「松平忠輝」(まつだいら・ただてる 天正20(1592年)~天和3(1683年))とは、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、大名である。
江戸幕初代将軍、徳川家康の6男。2代将軍秀忠の弟。
天正20(1592)年、誕生。
武蔵深谷1万石→下総佐倉5万石→信濃川中島藩12万石→越後高田藩45万石(他説に60~75万石)と大名としては順調に栄転し、慶長19(1614)年に家康の命により、高田城を築城したが、大坂の陣後の元和2(1616)年に将軍秀忠より改易され、その後は流浪・幽閉の人生を送った。
天和3(1683)年、幽閉先だった諏訪高島城にて92歳で死去した。
天正20(1592)年1月4日に江戸城で誕生。
生母は茶阿局(ちゃあのつぼね)。※家康の継室、阿茶局とはまた別人
同母弟に家康7男の松千代がいる。
茶阿局については、前夫を代官に殺され、その代官を仇討ちしてもらおうと鷹狩中の家康一行の前に飛び出し、その際に家康が一目で気に入り娘ともども拉致に近い形で引き取った、というのがとのなれそめという、なかなかの行動派な女性だった。
忠輝の幼名は、生年が辰年だったため、辰千代となった。
しかし家康は、忠輝の誕生を素直に喜ばず、側近の本多正信に拾わせて、養育先として下野皆川城主、皆川広照に預け育てさせたとされる。
家康と初めて面会したのは慶長3(1598)年、忠輝7歳の時だった。
この時も忠輝は家康に嫌われたままだったとされる。
幼少期から忠輝は剛健だったそうで、武術を好み上達も早かったそう。
しかしその反面粗暴なふるまいも目に付くことようになった。皆川広照ら家老が「何とか忠輝様のふるまいを直してください」と幕府に直訴して逆に改易されたこともあった。
その後は先述のように
1599年に武蔵深谷1万石
1602年に下総佐倉5万石
1603年に信濃川中島藩12万石
1610年に越後高田藩45万石(他説に60~75万石)※当初は前任の堀氏の居城福嶋城を拠点とした。
と栄転した。家康も次第に忠輝に要所を任せるようになる。
高田は、加賀百万石を誇った前田家の参勤交代の中継点にあり、万が一戦が起きた際はその抑えも兼ねていたとされる。
1614年には高田城の築城がなされる。伊達政宗、上杉景勝などの周辺13大名が普請に加わった。
今の高田城下の町割りは忠輝時代の形を残したまま後世に引き継がれている。
さらに上記の途上で、伊達政宗の長女・五郎八(いろは)姫と結婚している。※断じて「ごろはち」という男ではない
これには後に改易される大久保長安の仲介があったとされる。
その後、1614年、徳川氏と豊臣氏による大坂の陣が勃発する。
しかし、大坂冬の陣で、忠輝が命じられたのは居留守役。これには武勇を誇っていた忠輝ももちろん不満で当初は高田を出発せず岳父の伊達政宗に促されて従ったそうな。政宗に「来いよ」って言われたらそら絶対行きそうなもんだが…。
これだけならまだしも、夏の陣でも忠輝は遅参し、さらに近江にて兄秀忠直属の旗本を斬り捨てる事件を起こした。※念のため記載させてもらうと、この際に違反(戦中の追い越し)を犯したのは秀忠直属の旗本の方である。さらにさらに朝廷への参内を要請された際に仮病を使って京都の桂川での舟遊びを優先していた。
…これが家康の怒りという火にガソリンを注いでしまう。波平「タダテル!お前は出入り禁止だ!」
1616年の徳川家康死去の際は、駿府城に家康の息子たち秀忠・義直・頼宣・頼房が死に際に呼ばれたさなか、忠輝は家康の死と聞きつけて駿府城まで来たのに面会を許されずハブられた。
そして1616年7月、秀忠より忠輝は改易を命じられた。そのまま伊勢国朝熊(あさま)に流された。後に朝熊→飛騨高山→諏訪と流され、1683年幽閉先の諏訪高島城で寂しく92歳の生涯を終えた。時すでに5代将軍綱吉の時代、忠輝が歴史の表舞台から去って70年近く経とうとしていた。
徳松という息子もいたのだが、預け先の家で冷遇され、自殺した。
「信長の野望」シリーズにおける松平忠輝の能力一覧。
