松本城 日本100名城 29 |
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別名 | 深志城 |
城郭構造 | 梯郭式+輪郭式平城 |
天守構造 | 複合連結式層塔型5重6階 |
築城主 | 小笠原長棟、石川数正・康長 |
築城年 | 1504年(永正元年) |
廃城年 | 1871年(明治4年) |
現存12天守のうちの1つであり、安土桃山時代末期から江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定されている。なお、国宝に指定されている城は松本城を含め5城のみである。
別名「深志城(ふかしじょう)」とも言う。
松本城の始まりは信濃守護家小笠原氏が林城の一支城として築城したのが始まりといわれる。
天守の縄張りは主に独立式・複合式・連結式・連立式の4つがあるが、松本城は連結式・複合式を併せ持った「複合連結式」天守である。
また、国宝5城のうち、松本城は唯一の平城(読み:ひらじろ 平地に築かれた城)である。他4城は平山城(読み:ひらやまじろ 平地の中にある山等に築かれた城)
氏 | 名 | 人物について |
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石川 | 数正 | 1590年に和泉国から8万石で入封。初代松本城城主。 |
康長 | 1613年に大久保長安事件に連座し改易九州佐伯へ配流。大天守を創建する。 | |
小笠原 | 秀政 | 1613年に信濃飯田から8万石で入封 妻「福姫」は家康の孫 |
忠真 | 1617年に播磨明石へ転封 | |
戸田 | 康長 | 1617年に上野高崎から7万石で入封 妻「松姫」は家康の義妹 |
康直 | 1633年に播磨明石へ転封 | |
松平 | 直政 | 1633年に越前大野から7万石で入封 家康の孫。辰巳附櫓・月見櫓を増設。 1638年に出雲松江へ転封 |
堀田 | 正盛 | 1638年に武蔵川越から7万石で入封 家光の老中 1642年に下総佐倉へ転封 |
水野 | 忠清 | 1642年に三河吉田から7万石で入封 家康生母「於大」の実家筋 |
忠職 | ||
忠直 | ||
忠周 | ||
忠幹 | ||
忠恒 | 1725年に江戸城内で刃傷事件を起こし改易(松本大変)その後幕府が松本城を収公する | |
戸田 | 光慈 | 1726年に志摩鳥羽から6万石で入封 戸田氏は松本へ再度の入封 |
光雄 | ||
光徳 | ||
光和 | ||
光悌 | ||
光行 | ||
光年 | ||
光庸 | ||
光則 | 1869年版籍奉還 最後の藩主 |
1871年(明治4年)廃藩置県が行われ、翌1872年(明治5年)に天守が払い下げになった。
当時の金額で、235両125文で個人に売却されたが、市川量造が「このままでは天守をみすみす壊されてしまう」と憂い、地元はもとより、東京・大阪まで募金を呼びかけた。
さらに、当時流行りであった博覧会を天守を用いて行い、その観覧料と合わせ買戻しに成功した。
明治時代に天守が傾き、倒壊の危険があった
「明治の大修理」で天守を綱で引っ張り、この傾きを直した。
なお、現在の天守内の柱にはこの時できた凹みがあり、近くにいるガイドのおじちゃんにその事を聞くと、「よく知ってるね~」と言いながらさらに詳しい説明及び実際凹んでいる柱も見せてくれるので、これから行かれる方はぜひ聞いてほしい。
松本市民や近隣地域の住民からは「烏城(からすじょう)」と呼ばれる事も多々あるが、これは間違いである。
別名として烏城が広まったとされるのは昭和30年代後半~昭和40年代にバスガイドによってだとされている。
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最終更新:2025/02/12(水) 23:00
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