松江城 日本100名城 64 |
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別名 | 千鳥城 |
城郭構造 | 輪郭連郭複合式平山城 |
天守構造 | 複合式望楼型 4重5階地下1階 (木造 1607年築 現存) |
築城主 | 堀尾吉晴・忠氏 |
築城年 | 1611年(慶長16年) |
廃城年 | 1871年(明治4年) |
天守は国宝で、現存天守(現存12天守)のうちのひとつ。城跡は国の史跡、日本100名城にも指定されている。
入母屋破風(いりもやはふ)と呼ばれる三角形の屋根が、千鳥が羽根を広げたように見えることから千鳥城とも呼ばれる。
松江城は松江市街や宍道湖を一望できる亀田山の丘陵に築かれた平山城である。城の周囲には堀割である京橋川が張り巡らされている。
関ヶ原の戦いの後、東軍に属した堀尾吉晴・忠氏父子(当主の座は忠氏に譲られていたが父子二頭体制で統治していたとみられる)が出雲松江を治めることになり月山富田城へと入った。
月山富田城は名城ではあったものの、中海から10キロ以上も飯梨川を遡った先にある山城で、太平の世へと移っていく時代には不便極まりなかったので、交通の要衝である宍道湖岸に松江の街を一から造成することになった。
南條範夫の「古城秘話」にて当時の民謡としてこのように唄われていたと紹介されている。
堀尾吉晴・忠氏父子は家臣の小瀬甫庵(「太閤記」などの著者として知られる)に縄張りを命じ、城は5年の歳月をかけて1611年(慶長16年)に完成した。
その特徴でもある黒っぽい下見板張りは、白っぽい壁の姫路城などとは違う、落ち着いた印象を与えている。高さ約2mの鯱鉾(しゃちほこ)は、木造で現存するものとしては日本最大である。
石垣には主に松江市東方の嵩山(だけさん)から切り出された「大海崎石(おおみざきいし)」が用いられ、堀尾家の家紋「分銅文」や各種の家紋などを刻んだ石が見られる。
石垣を組んだのは、穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる当時の石垣作りのプロ集団である。
資材や櫓などには廃城となった月山富田城の資材が流用されているのが確認されている。
その後、松江藩主は主の死去が連続し、堀尾家、京極家が相次いで断絶。1638年(寛永15年)に松平直正(結城秀康の三男、徳川家康の孫)が入ると、明治維新まで直正系の松平家による統治が続いた。
そのため城内や城山稲荷神社などでは松平家ゆかりの三つ葉葵紋が見られる。
明治以降は民間に払い下げられて櫓や門などは解体、天守も取り壊されそうになったが、地元の有志が買い戻して存続。その後は大修理も行われ、1935年(昭和10年)に国宝保存法に則って国宝に指定された。
戦時中は松江がほぼ空襲に晒されなかったこともあり、多数の城が消失する中で辛うじて戦火を免れた。
しかし1950年(昭和25年)の文化財保護法制定により国宝ではなく重要文化財となり、松江市民からすると国宝の誉れが剥奪されたことになってしまった。これは松江城の築城年を確認できる歴史的資料がなかったことや、法律の制定時に大解体修理が行われていた事などが重なったためらしい。
国宝の指定は基本的に、当時の指定理由を覆す新資料が発見されないと再指定が行われない前例踏襲主義のため、松江城は半世紀以上に渡って国宝の地位から転落していた。
以降、国宝再指定は悲願となり、有力な資料に賞金までかけられるなど様々な運動や国宝指定に重要な要素となる資料の捜索が続けられた。
また、その間も二の丸櫓や塀など各所の復元や修復が進められ、往時の景観を少しずつ取り戻していった。
2015年(平成27年)に天守の完成時に使用された「慶長十六年」と記載のある「祈祷札」が城下の蔵から見つかり、ついに国宝に再指定された。
現存する十二天守の中では天守の実質的な大きさを示す床面積が姫路城に次ぐ大きさを持ち、天守の高さは姫路城及び松本城の天守に次ぐ高さを誇る。また現在、十二天守で国宝に指定されているのは姫路城、彦根城、松本城、犬山城、松江城の五城のみである。
現在、天守は有料にて一般公開されており、最上階まで登頂することが可能。城山公園は無料で常時開放されており、花見の名所としても有名。
隣接する島根県庁が旧三の丸跡地に建てられていることもあり、県庁前にはかなり広い芝地が広がっている。周辺は電線等も地中化されているため正面からの城の見栄えは地上からでも非常に良い。
