松浦親 単語

マツラチカシ

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松浦親(まつら・ちかし)とは、戦国時代肥前の人物。同名の人物が2名存在し、どちらも丹後守を称した。

  1. 相神松浦16代当。隠居後は「宗金」と号する。
  2. 相神松浦17代当。通称は「九郎」。1の養子で、実は(戸)松浦隆信

相神浦松浦家とは

あいこうのうら・まつら」と読む。

松浦氏と言えば、戸を本拠とした戦国大名であり、江戸時代にはとして続いた系をを思い浮かべる人が多いだろう。が、戸の松浦は元々は分筋にあたり、戸氏を名乗っていた。

本来の松浦がこの相神松浦で、その名の通り佐世保の相神現在では相あいのうら)を本拠地としていた。

彼ら松浦一族は、頼四天王の筆頭・渡辺綱の子孫。中世ではしい一文字の諱は、渡辺氏子孫のである。初代・松浦久、2代・松浦直の子供たちが各地に散らばってそれぞれ庶を立て、松浦党」と呼ばれる勢力を築き上げた。48あると言われる庶の一つが戸氏(初めは峯氏)で、松浦直から分かれて5代後、松浦答の代より松浦姓に戻したと言われる。やがて松浦の勢力が台頭し、宗と競い合うようになっていった。

  • 備考… 代数については、相神では(松浦名乗り始めた)久を初代としているのだが、後世のでは初代を融にまで遡って数えているので、では松浦久は7代としてカウントされている。

1. 松浦親(宗金)(1494-1577)

相神松浦16代当

15代当松浦政の嫡男。養子に松浦鎮(少弐資元の子)、松浦盛有馬晴純の子)、松浦親(九郎 → 2.を参照)がいる。養子である2と同名なので、区別の為に号の宗金でも呼ばれる。宗金を称するのは晩年の隠居後だが、紛らわしいのでここでは宗金で統一する。

生涯

当時の北九州は、少弐氏駆逐して博多大宰府の権益を握った大内氏が軸となっていた。多くの勢力が大内・反大内に分かれて属しており、相神戸の両松浦も例外ではかった。

松浦の状況1566年の宗金隠居まで)
相神
松浦政(1498)
松浦親(宗金)
松浦定(1515)
浦興信(1541没)
松浦隆信
少弐資元(1536)
少弐尚(1559没)

有馬晴純
支援者 大内義興(1529)
大内隆(1551没)

龍造寺隆信

少弐氏と共に

1498年、・政(まさし)は大智にて、松浦に内通した臣によって自害に追い込まれた。当時わずか5歳の宗金は共々、松浦定に囚われてしまう。だが、相神臣団はの隙を見計らって二人を見事奪還し、有田・唐に移り住んだ。

1512年に元して「」と名乗った宗金は、立な武将へと成長し、相神奪回のため挙兵する。宗金のは、少弐資元の年の離れたにあたる(資元と宗金は3歳違い)。叔父・資元の支援を得ながら松浦信を相手に旧領回復の戦いを続け、遂に1531年、幕府の命で相神は宗金に返還された。また、宗金は同じ松浦党の波多・多見野を妻としていたが、子に恵まれなかったため、資元の三男(または四男)を養子にと頼み込んで、松浦しげる)として迎えた。こうして更に少弐氏との結びつきを強める。

宗金は、松浦に対抗するためには更に基盤を固め、佐世保に重要な拠点を作るべきと考えた。こうして1535年に愛宕山(飯盛山とも)に飯盛を築する。一方の松浦信の急死でやや混乱気味だったが、子・松浦隆信のもと1543~1544年に再び相神へと攻め込んできた。要塞・飯盛戦が繰り広げられたが、領土の一部をに割譲する事で和する。

この後も対立する両者は一進一退の攻防を繰り広げ、なかなか勝負は決まらなかった。1551年、大内義隆謀反に倒れ、は最大の支援者くした……と思いきや、戸での外貿易や倭寇との密約などで大な利益をあげており、また肥前に台頭した龍造寺隆信とも手を結んでいたため、両松浦の均衡はそう簡単に破られるものではなかった。

