松浦親(まつら・ちかし)とは、戦国時代の肥前の人物。同名の人物が2名存在し、どちらも丹後守を称した。
「あいこうのうら・まつら」と読む。
松浦氏と言えば、平戸を本拠とした戦国大名であり、江戸時代には平戸藩主として続いた家系をを思い浮かべる人が多いだろう。が、平戸の松浦は元々は分家筋にあたり、平戸氏を名乗っていた。
本来の松浦宗家がこの相神浦松浦家で、その名の通り佐世保の相神浦(現在では相浦/あいのうら)を本拠地としていた。
彼ら松浦一族は、頼光四天王の筆頭・渡辺綱の子孫。中世では珍しい一文字の諱は、渡辺氏子孫の証である。初代・松浦久、2代・松浦直の子供たちが各地に散らばってそれぞれ庶家を立て、「松浦党」と呼ばれる勢力を築き上げた。48あると言われる庶家の一つが平戸氏(初めは峯氏)で、松浦直から分かれて5代後、松浦答の代より松浦姓に戻したと言われる。やがて平戸松浦家の勢力が台頭し、宗家と競い合うようになっていった。
15代当主・松浦政の嫡男。養子に松浦鎮(少弐資元の子)、松浦盛(有馬晴純の子)、松浦親(九郎 → 2.を参照)がいる。養子である2と同名なので、区別の為に号の宗金でも呼ばれる。宗金を称するのは晩年の隠居後だが、紛らわしいのでここでは宗金で統一する。
当時の北九州は、少弐氏を駆逐して博多・大宰府の権益を握った大内氏が軸となっていた。多くの勢力が親大内・反大内に分かれて属しており、相神浦・平戸の両松浦家も例外では無かった。
| 両松浦家の状況(1566年の宗金隠居まで) | ||
| 相神浦家 | 平戸家 | |
| 松浦政(1498没) 松浦親(宗金) |
当主 | 松浦弘定(1515没) 松浦興信(1541没) 松浦隆信 |
|
少弐資元(1536没) 少弐冬尚(1559没) 有馬晴純 |
支援者 |
大内義興(1529没) 大内義隆(1551没) 龍造寺隆信 |
1498年、父・政(まさし)は大智庵城にて、平戸松浦家に内通した家臣によって自害に追い込まれた。当時わずか5歳の宗金は母共々、平戸松浦弘定に囚われてしまう。だが、相神浦家臣団は平戸家の隙を見計らって二人を見事奪還し、有田・唐船城に移り住んだ。
1512年に元服して「親」と名乗った宗金は、立派な武将へと成長し、相神浦奪回のため挙兵する。宗金の母は、少弐資元の年の離れた姉にあたる(資元と宗金は3歳違い)。叔父・資元の支援を得ながら平戸松浦興信を相手に旧領回復の戦いを続け、遂に1531年、幕府の命令で相神浦は宗金に返還された。また、宗金は同じ松浦党の波多興の娘・多見野を妻としていたが、子に恵まれなかったため、資元の三男(または四男)を養子にと頼み込んで、松浦鎮(しげる)として迎えた。こうして更に少弐氏との結びつきを強める。
宗金は、平戸松浦家に対抗するためには更に基盤を固め、佐世保に重要な拠点を作るべきと考えた。こうして1535年に愛宕山(飯盛山とも)に飯盛城を築城する。一方の平戸松浦家は興信の急死でやや混乱気味だったが、子・松浦隆信のもと1543~1544年に再び相神浦へと攻め込んできた。要塞・飯盛城で激戦が繰り広げられたが、領土の一部を平戸家に割譲する事で和睦する。
この後も対立する両者は一進一退の攻防を繰り広げ、なかなか勝負は決まらなかった。1551年、大内義隆が謀反に倒れ、平戸家は最大の支援者を無くした……と思いきや、平戸での外国貿易や倭寇との密約などで莫大な利益をあげており、また肥前に台頭した龍造寺隆信とも手を結んでいたため、両松浦家の均衡はそう簡単に破られるものではなかった。
逆に1559年、相神浦家の最大の後ろ盾であった少弐氏が、龍造寺隆信によって滅ぼされてしまう。
