栗山利安は、戦国時代から江戸時代の武将。生没年1550年~1631年。黒田二四騎から選抜された黒田八虎の一人。当時の福岡藩の家臣筆頭に数えられる事から「一老」とも称される。黒田官兵衛より、黒田家三代に50年以上仕えた股肱の臣である。黒田騒動で知られる栗山利章(大膳)の父親。
兵庫播磨国の出身。姓である栗山は、現在の姫路市栗山町に関連しているといわれる。栗山氏は播磨の守護大名の赤松氏に従属する国人であるが、15歳の利安は赤松氏自体には未来が無いと見切りをつけ、赤松氏の陪臣であった黒田官兵衛(当時は小寺官兵衛)の下におもむいて、奉公を願い出た。
その時の利安の口上が「いずれ貴方は大国の主となるという噂を聞いたので、ぜひ主君として仰がせて下さい」というものであったという。不思議に思った官兵衛が召し使ったところ、人柄も良く、文武ともに忠勤に励んだので、官兵衛は気に入り「善助」という名を与えた。
利安が20歳の時に、15歳の母里万助という少年と出会う。黒田官兵衛は二人が大成すると目をつけていた。万助は武勇に優れていたが、粗暴でわがままな性格であり、これは育成が難しいと思った官兵衛は思慮分別のある利安ならばなんとか出来るのでは思い、二人に義兄弟となって、互いに助け合うようにと言いつけた。この万助こそが後に黒田家屈指の猛将となり、福島正則から名槍「日本号」を呑み取った母里友信である。
この時、官兵衛は二人に2枚の誓紙を書かせ、1枚はお互いに交換させ、1枚は控えとして官兵衛が保管した。この誓紙を官兵衛は生涯大切にし、「冥土の土産」として自分の棺に入れるように二人に遺言したという。
1578年に黒田官兵衛が、織田信長に謀反した荒木村重の説得に有岡城におもむいたものの、村重に監禁されてしまう。官兵衛の安否を掴むべく、利安は母里友信と井上之房と共に城下に潜伏している。利安は城内に出入りしている商人に渡りをつけ、官兵衛の居場所を探り当てる事に成功した。
以降は何度も官兵衛の牢に訪れては生還への希望を持たせ、翌年についに有岡城が織田軍に落とされる時には、寄せ手に紛れ込んで官兵衛を救出して、監禁生活で病んだ官兵衛を有馬温泉まで連れて行って療養させている。深く感謝した官兵衛は利安に秘蔵の馬を与えた。
こうして利安は黒田官兵衛の全幅の信頼を得て、織田・豊臣政権下での官兵衛の右腕として多くの手柄を立てた。1587年に勘兵衛が九州豊前国12万石の大名になった時には6000石を与えられ、国政を任されるまでの身上に昇った。この頃に四郎右衛門と改名している。かつて後藤又兵衛は出奔していたが、後に黒田家に帰参する時には、最初に100石取りとして利安の下へと附けられた。
1693年に官兵衛が隠居して、家督を息子の長政に譲ると、利安はその補佐役となる。長政は父譲りの知恵者であったが、戦場では最前線に行きたがる猪突のきらいがあった。かつて利安は、賤ヶ岳の戦いで討死覚悟を決めた官兵衛から共に落ち延びるように少年の長政の身を託された事があった。この時は長政が父と枕を並べる覚悟を示したので「さすがは殿の子」と感激したものであるが、当主になっても自重しない長政に段々と辟易し、自分亡き後の事を考えて頭を痛める。結果的には長政は畳の上で死に、利安の方が長生きするのであるが。
朝鮮の役でも長政に従って渡海する。利安は槍働きだけでなく、行政でも手腕を見せ、現地での水源の確保や、占領地の統治にもあたっている。利安の統治は行き届いていた事から、民から慕われ、彼らは頻繁に利安との面会を求めたので、利安が「来る時は二日か三日に一度、全員まとめて来て欲しい」と言うほどであった。ある時、長政が様子を見に手勢を連れてきたところ民たちは驚いて戦支度をし、そこに利安の馬印が見えると解散した。
1600年の関ヶ原の戦い前夜では、大坂の黒田屋敷に母里友信と詰めており、協力して、官兵衛夫人と長政夫人が大坂方の人質とならないように脱出させている。二方を豊前まで無事に送り届けた後は、友信と共に現役復帰した官兵衛の両翼となって、九州切り取りの戦いで活躍する。しかし、両夫人の脱出劇については異説もある。
