松浦盛 単語

マツラサコウ

松浦盛(まつら・さこう)とは、

  1. 肥前人領1421 ~ 1467)
    相神松浦13代当1443年に武辺を築き、本拠を梶から移す。1457年に李氏朝鮮と貿易を締結した。
  2. 肥前戦国武将(生年不詳/16世紀後半の人)
    有馬晴純の子で、相神松浦の養子となる。本稿で記述する。
  3. 和泉戦国武将(生年不詳/15世紀末16世紀初の人)
    和泉松浦初代当和泉上守護・細川元有に仕える重臣だったが、元有が戦死して子の細川元常が阿波に逃れると、岸和田となった。

以上3名存在する。

2.の概要

(生年不詳)有馬晴純の四男。

1559年、相神松浦が後ろとしていた肥前少弐氏が滅亡する。そこで当松浦親(宗金)は新たに有馬氏と関係を結んで、敵対する松浦と対抗しようと考えた。少弐氏から迎えていた養子の松浦鎮は嫡され、新たな養子として迎え入れられたのがこの松浦盛である。

1563年に大友宗麟の援助で少弐政興がおをはかり、実有馬義貞などの西肥前諸将が龍造寺隆信に対し挙兵すると、「今の有馬氏には相神の援護をするほどの余裕はない」と考えた戸の松浦隆信が相神領に侵攻してきた。養の命を受け、有馬氏への援軍要請を頼まれた盛は実家である有馬領へと向かう。しかし、そこで消息を絶った………。

1566年に実純が病し、両松浦も(相神の降に近い形で)和する。松浦より松浦隆信の三男・松浦九郎が、宗金の新たな養子として迎えられた。ところがこの悪いタイミングで盛が相神へと戻ってきた。両松浦からすれば今頃ノコノコ戻ってきてお前何なんだ状態である。が、和有馬側には断で結ばれており、帰ってきたら嫡されていた盛は自分の分の所領を要し始めた。

落としどころに困った宗金だったが、九郎には相神相続させる一方、盛には有田を与えて、断絶していた松浦党の一家有田氏の名跡を継がせることにした。相神の領地が分割されたことに不満を持った有田盛は、自然と九郎を敵視して戦いを挑むようになるが、敗れて落してしまった。年に関しては「1572年に相当原合戦で討死」「1576年に居龍造寺隆信に攻められている最中に病」「1594年に病」と諸説あり、よくわかっていない。

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