少弐氏が滅亡した事を受けた宗金は、鎮をもう用無しとばかりに廃嫡し、ほとんど何も無い山中の農村・肥前菰田に押し込めてしまった(ひでぇ…)。そして今度は龍造寺氏と対立している南肥前の有馬晴純を本格的な支援者として、彼の四男を養子に迎え、松浦盛(さこう)と名乗らせた。
1563年、亡き少弐冬尚の弟・少弐政興が、大友氏の後ろ盾でお家再興を目指し挙兵する。有馬氏も政興に加勢し、肥前の覇権をかけて龍造寺氏と衝突するが、翌年までに敗れてしまった。
この状況を見て、有馬氏は援軍を出せる状況にないと判断した平戸松浦隆信は佐世保へ出兵する。宗金も盛に命じ、有馬氏に援軍を乞うように出発させた。が、彼が戦時中に帰ってくることはなかった。
相神浦家は援軍なきままの戦いを強いられ、情勢は不利となる。1566年、龍造寺隆信の仲介で平戸松浦隆信に降伏し、平戸松浦隆信の三男・九郎を養子に迎える事になり、自分と同じ松浦親(→2)と名乗らせる。こうして数十年に及ぶ松浦氏を二分した戦いは終わり、これにて一見落着……ではなかった。
戦後まもなくして、ようやく盛が帰ってきたのである。3年も経って何故今頃のこのこ戻ってきたのか……と言いたいところだが、自分が後継者ではなくなったことを知った盛は、自分の分の所領を要求してきた。頼むから火種を作らないでくれ……まあ、有馬氏への連絡なしに九郎を養子とする和睦を結んだ宗金にも問題があるのだけど。仕方ないので、九郎には正式に相神浦家の家督・佐世保の飯盛城を継がせる一方で、盛には有田・唐船城を授け、断絶していた有田氏(松浦党の一つ)を継がせた。これにより、相神浦松浦家の領地は佐世保系と有田系とで二分された。
平戸松浦隆信の三男。兄に松浦鎮信、後藤惟明が、弟に松浦信実がいる。子に松浦定、大野忠。生年は次兄・惟明が1545年なのでそれ以降と思われる。
先代・宗金(→1)が平戸松浦家に降伏したため、養子となって彼の跡を継いだ。これにより、宗家である相神浦松浦家は平戸松浦家の従属下に置かれることになる。
有田・唐船城にいた同じく宗金の養子である有田松浦盛とは対立し、1572年には盛が実家の有馬氏と手を結んで攻めてきたが、これを撃破、佐世保周辺の基盤を固める。そして先代までの、つまり相神浦家代々の家臣を排除するべく動き出す。
1572年、家臣である佐世保城主・遠藤盛胤(遠藤但馬守、遠藤専右衛門)とその一族を、龍造寺隆信と内通したとして謀殺した。これにまつわる「蛇島伝説」(じゃじま~)が存在する。
盛胤の娘・白縫姫は肥前でも評判の美しい姫であった。九郎はたまたま見かけた彼女に惚れ、盛胤に姫を差し出すよう命ずる。が、姫には既に赤崎伊予守という婚約者がいたために拒絶されてしまった。このため謀反の罪を着せて一族を皆殺しにしたが、姫の姿が見つからない。そこに白い大蛇がぬるりとあらわれ、驚く兵たちの目の前で、赤崎伊予守の館の方角へ向けて泳いで行った……という。
白蛇が泳ぎ着いたという蛇島は、現在は港の一部として埋め立てられており現存しない(元々は2つの島だったとされる)。遠藤氏を滅ぼした後は、赤崎伊予守が佐世保城主となった。
続いて重臣・東斉忠(東時忠とも)を暗殺しようと企むが、これを察知した斉忠により先手を打たれ、1574年、九郎は暗殺された。しかしその斉忠も、まもなく家臣によって殺された。相神浦松浦家の家督はまだ4歳であった息子・定が継ぐこととなった。
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最終更新:2026/01/18(日) 23:00
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