逆に1559年、相神の最大の後ろであった少弐氏が、龍造寺隆信によって滅ぼされてしまう。

二人の養子

少弐氏が滅亡した事を受けた宗金は、鎮をもう用しとばかりに嫡し、ほとんど何も無い山中の農肥前菰田に押し込めてしまった(ひでぇ…)。そして今度は龍造寺氏と対立している南肥前有馬晴純を本格的な支援者として、彼の四男を養子に迎え、松浦盛(さこう)と名乗らせた。

1563年、亡き少弐冬尚少弐政興が、大友氏の後ろでおし挙兵する。有馬氏も政に加勢し、肥前覇権をかけて龍造寺氏と衝突するが、翌年までに敗れてしまった。

この状況を見て、有馬氏は援軍を出せる状況にないと判断した松浦隆信佐世保へ出兵する。宗金も盛に命じ、有馬氏に援軍を乞うように出発させた。が、彼が戦時中に帰ってくることはなかった。

相神は援軍なきままの戦いを強いられ、情勢は不利となる。1566年、龍造寺隆信の仲介で松浦隆信に降し、松浦隆信の三男・九郎を養子に迎える事になり、自分と同じ松浦親(→2)と名乗らせる。こうして数十年に及ぶ松浦氏を二分した戦いは終わり、これにて一見落着……ではなかった

戦後まもなくして、ようやく盛が帰ってきたのである。3年も経って何故今頃のこのこ戻ってきたのか……と言いたいところだが、自分が後継者ではなくなったことを知った盛は、自分の分の所領を要してきた。頼むから火種を作らないでくれ……まあ、有馬氏への連絡なしに九郎を養子とする和を結んだ宗金にも問題があるのだけど。仕方ないので、九郎には正式に相神督・佐世保の飯盛を継がせる一方で、盛には有田・唐を授け、断絶していた有田氏(松浦党の一つ)を継がせた。これにより、相神松浦の領地は佐世保系と有田系とで二分された。

この後は隠居・剃髪して宗金と号し、1577年に病した。

2. 松浦親(九郎)(????-1574)

相神松浦17代当。通称は九郎

松浦隆信の三男。松浦鎮信後藤惟明が、松浦信実がいる。子に松浦定、大野忠。生年は次・惟明が1545年なのでそれ以降と思われる。

生涯

先代・宗金(→1)が松浦に降したため、養子となって彼の跡を継いだ。これにより、宗である相神松浦松浦の従属下に置かれることになる。

有田・唐にいた同じく宗金の養子である有田松浦盛とは対立し、1572年には盛が実家有馬氏と手を結んで攻めてきたが、これを撃破、佐世保周辺の基盤を固める。そして先代までの、つまり相神代々の臣を排除するべく動き出す。

1572年、臣である佐世保遠藤盛胤(遠藤守、遠藤専右衛門)とその一族を、龍造寺隆信と内通したとして謀殺した。これにまつわる伝説(じゃじま~)が存在する。

盛胤の肥前でも評判の美しいであった。九郎はたまたま見かけた彼女に惚れ、盛胤にを差し出すよう命ずる。が、には既に伊予守という婚約者がいたために拒絶されてしまった。このため謀反の罪を着せて一族を皆殺しにしたが、の姿が見つからない。そこに大蛇がぬるりとあらわれ、驚く兵たちのの前で、伊予守の館の方角へ向けて泳いで行った……という。

が泳ぎ着いたというは、現在は港の一部として埋め立てられており現存しない(元々は2つのだったとされる)。遠藤氏を滅ぼした後は、伊予守が佐世保となった。

続いて重臣・東斉忠(東時忠とも)を暗殺しようと企むが、これを察知した斉忠により先手を打たれ、1574年、九郎は暗殺された。しかしその斉忠も、まもなく臣によって殺された。相神松浦督はまだ4歳であった息子・定が継ぐこととなった。

関連項目

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