林彪事件とは、1971年に中華人民共和国及びモンゴル人民共和国(当時)で発生した航空機事故及びクーデター未遂事件である。
1971年9月、文化大革命の嵐が吹き荒れる中華人民共和国のさなかに発生した事件である。発生した日付から九・一三事件とも称される。
中華人民共和国の副主席・林彪が、当時の中国共産党首席(国家主席はこの当時空席)であった毛沢東の暗殺を企てたが失敗し、ソ連へ亡命しようとしている途上、モンゴルにおいて搭乗していた飛行機が墜落して事故死した。というのがそのあらましである。
だが、林彪はその前に後継者に指名されていただけあって、謎も多く残されており、現代中国史でも一際ミステリアスで、また重大な事件として知られている。
林彪は共産党が蒋介石率いる国民党によって窮地に追い込まれていた、長征の時代から毛沢東と共に、建国に多大なる貢献を行った将軍の一人である。朱徳や彭徳懐と共に日中戦争や国共内戦に功労のあったものに与えられた十大元帥にも列せられている。
建国後は人民解放軍のその意味合いを国防軍から革命軍へと変換させることに尽力し、近代化よりもある種では泥臭いゲリラ戦による戦術を根本とする人民戦争論を提唱し、反対する近代化推進派を排除。『毛沢東語録』を軍全体のバイブルとし、紅衛兵への道筋をつけた。また、スターリン批判を受けて、緊張が進んでいた中ソ対立の延長線上で発生した珍宝島事件などをはじめとする中ソ国境紛争でもその緊張を利用して、地下壕建設を進めるなどその影響力を強めていった。
それと時期を前後して行われた文化大革命においては4つの第一など、聞く方が恥ずかしくなるほどの美辞麗句を並べて、毛沢東の神格化を推進。毛沢東は当時中国の実権を握っていた鄧小平や劉少奇などを排撃したため、林彪もそれに乗じて朱徳や彭徳懐などを批判し、失脚させた。このような道筋をたどって遂にかれは1969年の第9回中国共産党全国大会では後継者に指名されることになる。
ただし、実はこの時点でも既に微妙な対立を抱えていた。様々な要因があげられるが、特に指摘されるのは中ソ国境紛争などの緊張の中でどう接していくべきか。という外交方針で対立があったとされ、毛沢東はアメリカへの接近を模索した(事件の翌年にはニクソン大統領を迎え入れている)一方で、林彪はイデオロギー上の問題からあくまでアメリカを敵とすべきだとする意見で相違があったという。
また、林彪は後継者として毛沢東の後を襲った後、自身の子・林立果にゆくゆくはその座を明け渡したいという”野心”をもっていたとされる。そのため、当時劉少奇が外されて以来空席になっていた国家主席のポストに毛沢東を就かしめ、その後に禅譲(平穏に地位を譲り渡すこと)という形で林彪に渡すという腹案をもっていた。だが、毛沢東は、既に毛岸英という実子を朝鮮戦争で亡くしているのに、林彪だけが金日成よろしく”林王朝”を作ろうとしているのが許せず、国家主席のポストを改憲でそもそもなくしてしまおうと提案した。それで慌てた林彪はスケープゴートを作って、その人物に毛沢東を礼賛して国家主席に推させ、毛沢東に「個人の資質を称揚して国家の重要ポストに就かせんとするのは、マルクスレーニン主義に反する」という批判を呼び起こした。批判の矛先をうまく変えさせることに成功した林彪はとりあえず一息をついたが、自身の野望を砕かれた彼は叛心を強め、毛沢東を実力で除いて自らが中国の実権を握ることを画策するようになる。一方毛沢東側も林彪の野心を疑い続け、側近に対する粛清に乗り出し始める。それに危機感を覚えた林立果らは1971年3月にクーデター計画書「五七一工程紀要」の作成を開始する。
そして1971年夏、南方に視察にでていた毛沢東がその途上で林彪ら、その周りの支持者を「極右」と指弾したことを引き金として、9月5日に林彪は遂に毛沢東暗殺を決意。9月8日に毛沢東が乗っているであろう列車を狙って爆薬をしかけた。しかし、この計画は直前に毛沢東に林彪の娘の密告という形で露見し、彼はルートを変更することでその生命の危機を逃れた。なおこの暗殺計画は林立果やその妻の葉群らが中心になっていたおり、林彪自身は計画にあまり関与していなかったという説もある。
計画失敗をしった林彪は9月12日にクーデター準備のため滞在していた河北省の山海関から、ソ連へ飛行機で逃亡することを計画し、実行に移した。しかし、強行で離陸したはよかったもののモンゴル国内まで到達したところで墜落。林彪や同乗していた林立果など9人の乗員全員の死亡が確認された。
墜落の原因はソ連の対空ミサイル説や、燃料切れ説、機内での発砲事件による墜落など様々なものがあるが、モンゴルとソ連による報告書では「操縦ミス」と結論づけられている。しかし未だクーデターの原因や林彪の関与の程度、航空機の挙動不審など様々な憶測が飛び交っており、真相は未だ藪の中である。
ただ、あくまで一説によると、当時国務院総理(首相)を務めていた周恩来は離陸の第一報を聞いて、すぐさま厳重な航行規制を行い、毛沢東を安全な場所に移し、撃墜の可否を尋ねた。
すると毛沢東は「天要下雨、娘要嫁人、随他去吧(天は雨を降らせ、娘は嫁に行く、人は行くに任せる)」という中国の俚諺を引いて、好きなようにさせよということでそれはやめるように命じたという話が残っている。これは毛沢東のすぐに文学的な表現を引いてくる機転を示したエピソードとされているが、毛沢東が積極的に林彪を殺そうとはしなかったとされる傍証として用いられることがある。
しかしいずれにしてもその後林彪は批林批孔運動において「資産階級の野心家、陰謀家、裏切り者、売国奴」と激しく糾弾され、党籍を永久剥奪されることとなった。
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2 ななしのよっしん
2023/08/25(金) 04:11:24 ID: kdIRnykYjJ
林彪は、毛沢東のことを神のように崇め奉っていましたが(毛沢東語録掲げるほど)、プリゴジン氏はプーチンのことをそこまで崇敬していましたか?
3 ななしのよっしん
2023/08/25(金) 04:38:23 ID: 2ebDRASWuv
4 ななしのよっしん
2023/08/27(日) 05:15:18 ID: uRZ1Rv33th
ウィキペディア(の記事に引用されているソース)によると、林彪の逃げ際に毛沢東は「去る者は追わず」的な諺だか名言だかを呟いて
積極的に始末せず亡命するままに任せようとした=飛行機の墜落は本当に(少なくとも毛は関与していない)事故だったらしいが
プリ誤人のほうはねぇ……70歳児の普段の行状からしてもねぇ……。
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最終更新:2025/04/14(月) 07:00
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