のぶさだ)とは、

  1. 戦国時代の武将。
  2. 江戸時代の人物。

1の松平信定(????-1538)

桜井平家初代当松平長親の三男。信忠盛。利長。子に清定がいる。

の隠居により長信忠督を継いだが、器量もく人望も乏しかったため、信定の督継承をめるが大きかった。またからの寵も大きく、信定自身も次期当は自分であるとの自負があった。(それでも実権自体は長が握っていた。)
しかし、叔父房(松平親忠の四男)の養子になったあたりから行きが怪しくなる。房の養子になったことで補から外されてしまう。
そればかりか、長が本格的に隠居したため、日増しに臣団の信忠への対応が厳しくなり、1523年に信忠の嫡男・松平清康平家7代当に就任した。
これに不満に思った信定はここから平家本家への姿勢を積極的従順から消極的従順へとシフトチェンジしていく。
織田氏に近づき、織田信定のを正室に娶った。後年、織田信定の子・織田がせたという。
これにより織田氏との戦闘の際は出をボイコットし始める。
1530年、今川配下の熊谷実長が籠もる攻めでは出するものの、病と称してから出なかった。結果として次盛とその子・次が戦死してしまう。
この一件の不手際を衆の前で叱責を受け、深く恨んだという。これにより戦闘は行わないものの信定と清康の対立は明らかとなった。

1535年、清康が守山にて阿部正豊によって横死すると、この混乱の隙に岡崎を占拠した。これにより清康の嫡男・松平広忠臣に守られて伊勢に逃亡した。
正豊の阿部定吉の機転により、今川義元護を得ることに成功し、1537年には信孝(清康の)が広忠替えしたため、情勢は大きく劣勢したため広忠に降して帰順した。
それでも平家には全に従ったわけでもなく、1538年に病した。

それ以降も桜井平家平家と敵視し続け、全に恭順するのは曾孫の4代・忠正が当期となった三河一向一揆終了後であった。

2の松平信定(1627-1717)

松平信綱の四男。綱、吉綱、伊織堅綱。子に章(三男)、信望(五男)、規(十男)、九直(十一男)、信応(十三男)がいる。

柳生新陰流の使い手であり、柳生宗矩柳生三厳柳生柳生宗在、柳生俊方の5名が信定存命時の柳生である。恐らく信定の師匠は宗矩であろう。
常陸新治5千石の旗本領となる。
1697年に五男・信望(四男とも)に督を譲り隠居した。
実子には男子は13名いたが、成人したのはわずか5名だったという。

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