黒田長政が関ヶ原の戦いで大功を立て、筑前国52万3千余石の大封を得た時には、1万5000石の大名級の所領と麻底良城を与えられる。徳川家康に目通りをして名を備後に改める。後に嫡男の利章の3300石と合わせて、栗山家は2万石弱を食み、筆頭家老の家柄となる。福岡城の築城中は長政夫人の身を預かり、長政の長男の忠之は利安の屋敷で生まれている。
1609年に黒田官兵衛が死去する。官兵衛は自分の兜と鎧を利安に託して「長政を頼む」と遺言した。 利安は官兵衛の菩提を弔う為、自分の領地に円清寺を建立し、現代でも現存している。
1615年の大坂夏の陣では、黒田忠之と共に軍勢を率いて大坂へと向かうが、途中で大坂城落城の報を聞いて引き返している。一説には忠之に同行したのは井上之房で、利安は長政が不在だったので、藩の留守を預かったとも。
1617年に利章に家督を譲る。1623年には長政が死去。これを機に隠居し、一葉斎卜庵と号して老後を送り、隠居料700石を与えられる。忠之は祖父や父に似ず、粗暴でわがままな性格で、長政は本気で廃嫡を考えていた程であった。利安もこれを憂慮し、家老職を継いだ利章が、忠之の不行状を諌める為に諫書を作成した時には、之房と共に元老として承認している。1631年に死去。
利安の死から1年後の1632年に黒田騒動が発生している。詳細はお家騒動の黒田騒動を参照。この騒動で岩手県盛岡藩への預かりとなった長男の栗山利章は、客分に近い厚遇を受けており、子孫も盛岡に土着した。利章は「栗山大膳」という名でも知られ、森鴎外の小説にもなっている。
次男は益田正親の養子となり、益田縫殿介と名乗り、2500石を継いでいる。
福岡藩では、11代目藩主黒田長溥の時に、利安と利章の功績が再評価されて、栗山家が再興されている。山口孫右エ門が栗山姓を名乗り、栗山利和として600石取りとなっている。この人物は利安の長女と黒田一成の間の女系の子孫である。
栗山利安は万事控えめで、家中の者に道で出会えば、身分に関わらず、必ず馬から下りて挨拶をしたという。小身者から万石取りにまで成り上がった自身の経験から、「人間というのは出世すると、それに慣れてしまって、とかく付け上がるものであるから、初心を忘れてはいけない」という言葉を残している。
利安は質素で華美を好まず、贅沢をしている者を口やかましく戒める様は、吝嗇でせせこましいように見えたが、お金に困っている者には、ある時払い催促なしで気前良く貸してやり、亡くなった後に家族が遺品を整理していると、借状が銀百貫分も残されていたという。
他方で図太いところもあり、福岡藩の成立の祝いで、黒田長政が利安に祝儀としてどれでも好きな馬を持ってゆけと言ったところ、利安は長政が秘蔵している駿馬を探し出し、「それだけはやめてくれ」と懇願する長政を顧みず、すかさず馬を持ち去ってしまったという。
利安は家中でも屈指の武士であり、戦場で11度の功名を立てている。そのうち6度は采配を振るってのもの、5度は自らの武勇によるものであった。力も体つきも並であったが身軽で運も良く、生涯で受けた戦傷は、朝鮮の役で矢がかすって流血した一度のみであったという。
仕物(刺客)で4度働いた事があり、特に淡路の田村又右衛門という勇士を討ち取った時は、羽柴秀吉から「天下一のしもの」と称賛され、これを聞いた雑賀孫市は、酒杯を交換して誼を結んだといわれる。
利安は亡くなる直前、病床から戦場で采配をするうわごとを何度も口にしており、看病をしていた者たちは「戦の話などされない御仁だったのに、心の中では常に戦場の事を考えておられたのだな」と驚いたという。
家中の村田吉次は、自分の武勇と主君の寵愛をたのんで周囲に威張り散らしている迷惑な男であったが、「殿以外に怖いものはない」という放言を聞きとがめた利安に因縁を付けられ、刀をちらつかせた罵倒と恫喝を受けて見苦しく謝罪するまで締め上げられた。