堀尾吉晴夫人の「たいほう」さま(おそらく大方様)は築城工事の際に小屋を設け、そこで女中や家臣の妻女たちと共に餅をつき、その餅を人夫たちに廉価で売ったという。なぜ金を取るのかというと餅代を稼ぐために人夫たちが作業に励むからという理由。
他に巨大な石の運搬に従事した人夫たちには特別に握り飯が無料で1個、「たいほう」さまらの手ずからで渡されたとか。
「たいほう」さまは若く美しい女性というような伝承になっているが、当時、吉晴は60歳ぐらいなので、「たいほう」さまもどう見積もっても40代後半以上といったところか。まあ女中たち見たさで人夫たちも張り切ったことだろう。
豊臣秀吉の下で多くの土木作業に従事した吉晴らしい人夫たちの気質をつかんだ施策と言える。
城の工事が進み天守の築造に入ったのだが、東北隅の石垣が何度積んでも崩れてしまう。不思議に思ってその辺りを掘ってみると槍に貫かれた頭蓋骨が発見されたのである。その頭蓋骨は移した上で厚く祀ったのだが工事は一向に進まない。
ここで吉晴は人柱をたてることを決断。既に出来上がっていた二の丸広場に城下の老若男女を集め盆踊りを行なわせ、その中で一番美しい娘を人柱に選び出した。
娘は生き埋めにされ、天守の築造はついに完了したのだが、翌年の夏にまた広場で盆踊りが行なわれた際に城がメキメキと唸りをあげて動き出し、娘の祟りだと人々は恐れをなして逃げ出してしまった。これ以降吉晴は城付近での盆踊りを禁じたという。現在に至るまで松江では盆踊りは行われていない。
娘ではなく虚無僧を人柱にたてたという伝説もある。
こちらは工事が進まず悩んでいた吉晴の耳に人を滅入らせるような音色を立てる尺八の音が聞こえ、尺八を吹いていた虚無僧は捕らえられ人柱にされてしまった。
この虚無僧の伝説には違うパターンもあり、この虚無僧はかつて吉晴と共に戦った武士(戦えなくなり出家していた)で、虚無僧は子供の将来を頼んだ上で自ら進んで人柱になった。
こうして天守の築造はついに完了したのだが、なんと吉晴は虚無僧の子供をまったく顧みず、それを恨んだ虚無僧の霊によるものなのかどこからともなく奇怪な尺八の音が響くことがあったという……。
この手の伝説は全国の城につきものではあるものの、堀尾忠氏、吉晴、忠晴(忠氏の息子)が相次いで歿し堀尾家は断絶、その後に入った京極忠高も4年で歿し京極家も絶えてしまったこと(後に他の地で再興されたが)から、当時の人々からすれば祟りと考えられ、このような伝説として語りつがれるようになるのもむべなるかなである。
ストリートファイターシリーズのリュウステージである朱雀城は松江城がモデルだと言われている。
海外でも高い人気を誇る同ゲームの代表的ステージとして知名度を得ており、「スマブラSP」などにも同ステージが登場。
「日本の城」の代表的イメージとして松江城の姿形は世界に広まることとなった。
北側の堀沿いには昔ながらの武家屋敷が立ち並び風情があり、「松江歴史館」「小泉八雲記念館」[1]といった施設がある。また堀を船で巡る遊覧船が運航されている。
城の二の丸には大正天皇が皇太子時代に中国地方を行啓された際に宿泊所として使われた「興雲閣」という明治建築の建物が松江郷土館として運営されている。喫茶室が設けられているので登城した際に利用するのもいいだろう。
市内には松江しんじ湖温泉駅、玉湯温泉があり近隣自治体にも多数の温泉がある。
掲示板
5 ななしのよっしん
2022/04/17(日) 23:20:11 ID: Mib8OX73rG
> 現在、十二天守で国宝に指定されているのは姫路城、彦根城、松江城の三城のみ。
あれ、松本城と犬山城は国宝じゃなかったっけ?
6 ななしのよっしん
2022/05/29(日) 00:27:11 ID: KGHc6xaXtU
>>5
修正しといた。
多分天守の建築年が明確に分かっている天守の内って意味だったのかな。
松本城と犬山城に関しては明確な建築年はまだ特定されてないし。
7 ななしのよっしん
2024/12/21(土) 00:05:39 ID: 1kRaA65n3S
国宝・松江城と並び立つ「ほぼ天守」並みマンション建設へ…
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最終更新:2025/02/12(水) 23:00
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