松本山雅FCとは、長野県松本市、塩尻市、山形村、安曇野市、大町市、池田町、生坂村、箕輪町、朝日村、高森町をホームタウンとする、Jリーグ所属のサッカークラブである。
チーム愛称は「ターミガンズ(Ptarmigans、さらに略して「ガンズ」)」で、長野県の県鳥である「雷鳥」を意味する。
なお、今のところ愛称をチーム名称に入れる予定は無い。
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2012年にJリーグに加盟。チーム初のJ1となる2015年で創立50周年を迎える歴史あるチーム。Jリーグを目標に掲げたのは最近で、そのきっかけの一つに、日韓W杯のキャンプで松本を訪れたパラグアイ代表GKチラベルトの存在がある(後述)。
松本市のアルウィン(Alwin)を本拠地としている。アルウィンの名はアルプス(alps)とウィンド(wind)を組み合わせたもの。空港が近いことからスタンドは堀込式で屋根のカバー率は低い。でも試合が始まればそんなこと気にしない。
チームカラーは緑色。発足当初も緑だが何度も変更を繰り返していた。1991年に読売サッカークラブ(現:東京ヴェルディ1969)のような強いチームを目指して固定された。緑一色に染まるスタンドはアルプスの山々によく映える。クラブマスコットは、長野県の県鳥「ライチョウ」をモチーフとした「ガンズくん」。
1965年に山雅サッカークラブとして創設。この「山雅」という名は、創設時のメンバーの行き着けだった喫茶店の名前から由来する。店主が「山」と「優雅」を組み合わせて命名したもので、北アルプス登山を趣味とする人が多く集まる店だったという。残念ながらこの喫茶店は現存していない。
北信越リーグが1975年に発足されて以来、一度も長野県リーグに落ちることなく35シーズンも在籍していた。ディビジョン制が敷かれて以降は2年間ほど2部に在籍していたが、その後は1部で優勝争いに常に加わるようになる。
日韓W杯開催を控えた2002年、松本市がパラグアイ代表を誘致した。アルウィンを拠点にキャンプをしていたところ、チラベルトが「素晴らしいスタジアムがあるのに、なぜプロのクラブがないんだ?」とコメントした。これを契機に松本にプロサッカークラブを作る機運が高まった。
2004年、NPO法人アルウィンスポーツプロジェクト(ASP)を運営母体とし、将来のJリーグ参入を目指すクラブとなる。翌年にクラブ名を「松本山雅FC」へ変更し、新たなスタートを切った。
国内のインターネット環境が整ってきた00年代後半、山雅は県内のライバルであるAC長野パルセイロとともに、一部のコアな国内サッカーファンには知られる存在となっていた。その理由として…
そういうこともあり、山雅とツエーゲンがJFL昇格で抜ける前までの北信越リーグ1部は、「世界一無駄に熱いアマチュアリーグ」と称されたのだった。
さて、そんなこんなで北信越リーグ1部でもがく山雅に対しわずかに差した光が、2009年に行われた第89回の天皇杯である。この年のリーグ戦を4位で終えてしまった山雅は4度目の天皇杯出場となり、しかも1回戦と2回戦がホームグラウンドである松本平広域公園総合球技場(通称「アルウィン」)で行われることになった。特に2回戦の対戦相手はシードの浦和レッドダイヤモンズで、彼らと対戦するには初戦の相手である当時格上のFC刈谷に勝たねばならなかったが、1-0で難なく勝利した。
ついにいよいよお待ちかねの浦和戦、当時は14494人もの観戦客が入り、大挙で押し寄せてきた浦和サポーターに負けず劣らず、山雅側のサポーターやファンも多く訪れた。
肝心の試合はというと、柿本選手の前半12分のループシュート、阿部選手の後半72分にきた相手のクリアミスをそのままシュートしてそれぞれ得点し、何と2-0の完封で勝利してしまった。また、地域リーグ所属クラブがJ1所属クラブに勝利したのは、天皇杯では初のことであった。ちなみに3回戦のFC岐阜戦は1-4と完敗した。
それでもJ1の名門クラブを破ったことは大きな自信となり、これをきっかけに地域リーグ決勝大会への出場の可能性が残されていた全国社会人サッカー選手権大会で優勝し、出場権を獲得。その後の地域リーグ決勝大会では決勝ラウンドまで進み優勝、JFLへの自動昇格枠を手にしたのだった。
なお、この決勝ラウンド、全試合アルウィンで行われ、入場者数が1万人を越えたという。まさに大会史上伝説となった回であると言えよう。
2010年シーズン、Jリーグ準加盟が承認された山雅は初めてのJFLを迎えた。これがクラブの歴史上、初の全国リーグということもあり、苦戦の連続は免れぬことだろうと思われていた。しかし、蓋を開けてみれば、波の激しさは一旦あったものの、後期になるとツボに入ったかのような快進撃をみせ、特に新JFLに初昇格したクラブとしては初めて、「Jへの門番」ことHonda FCからホームとアウェイの両方での勝利を収めた。結果、7位に終わったものの、最後まで上位争いに絡められた。また、天皇杯では2回戦にてヴァンフォーレ甲府に0-1と敗退し、3大会連続でのジャイアント・キリングは成し遂げられなかった。
