今注目のニュース
自衛隊の「航空ヘルメット」とは?戦闘機とヘリでも違い鉄帽やバイク用とも大きく違う
西之島 入山危険 噴火が発生している可能性あり
ローソン社員ガチ推し! 今年ハマった「激うまスイーツ」5つ

松平清康単語

マツダイラキヨヤス

  • 1
  • 0
掲示板をみる(6)
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE
  • ほめる(1)
  •  
  •  
  •  
  •  
  • その他

松平清康(まつだいら きよやす 1511 ~ 1535)とは、日本戦国時代に活躍した戦国武将である。

概要

三河(今の愛知県東部)の戦国大名で、徳川家康の祖にあたる。く間に三河を統一したが若くして不慮の死を遂げた、流れ星の如き人物。

生涯

誕生

平氏はいつの間にか三河に土着した一族で、本人達は源氏新田氏の系譜を引いていると記している[1]が、本当の来歴は消失しており不明である[2]。三河各地に分かれて割拠したのうち、今の安城市に勢った安祥平氏の4代にあたるのが清康である。

永正8年9月7日(1511年9月28日)に3代当信忠長男として誕生。幼名は竹千代母親水野氏の女性だとされるが諸説ある。

快進撃

大永3年(1523年)に祖松平長親臣団によって父親が隠居に追い込まれた事で、若干13歳で督を継承。一族郎党を率いる立場となった。

督相続してからは周囲への攻勢を強める積極的な領土拡大策を行い、平氏の勢を三河西部だけでなく東部にまで広げていった。その過程で岡崎の領である西郷信貞を屈させ、彼の波留を正室に迎える事で西郷氏を勢下に組み込んだ。その後、拠点を信貞の本拠地であった岡崎に移し、そこの頭山にあったを拡・全面築する。それが、現在岡崎の始まりである。

内政面では奉行・代官制を確立させ統治機構の充実を図っている。新城である岡崎下に臣団を移住させ寺院神社を誘致するなど下町を育て、今の岡崎市の原を形作っている。また中の士気高揚策なのか、臣の中でも特に武勇に秀でた者5人を岡崎五人衆として表している。

この頃から新田氏の末裔であるとして「世良田次郎三郎」を名乗った事が、後々に孫にあたる徳川家康に影を与えることになる。

2年(1529年)には三河東部の人衆の多くが恭順。11月には最後まで抵抗した熊谷氏も打ち倒し三河を統一。ただの一人だった平氏を一の大名へと発展させた。しかし清康のは次へ向いていた。もが平氏の更なる発展と栄末永く続く事を疑わなかった。しかし・・・。

早すぎる最期

三河統一から間もない享3年(1530年)には更なる勢拡大をし隣・尾(今の愛知県西部)に侵攻を開始。じわじわと確実に領域を拡していく。同時に尾の有者である織田信秀に対抗して美濃斉藤三や美濃三人衆と挟撃する密書を交わして全面対決する準備を整えたうえで、文4年(1535年)12月に自ら兵を率いて尾に進軍する。

こうして尾の守山に攻めかかったが、その攻戦の最中に「臣・阿部定吉が織田方に内通している」「清康は定吉を処刑する気だ」というデマ営に流れる。清康はこれを気にも留めていなかったが、臣団の間では定吉への疑念が深まり、険悪な空気が漂っていた。こうした状況で定吉は息子阿部正豊に「噂は事実根である」「もし自分が処刑されたら実を明して汚名をらしてほしい」と打ち明け、潔を訴える書状を託した。

その事件の翌日(現在12月29日)、手違いでが逃げ出した事で中がにわかに騒然となる。これを見た阿部正豊は・定吉が処刑されたと勘違いしてしまう。そのころ本戦闘準備をしていた清康だったが、怒りにかられた正豊によって背後からり殺された(守山崩れ)。享年25歳、破スピードで三河を統一し勢を拡大した英のあまりにもすぎた死であった。

守山崩れ・余談

これらの事件の裏にいたのは、清康の叔父である松平信定(桜井)とも噂される。愚鈍と言われた信忠べ、なかなか人望のあった人物と言われ、祖松平長親からも寵を受けていたらしい。

ところが、隠居させられた信忠の跡を継いだのは清康だった。そこで一族のトップの座を奪い取るために密かに織田と内通し、こうした策謀を巡らせていたのではないかと言われている。そして清康の死後、信定は岡崎を乗っ取ってしまうのである。

その後

暗殺犯の正豊はその場でり殺された。が子が仕出かした大事件を聞いた阿部定吉は死を以って償おうとしたが、清康の跡を継いだ息子松平広忠に止められ、許された。この後、定吉は生涯をかけて若き広忠の苦難を支え続けていく。

優秀なリーダーの死によって安祥は大暴落してしまう。三河は再び土着勢が割拠する分裂状態へと逆戻りし、隣織田氏と今川氏が領地を奪い合う戦場と化す。

安祥は大幅に弱体化して、広忠も一時は岡崎を追われるなど苦難の日々を過ごす事になり、生き残るべくが子を人質に差し出す事態へと陥ってしまう。

人物像

小柄だが勇猛果敢でどのような低い身分の者であっても慈しみを以って接し、優秀な人材はドンドンしていったという。その仁徳は多くの人を惹きつけ賞賛されたらしい。

十代の若さからトップに立ち、僅か13年の治世でを三河一を治める大名に成長させた実績は名君と呼ぶに相応しい。それ故に予期せぬ突然の最期はあまりにもダメージが大きく、以降は過酷な時代を迎える事になる。

清康から見て孫にあたる徳川家康も偉大なご先祖を尊敬し、自らの名前の康の字は清康から取られたという。

関連項目

脚注

  1. *新田末裔と言い出したのは何を隠そう清康が最初
  2. *賀茂氏の一族という説が有だが、室町時代以前の記録はサッパリ残っていない

掲示板

  • 4ななしのよっしん

    2017/09/10(日) 21:12:47 ID: XLA+drtUVX

    まあ史実なんて実際がどうだったかは確かめようがないが
    このられてる末だけを見ると、円満だったのをバカ一人が全部ぶっ壊した感がひでぇw
    暗躍してた信定もその後の急落ぶりを見るに、まさかここまでやらかすとは計算外だったのではw

    まあだからこそ、都合の悪い部分全てを正豊一人に擦り付けた感も強くはあるんだが
    そもそも情に駆られたが、本で戦準備中大将を背後から殺るとか、超展開レベルだよな
    アニメとかでそんな話やったら間違いなく突っ込みまくらボロクソかれるパターン

  • 5ななしのよっしん

    2018/10/21(日) 13:36:59 ID: 7hQa9RaRc8

    三河を統一しかけたというのも話盛られまくってるからな
    三河にはと同規模以上の人が同時期に多数いたし
    逆にその程度の勢の一人が斯波今川織田が争う魔で勢維持したのは凄い

  • 6ななしのよっしん

    2018/10/26(金) 18:09:24 ID: 7YwnZa05gI

    まあ死にしすぎた事と
    孫が家康って事で評価が相当難しくはなってるだろうが
    あの若さでぐちゃぐちゃの三河で相応の勢保ってたんだから一廉の人物ではあったんだろうな

急上昇ワード

最終更新:2019/12/07(土) 10:00

ほめられた記事

最終更新:2019/12/07(土) 10:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP