柳沢元政(1536? or 1537?~1613? or 1614?)とは、戦国時代の武将である。
足利義昭期の幕臣の一人で、鞆幕府から毛利家にヘッドハンティングされた存在。
なお、生没年は『寛政重修諸家譜』、『萩藩閥閲録』に慶長18年5月5日に78歳で亡くなったとあるのだが、『寛政重修諸家譜』には小さく「今の呈譜十九年」とあるので、それぞれ1年後かもということで(というか、『萩藩閥閲録』には慶長18年8月5日の書状があるので、多分こっちな気も…)。
ただし、どちらも、かなり後世の公式設定なので、あっているかは不明。
足利義昭の幕臣といえば、確かに旧来の家格秩序にあるものもいたのだが、代表的な存在でも、三淵藤英(応仁の乱以後のぽっと出の家系)、細川藤孝(その家から入名字の家に養子入りした存在)、上野秀政(入名字)、一色藤長(入名字の家)、一色昭秀(入名字)、真木嶋昭光(応仁の乱以後のぽっと出の家系)、といった具合にだいぶ新興勢力も入り混じっていた。その中でも、もはや室町幕府の番帳にすら全く名前が載っていない家門の、文字通り足利義昭の政権ができたあたりにようやく頭角を現したのが、この柳沢元政の柳沢氏である。
この柳沢氏であるが、あまりにもぽっと出であるため、以下の2通りの伝承を残しており、子孫ですらどちらに依拠すべきかよくわかっていないのである。
ということで、『寛政重修諸家譜』に至ってはもはやどちらに従うか正直迷ったと書いているレベルであり、正直に言うと、もはや柳沢元政の父親の名前すら、ろくに残っていないのであった。
1の場合、柳沢元政の祖父・柳原某が足利義輝に仕え、その妾腹である新右衛門が足利義輝に柳沢の名字を与えられたことになる。一方、2の場合、柳沢弥三郎信景という父親が、武田信虎追放に付き従い、足利義晴に仕えて戦死し、その子である柳沢元政がそのまま幕臣になったということである。
とはいえなのだが、足利義晴・足利義輝期の幕府にそれっぽい人間は全くおらず、これらの伝承が事実かは、全くもって不明としか言いようがない。
『寛政重修諸家譜』、『萩藩閥閲録』のどちらも、柳沢元政は幼き頃より足利義輝に仕えたとされるが、具体的なエピソードが特に記されているわけではない。
その彼が、初めて歴史の表舞台に姿を表したのが、『永禄六年諸役人附』の後半部分、つまり足利義昭の越前時代の家臣リストである。そこで、足軽衆に柳沢という人物がおり、おそらくこれが柳沢元政である。なお、このことから、そもそも足利義昭に個人的に起用されただけの可能性があり、足利義輝時代以前の伝承は後世の設定でしかない可能性も高いと考えられる。
ようやく逸話として出てくるのが、『寛政重修諸家譜』の本圀寺の戦いに際してであり、奮戦した柳沢元政は、七か所の傷を得るほど、大活躍し、足利義昭から感状をもらったとの事である。
なお、『大徳寺真珠庵文書』の中の永禄11年(1568年)12月13日のものや、『熊谷家文書』146号といった、足利義昭上洛直後の幕臣に柳沢信政という人物が登場する。この柳沢信政は、柳沢新右衛門尉という官途から、ほぼ間違いなく柳沢元政と同一人物と思われる。
なお、この柳沢信政は、本圀寺の戦いの後、毛利家に使者として向かっているため、前述のエピソードが事実かは不明。加えて、『萩藩閥閲録』には、毛利元就存命の頃、聖護院宮の一同として大友宗麟との和睦にかかわったらしいことがわかるため、聖護院道増や久我晴通とともにこのまま西国近辺で交渉を担っていたという一次史料が大量に収録されている。
一方、柳沢元政としては元亀年間から、ようやく一次史料に姿を現し始める。『織田信長文書』や『小早川家文書』には、毛利家と行き来する使者の役割を、柳沢元政が担っている姿が描かれているため、上洛直後からずっと、この役目を担当していたのだろう。というか、『萩藩閥閲録』の文書と合わせると、下手をすると柳沢元政はずっと毛利元就と大友宗麟の和睦交渉にかかわっており、京都にはほとんどいなかった可能性がある。
続いて、『萩藩閥閲録』には、元亀4年(1573年)に足利義昭が槙島城で挙兵した際、自害しようとした足利義昭を逃がし、槙島城でしんがりを務め、大傷で生死の境をさまよった、とのことらしい。
『萩藩閥閲録』に収録されている文書によると、槙島城を追い出された後三好義継らの元を転々としている頃、柳沢元政は、既に毛利輝元のもとにおり、足利義昭からの使者として活動していた。このため、旧来の柳沢元政と毛利家との関係が、非常時にも使われた、ということらしい。
というわけで、いわゆる鞆幕府が成立したころから、柳沢元政は毛利家と足利家の両属的な存在になりつつあった。ただし、上野秀政や真木嶋昭光といった、足利義昭の身近にいるような存在ではなく、各地に向かう使者の役割を担っていたため、『毛利家文書』では天正3年(1575年)に羽柴秀吉らを通じた、織田家との交渉などにも使者として送られている。
足利義昭のこの頃の大身家臣をまとめた、『小早川家文書』の「礼銭遣方注文写」の最後の方にかろうじて名前を残す程度には、小粒だった柳沢元政。この後しばらく活動がわからなくなり、島津攻めの頃に、息子の柳沢景祐が籠城する城への使者として活躍し、小早川隆景と黒田官兵衛から礼を与えられたところまで、『萩藩閥閲録』の文書も飛んでしまう。
足利義昭の帰洛で、一時的に豊臣秀吉の陪臣的存在にこれらの人々がなった後、文禄の役の際に久々に奉行として登場する。なお、『萩藩閥閲録』によると、息子の柳沢景祐を毛利家に残して、一代のみの話で柳沢元政は秀吉に仕えていたようなので、一時的に毛利家を離れていたようだ。
『寛政重修諸家譜』によると、朝鮮にわたって、寺沢広高や山中長俊らと一緒の仕事をしていたそうだが、慶長2年(1597年)に足利義昭が亡くなり、その葬儀を取り計らった。その直後の10月2日に従五位下になり、監物となり、またタイミングは不明だが『萩藩閥閲録』によると豊臣姓も得たとの事らしい。
そのまま出雲や備後などに合わせて一万石くらいの領地を持っていたらしいが、豊臣秀吉の死後に毛利家に戻り、そのまま子孫は毛利家に仕えていった。死んだタイミングは、前述の通りよくわからない。
なぜか足利義晴に仕えたことにもなっている。政治力が結構高い。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 45 | 政治 | 34 | 魅力 | 49 | 野望 | 59 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天道 | 統率 | 83 | 武勇 | 56 | 知略 | 74 | 政治 | 81 | ||||||||
創造 | 統率 | 54 | 武勇 | 57 | 知略 | 72 | 政治 | 76 | ||||||||
大志 | 統率 | 53 | 武勇 | 56 | 知略 | 72 | 内政 | 75 | 外政 | 84 |
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