林家彦六とは大正から昭和にかけて活躍した落語家である(1895年~1982年)
本名は岡本義という。旧名より俗に「彦六の正蔵」や「トンガリの正蔵」と言われる。
以降の文中では便宜上、特記事項以外は彦六で統一をする。
概要
林家彦六という名前は最晩年の一年程度しか名乗っておらず、それまでは8代目林家正蔵を長らく名乗っていた。その為林家正蔵と言えばこの「彦六の正蔵」を思い浮かべる人もいる。
直接彦六を知らない人は笑点で林家木久扇(元・初代林家木久蔵)がたまに見せるヘナヘナ声のおじいさんを思い浮かべてもらいたい。その声の元ネタこそがこの林家彦六である。
怪談噺や人情噺を得意とする正蔵の名の通り、彼もまたこうした噺を得意とした。
晩年こそヘナヘナ声であるが、それでもハッキリとした発音であり、これは三遊亭一朝に徹底的に教え込まれた賜物である。江戸っ子であり、高座以外でも江戸ことばを話している。
エピソード(本題)
wikiなどで紹介されるように昭和を代表する名人の1人として知られる彦六であるが、彼の名前が今なお広く知れているのは山の数ほどに存在するエピソードの数々である。下手すれば彦六の存在そのものが落語であるといっても過言ではない…というかなっている(ex.彦六伝)。彼に関するエピソード一つとってもまさに落語の世界である。
あまりに多くあるので、各々各自で調べていただきたい。
性格・行動にまつわるもの
彼の性格を一言でいえば「The 江戸っ子」というべきものである。短気でせっかちであるが同時に人情家で粋なところがあったとされる。独自の美学を持っており、曲がったことが嫌いで何事にも筋を通す事が多かった。こうした性格もあって、「トンガリ」の二つ名を持っていた。
- よく弟子に「破門だ!」と言い放つが(その理由も大小さまざま)、ちゃんと謝ればそれまでで、翌日はけろっと忘れているという具合に竹を割ったところがある。「トンガリ」という渾名もこれに由来する。ちなみにかつて弟子であった笑点のピンクこと三遊亭好楽は23回破門されている。
- その三遊亭好楽は本名の「家入信男」の名前が、早世した彦六の息子の名前の読みが一緒であったことから彦六からかなり可愛がられた(ちなみに好楽は父親を早いうちに亡くしたため彦六を慕っていた)。ある時、彦六が病の淵にあった時、好楽(当時は「林家九蔵」)が「師匠…!」と言うと「いつもいつもそう言われたら、死ななきゃなるめぇ」と言ったそうな。
- せっかちなことこの上ない性格であり、移動は鉄道、それも発車1時間前には駅に来るほど。鉄道にしたのは飛行機を利用した際に空港の上を着陸待ちした事に腹を立てての事。
- 矍鑠とした老人の代表格としてビートたけしやこち亀の両津に引き合いに出される事が多いのだが、ある時に老人ホームへ慰問へいった所、いたく不機嫌であった為にその理由を聴いた所「あたしより年下ばかりじゃねえか!」と答えたそうな。この時、86歳。これに絡んだことであるが、彦六襲名にあっては自分より年上が居なかったので口上を述べる者もいなかったという。
- 立川談志曰く、律儀なところがあり寄席で頻繁に演芸場へ行くことが多かったのでその為の通勤定期を持っていたが、あくまで仕事用であり、プライベートでは使うべきではないとして私用に際しては別途乗車券を購入していた。余談ながら、彦六の時代においては定期券購入に際して割引が大きいが勤務先の身分証明が必要な定期券もあった。
- 感が非常に鋭いところがあり、好楽に女性ができた時、彼はまだまだペーペーである手前、言い出せなかったのだが、彦六はズバリ「女できたろ」と見抜いて二つ目にさせた。また立川談志について「やる事なす事が全部あたって、世の中がばかばかしく思えるようになってしまい、このままでは自殺するであろう」と危惧していた。実際、談志はうつ病から来る自殺願望があったとされる。
趣味嗜好にまつわるもの
政治や思想にまつわるもの
- 政治的には日本共産党をかなり支持してたが、その理由は共産主義というイデオロギーに共感というよりは当人の嗜好である判官贔屓からきているところや書生っぽいところから支持しているとのこと。