この1年を通じて、課題も明確となり、J2昇格へ繋がることを予感させたシーズンであったと言えるだろう。
また、7月にはASPに代わり株式会社松本山雅が運営母体となった。
JFL優勝・J2昇格を目標に掲げた2011年。山雅はロアッソ熊本から渡辺匠、水戸ホーリーホックから3年ぶりの復帰となる片山真人を補強。そして横浜F・マリノスから元日本代表の松田直樹という超ビッグネームが加入し、シーズン前から大いに盛り上がった。
しかしシーズン前半の成績は低迷、6月には監督解任という事態になってしまう。
監督解任後、チームは復調しさあこれからという矢先の8月、チームを支えてきた松田直樹が心筋梗塞で倒れそのまま亡くなるという暗いニュースがチームに襲い掛かってしまう。
それでもチームは「山雅をJ2に連れて行きたいと言っていたマツのためにもJ2に行こう」で一致団結。
11月のJFL後期第14節でブラウブリッツ秋田に負け自力昇格がなくなり昇格は絶望的と言われていたが、そこから5連勝し昇格圏まで上り詰め、ついに2011年12月4日。J2昇格の基準を満たす4位以内を決めた。それまで上位にいたV・ファーレン長崎が栃木ウーヴァとの連戦で引き分け、負けで失速したためである。
昇格のニュースは長野県のテレビ局すべてで夕方のトップニュースで扱われた。また、松本市では号外が配られた。
J2昇格へは成績のほかにホームスタジアムの規模や設備(椅子席1万以上など)、クラブ財政(債務超過でないことなど)、観客動員数(1試合平均3000人以上)等々の基準を満たさないといけないが、山雅はホームのアルウィンが定員約2万人の専スタ(J1規格)、財政面はおおむね良好で債務超過なし、2011年度の平均観客数はJFLでは破格の7461人(J2平均が6244人なのでこの数字は驚異的)と諸問題をほぼすべてクリアしている。そしてJFL最終節翌日の2011年12月12日、山雅のJ2昇格が正式に承認された。
監督にアルビレックス新潟、湘南ベルマーレ、そして北京オリンピックサッカー日本代表監督の経験を持つ反町康治を招聘。この年からJ2は3位~6位が参加できるJ1昇格プレーオフがスタートしたが、松本山雅はいきなりそれに絡む躍進を見せる。残り3試合で6位との勝ち点差が5というところまで追い上げたが最後に力尽きて12位という結果に終わる。それでも、2000年に水戸ホーリーホックがJ2に参入してから初めて、昇格初年度で勝ち越すという偉業を成し遂げた。観客動員はさらに増えて1試合平均は9500人を超え、リーグ3位の数字を叩き出した。
翌2013年も反町体制を継続。前半戦こそ調子が上がらなかったが、夏場から追い上げを開始。今度は最終節まで昇格プレーオフ進出の可能性を残した。最後は得失点差で涙を呑んで7位という結果だったが、他会場でロスタイムのゴールが決まるまでは6位だったというまさに紙一重で届かなかったプレーオフであった。観客動員はついに平均1万人の大台に乗せた(11,041人)。J1経験の無いクラブとしては最高の数字である(というか、J1のジュビロ磐田や湘南ベルマーレよりも高い数字)。
反町体制3年目の2014年シーズンは、地元松本市出身の田中隼磨が加入。先輩である松田直樹のつけた背番号3と、彼が果たせなかったJ1昇格への想いを継承した。
シーズン開幕後は順調に勝ち点を重ね、前半戦を3位で折り返す。後半戦に入っても好調を維持し、夏場は12試合負けなしを記録した。走るサッカーを掲げる山雅はまさにシーズン終了までリーグを駆け抜けた。
11月1日の第39節、アビスパ福岡とJ1昇格を懸けた一戦。持ち前の運動量から2点を挙げた山雅が、福岡の反撃をPKによる1点に抑えて逃げ切った。この勝利で自動昇格圏の2位を確定させ、遠く松本から詰めかけた多くのサポーターの目の前で、悲願のJ1昇格を決めた。Jリーグを目指して約10年のチームは、J2を史上最速の3年で通過し、トップリーグへと上り詰めた。
その後開かれたJリーグの理事会で、山雅のJ1昇格が満場一致で承認された。
初のJ1リーグ参戦となった2015年シーズンも引き続き反町体制が敷かれる、第3節の清水エスパルス戦でJ1初勝利を挙げたものの、徐々に他チームとの戦力との差が露呈されるようになり、1stステージは15位に終わる。2ndステージでついに降格圏に転落すると、敗や試合終了間際に失点して勝ち点を落とす試合が続いてしまい、結局降格圏から脱出できぬまま、11月7日の第16節神戸戦に敗れて、昇格から1年でのJ2降格が決定する。