登場は天翔記から。過大評価な気もするが、家康の息子、伊達政宗の婿として恥じない能力の持ち主。当初はオールラウンドに強かったのだが近年は軍事特化型。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 政治 | 魅力 | 野望 | ||||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 政治 | 魅力 | 野望 | 教養 | |||||||||
覇王伝 | 采配 | 戦闘 | 智謀 | 政治 | 野望 | |||||||||
天翔記 | 戦才 | 154(B) | 智才 | 170(A) | 政才 | 132(C) | 魅力 | 80 | 野望 | 73 | ||||
将星録 | 戦闘 | 87 | 智謀 | 79 | 政治 | 70 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 74 | 戦闘 | 81 | 智謀 | 73 | 政治 | 61 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 69 | 智謀 | 62 | 政治 | 14 | 野望 | 77 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 72 | 知略 | 63 | 政治 | 7 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 72 | 知略 | 56 | 政治 | 7 | 教養 | 60 | ||||||
革新 | 統率 | 80 | 武勇 | 82 | 知略 | 63 | 政治 | 8 | ||||||
天道 | 統率 | 67 | 武勇 | 78 | 知略 | 63 | 政治 | 8 | ||||||
創造 | 統率 | 64 | 武勇 | 73 | 知略 | 63 | 政治 | 22 |
何といっても忠輝を紹介するうえで真っ先に出てくるのは隆慶一郎先生の「捨て童子・松平忠輝」であろう。
掲示板
5 ななしのよっしん
2022/05/25(水) 07:52:55 ID: NrudTCWAHI
同じく嫌われた兄弟として秀康がいるけど、二人が嫌われたのは母親の身分が低かったというより自分の子か分からなかったって感じだと思う
秀康の母も当時性に奔放な人と悪評があったらしいし忠輝の母親も時期が時期だったから家康が本当に自分の子か疑ってたと勝手に邪推してる。
現に同腹の弟は生まれてすぐに領地を与えられてた訳だから
6 ななしのよっしん
2023/04/08(土) 20:39:29 ID: vDyjk9MfB+
家康に嫌われてるって言っても、所領や官位を考えれば、家康の子としてそれなりに扱われてるんだが、やっぱ後の異母兄弟が尾張・紀州・水戸の御三家で徳川名乗ってるのを考えると不満だったんだろうな
その理由は生母の身分や出自だったり、忠輝の気性や行い、関ヶ原前・江戸幕府開く前に野心の強い伊達政宗と縁組の関係のせいで御三家同等の扱いができなくなった、附家老の大久保長安事件とか色々要因があるんだろうなと思う
45万石(60~75万石)貰ってるなら、あまり中央に関わらず、言われた事だけこなして静かに生きりゃいいのになぁ と一般人の俺は思うんだが当時の感覚だと徳川姓が名乗れず名乗れてる異母弟に抜かれてる・面目潰されてるとかそんな感じだったんだろうか
7 ななしのよっしん
2024/01/20(土) 19:36:36 ID: 36AxMBPCyg
生年にも諸説あり、1586年説・1589年説もある。ただでさえ長生きなのに、最も生まれが早い1586年だと数え年で98歳まで生きたことになる(それでも天海や石田三成の子・石田重家ともっと上はいるが…)。
そもそも1592年生説だと、母の茶阿局が推定40歳過ぎの、現在以上に高齢出産になる。
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最終更新:2024/04/20(土) 09:00
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