- 一方で金権政治や大政党による暴走等の危惧をしており、それに対抗するためには共産党は必要との述べており、普段の共産党の活動を評価している。ちなみに新聞は朝日新聞を読んでいたが、落語に関する記事の内容に腹を立てて、しんぶん赤旗を読むようになった。
- イデオロギー的には対局の保守思想である立川談志の選挙応援に来ていたが、談志が共産党議員に侮辱的な野次を飛ばし続けていたことを快く思っておらず、談志と会えばほぼ喧嘩にしていたらしい。
- 上記に関連し、色んな人の応援演説をしているのだが、ある人の選挙応援では車酔いした為にまともな演説が出来ず、ついには候補者の名前を「林家彦六」と言ってしまった。なおその候補者は落選した模様。ついでに「林家彦六37票」と言う噂があるが定かではない。
人間関係にまつわるもの
- 元兄弟子であった6代目三遊亭圓生との「水と油」「天敵」ともいうべき猛烈な不仲は広く知られている。とはいえ、その芸の技術は彦六自身は認めており、圓生没時にはその死を惜しんだ。ちなみに6代目圓生はかなりとげのある性格で知られており、この手の仲たがいは彦六以外でも数多くあったとされる。
- 6代目三遊亭圓生から疎んじられた弟子2人のうち、一人を自身の弟子としている。
- 6代目圓生の弟子の一人である三遊亭全生のことは6代目圓生とは逆にいたく気に入ってた様で、自身の前名の名前の一つである「三遊亭圓楽」を襲名させた。全生は彦六以上に短気であり、とあるいざこざの末にあろうことか2回り以上年上である彦六からの喧嘩を買ったのだが、実際は場を収めるための彦六の演技で「自分も短気で損をしたから、もっと気を長くしないといけないよ」と優しくされたことがきっかけで稽古をつけてもらい、圓楽襲名のきっかけとなった[1]。彼は後の馬圓楽こと5代目三遊亭圓楽である。
- 著名な弟子に林家木久扇や三遊亭好楽がいる。
その他もろもろ
「林家正蔵」について
彦六は1950年代の段階で4代目柳家小さんの内輪弟子であり、彦六自身は師匠と同じく蝶花楼馬楽を名乗った為、慣例的に5代目柳家小さんになるであろうとされていたが、実際は弟弟子である柳家小三冶が名乗る事となった。これは小三冶が落語界の重鎮や4代目小さんの遺族を味方につけた事、彦六自身が4代目小さんの直系の弟子でない事が要因とされる。
ところでここで一つの問題が発生する。名跡上では小さん>馬楽であっても、香盤という名跡とは別に存在する落語界における序列からすれば馬楽(彦六)>小三冶(小さん)であり、これは一種のねじれ現象で色々と差し支えがあった。小三冶もそれを気にかけており、その時、たまたま林家正蔵の名前が空き名となっていた為に馬楽は海老名家の了承を得て1代限りと言う事で8代目林家正蔵を名乗る事となった。
先述のとおり、彦六は筋を通す性格である為にいずれはこの名前を海老名家に返上するつもりでいた。実際、彼は弟子に「林家」を名乗らせる事はあまり無かった。
その後7代目正蔵の息子である初代林家三平が真打に昇進し、三平の為に海老名家からも名跡を返上せよと言われ、機が熟した為に「林家正蔵」を譲ろうとしたところ、林家三平は「師匠のよろしい時までお名乗り下さい」と言った。つまり、彦六の存命中はずっと名乗ってくれと言う事を意味していた。しかし林家三平は彦六が存命中に1980年病没した為、三平が正蔵を名乗る事が叶わなかった。
そして海老名家より再び名跡の返還を求められた為、林家正蔵を返上し、林家彦六を名乗る事となった。
関連動画
※弟子のモノマネもあわせてご覧いただくと面白さが倍増する(多分)。
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関連項目
脚注
- *全生と関係が深かった音曲師柳家小半治が亡くなった際に先輩の落語家達から嘘の葬儀場を教られた結果、最期に会えなかった全生が先輩達に文句を言っていた時であったため、上下関係があるとはいえ必ずしも全生が悪いわけではない状況であった。