再びJ2で戦うこととなった2016年は、「J1昇格と定着」を見据えて従来のカウンタースタイルに加えてボールポゼッションの要素を取り入れようとするが消化不良に陥り、スタートダッシュに失敗。3月に高崎寛之、6月にパウリーニョが加入すると調子を上げていき、16試合無敗という快進撃を見せる。ついにはJ2優勝も視野に入る位置まで付けるが、第41節で17試合ぶりの黒星を喫して3位に転落すると、最後は2位清水に得失点差で及ばず、3位でJ1昇格プレーオフに回る。プレーオフでは、1回戦でJ2・6位のファジアーノ岡山に敗れ、1年でのJ1昇格を逃す。
なお、この年は6年後の2022 FIFAワールドカップの本大会メンバーであるシュミット・ダニエルと前田大然の2人が在籍していた。
2017年は得点力不足が深刻な問題となり、夏に補強したダヴィ、鈴木武蔵も期待外れに終わってしまう。それでも最終節まではプレーオフ進出の可能性を残していたが、最終節で京都サンガF.C.に敗れてしまい、8位で終了する。
2018年はホームのアルウィンが芝の張り替えのために3月いっぱいまで使えないというハンディを背負ったことでスタートで躓いてしまう。しかしアルウィンでの初試合となった第7節で初勝利を飾ると、高崎寛之・セルジーニョ・前田大然という特徴の異なる攻撃陣が絡み合い、安定感のある守備も相まって徐々に勝ち星を積み重ね、折り返し直後の第22節で首位に立つ。後半戦も最少の堅守を武器に全員攻撃・全員守備の粘り強い戦いを続け、大分トリニータ、FC町田ゼルビアと激しいデッドヒートを繰り広げながらも最終節でJ2リーグ初優勝と3年ぶりのJ1リーグ復帰を決める。
再びJ1に挑むこととなった2019年は、開幕当初こそ勝ち星を重ねていたが、得点力不足から10試合未勝利を挟み、前半戦の折り返しの時点で自動降格圏の17位となる。失点数40はリーグ8位と守備は健闘したものの、得点数がリーグ最初の21であったことが災いし、2015年と同様に1年でのJ2リーグ降格が決定。シーズン終了後、Jリーグ加入から監督として8年に渡ってチームを指揮した反町の辞任が発表された。
J2からの出直しとなった2020年は前群馬監督の布啓一郎が就任。しかし、負けが先行する苦しい戦いを強いられ、特にセールスポイントの守備が崩壊気味になっていた。第21節のFC琉球戦で1-6という大敗を喫し、20位にまで転落すると布監督を解任。編成部長の柴田峡が後任となり、チーム状態は持ち直したものの一度も昇格争いに加われないまま13位で終える。
2021年も開幕5試合勝利なしで、第9節には最下位に転落。なかなかチーム状態が上向かないことから7月に柴田監督を解任し、名波浩が後任監督に就任。名波監督はポゼッションを重視したアクションサッカーへの転換を図るが、チーム状態はますます悪化してしまい、リーグ最下位の22位でシーズンを終え、2年前までJ1に居たチームがJ3リーグに降格することに。
優勝候補に挙げられていた2022年だったが、勝てばJ2昇格圏という試合をことごとく落としたことでなかなか順位が浮上せず、取りこぼしも目立ったことから4位でシーズンを終了。1年でのJ2復帰に失敗する。シーズン終了後、名波監督は退任。また、この年Jリーグの舞台で初の「信州ダービー」が実現。結果はアウェイの第9節は引き分け、ホームでの第31節は2-1で勝利している。
2023年は前大宮アルディージャ監督の霜田正浩が監督に就任。長い絶不調期は少ないものの、勝ち切れない試合が続いて取りこぼしが多く、勝ち負けが拮抗した状態が続く。それでも2位争いが大混戦となっていたこともあって終盤戦までJ2昇格の可能性を残していた。だが、調子に乗り切れない今季を象徴するかのように肝心な最後の4試合で未勝利に終わり、残り1試合の段階で昇格の可能性が完全に消滅。前年を下回る9位に終わり、3年連続J3が確定。
背番号 | Pos. | 国籍 | 選手名 | 生年月日 | 加入年 | 前所属 | 備考 |
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- | 監督 | 霜田正浩 | 1967.2.10 | 2023 | 大宮アルディージャ 監督 | ||
1 | GK | 大内一生 | 2000.9.8 | 2024 | 鹿児島ユナイテッドFC | 【完】 | |
2 | DF | 宮部大己 | 1998.10.16 | 2021 | 中央大学 | ||
4 | DF | 高橋祥平 | 1991.10.27 | 2024 | ヴィッセル神戸 | 【完】 | |
5 | DF | 常田克人 | 1997.11.1 | 2020 | ベガルタ仙台 | ||
6 | MF | 山口一真 | 1996.1.17 | 2023 | FC町田ゼルビア | ||
7 | DF | 馬場和彰 | 1991.6.23 | 2024 | 浦和レッズ | 【完】 | |
8 | MF | 住田将 | 1999.8.19 | 2022 | 東京学芸大学 | ||
9 | FW | 高井和馬 | 1994.8.5 | 2024 | 横浜FC | 【完】 | |
10 | MF | 菊井悠介(C) | 1999.9.17 | 2022 | 流通経済大学 | ||
11 | FW | 浅川隼人 | 1995.5.10 | 2024 | 奈良クラブ | 【完】 | |
13 | DF | 橋内優也 | 1987.7.13 | 2017 | 徳島ヴォルティス | ||
14 | FW | 安藤翼 | 1996.5.12 | 2024 | SC相模原 | 【完】 | |
15 | MF | 山本康裕 | 1989.10.29 | 2024 | ジュビロ磐田 | 【完】 | |
16 | GK | 村山智彦 | 1987.8.22 | 2017 | 湘南ベルマーレ | ||
17 | DF | 山本龍平 | 2000.7.16 | 2019 | AC長野パルセイロ | 【H】 | |
20 | MF | 前田陸王 | 2002.3.31 | 2024 | 流通経済大学 | 【卒】 | |
21 | GK | ビクトル | 1989.4.21 | 2022 | モンテディオ山形 | ||
22 | DF | 佐相壱明 | 1999.6.16 | 2024 | SC相模原 | 【完】 | |
23 | MF | 滝裕太 | 1999.8.29 | 2023 | 清水エスパルス | ||
27 | DF | 二ノ宮慈洋 | 2003.11.10 | 2022 | ヴェロスクロノス都農 | 【復】 | |
28 | DF | 藤本裕也 | 2000.4.10 | 2023 | 関東学院大学 | ||
29 | MF | 村越凱光 | 2001.10.7 | 2020 | ラインメール青森FC | ||
30 | MF | 國分龍司 | 2000.10.4 | 2023 | 大阪学院大学 | ||
32 | MF | 米原秀亮 | 1998.4.20 | 2019 | ヴァンフォーレ甲府 | ||
33 | FW | 新井直登 | 2001.3.3 | 2023 | 神奈川大学 | ||
35 | GK | 神田渉馬 | 2002.7.9 | 2021 | 松本山雅U-18 | 【H】 | |
40 | MF | 前田陸王 | 2002.3.31 | 2024 | 専修大学 | 【卒】 | |
41 | MF | 村越凱光 | 2002.3.31 | 2024 | 専修大学 | 【H】 | |
44 | DF | 野々村鷹人 | 1998.5.13 | 2021 | 流通経済大学 | ||
46 | MF | 安永玲央 | 2000.11.19 | 2023 | 水戸ホーリーホック | 【完】 | |
48 | DF | 藤谷壮 | 1997.10.28 | 2023 | ギラヴァンツ北九州 | ||
50 | MF | ショップ・セリンサリウ | 2003.6.30 | 2024 | V・ファーレン長崎 | 【レ】 |
※備考欄は【完】=完全移籍での加入、【レ】=レンタル移籍での加入、【復】=レンタル先からの復帰、【新】=新任の監督、【昇】=トップチーム昇格、【卒】=新卒での加入、【特】=特別指定選手、【2】=2種登録、【H】=ホームグロウン選手
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国籍 | 監督名 | 在任期間 | 備考 |
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辛島啓珠 | 2005年~2007年 | ・北信越リーグ2部優勝&1部昇格(2005年) ・北信越リーグ1部優勝(2007年) |
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吉澤英生 | 2008年~2011年6月 | 全国地域リーグ優勝&JFL昇格(2009年) | |
加藤善之 | 2011年6月~12月 | J2昇格(2012年) | |
反町康治 | 2012年~2019年 | ・J1昇格(2014年) ・J2優勝&J1昇格(2018年) ・J2降格(2015年、2019年) |
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布啓一郎 | 2020年~2020年9月 | ||
柴田峡 | 2020年9月~2021年6月 | ||
名波浩 | 2021年6月~2022年 | J3降格(2022年) | |
霜田正浩 | 2023年~ |
右:松本山雅FC、松田直樹とともに・・・
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最終更新:2024/04/25(木) 12:00
最終更新:2024/04/25(木) 12:00
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