後に吉次は朋輩たちに「そりゃあ腹が立ったが、あの老人は素早くて、太刀筋も妙に速い。もし返り討ちにでもあったら、今度は俺の息子も潰すように謀るにちがいない。殿も栗山の味方をするだろうし。とにかくあの老人を怒らせたらもう逃げるしかない。あいつは喧嘩好きの恐ろしい奴なんだよ。お前らも気をつけろ」と言った。吉次は行状を改める事は無かったが、主君と利安のみは恐れるようになったという。
また、吉次が家中の者とどちらが白切裂の指物に相応しいかを争い、大事になった時には、利安がかつて自身が使用していた白切裂の指物を見せて「私とも争うかね?」と笑って言ったところ、吉次たちは恐れ入って、争いを止めてしまったという。
義兄弟となった栗山利安と母里友信であったが、当初、利安は「自分の身のみで精一杯で、人の面倒などとても出来ません」と言って断ったという。それを謙遜と受け取った黒田官兵衛は何度もしつこく頼んだので、ついに利安は引き受ける事になったが、やはりというか、さんざんに手を焼かされる事になる。
鷹取城の築城の時、黒田長政と城主となる母里友信は縄張りを行っていた。城を堅固にしたい友信に対し、長政が「(鷹取城は福岡城から応援が来るまで持ちこたえるのが目的で、友信ほどの豪傑ならば十分に持ちこたえられるはずなので)そこまでする必要は無い」と言ったところ、行間など読めるはずのない友信は怒って、自分の詰め所に引きこもってしまった。
長政も腹を立てつつも利安に相談したところ、「いつもの事です。気狂い同然の者に何を言っても無駄です。そのまま縄張りを続けて下さい」と言って友信の所へ赴き、叱りつけて長政の真意を説明した。すると友信は文句を言いつつも機嫌を直して、仲良く縄張りをしたという。
黒田長政の嫡男の忠之の4歳の袴着式の事。のちに憎たらしく成長する忠之もこの段階では愛らしい幼児であった。相好を崩した母里友信は「(殿はたいした事ないので)早く大きくおなりになって、父以上の武将になりなされよ」と言ったところ、行間を読んだ長政は激怒する。
「俺の武勇が不足しているとでも言いたいのか!俺は若い頃はお前や栗山を指揮し、朝鮮や関ヶ原でも功名を上げてきたのだぞ!お前らに見限られるような男ではないわ!」と激怒して脇差しを抜いた。激怒する長政をさらに友信は煽りまくり、挙げ句のはてに「いいご身分で手柄自慢笑止ですな」とほざいた。無論、長政は手討ちにせんばかりに激怒する。
そこへ若い衆に酒を勧めていた利安が戻ってきて「小姓の時、官兵衛様に披露した小笠原流の御酌でござる」と言って長政を接待したので、長政の機嫌も多少和らいだ。そこを見計らって利安は「気狂い者め、こっちに来てワシの代わりにありがたく返杯を頂戴しろ」と友信に言って、両者を和解させ、「これで御家も安泰云々」と、少し長政の悪口を混ぜつつ、無理やり良い話にまとめて家臣一同を盛り上げたので、長政もすっかり上機嫌になったという。
母里友信と桐山信行は長年の不和であった。原因は文禄の役において友信の戦況を、信行が誤って敗色濃厚と報告してしまった事である。信行は友信に何度も謝罪し、利安や周囲も取りなしたが、おさまらない友信は「信行の頭を斬り割る」と激怒して走り出したところを止められて、以後は信行の無視を決め込んだ。見かねた黒田長政が「俺も我慢している。お前も堪忍してやってくれ」と信行を慰めた。
時代は下り、今や友信は藩の家老、信行は中老である。この両者が不和のままではまずかろうと、主だった者が城に集まった時に和解の場が設けられた。しかし、友信はどうしても和解に応じようとしない、長政が言っても折れず、利安も改めて辛抱強く説得するが、頑なに友信は応じようとせずに、ついに利安は友信にビンタを食らわす(その振りをしたとも)。利安は「誰にでも言いたいことはある。皆、浮世のならいで辛抱しているのだ。よく聞き分けないか」と、親が子を諭すように友信に言い含めたので、遂に友信も泣いて謝罪した。
家中の者からは思考能力の欠如を疑われていた友信だったが、「殿や皆が言っている事は分かっていましたが、自分は一生の事と決めて我を通すつもりでした。思えば亡き官兵衛様の計らいで備後(利安)とは義兄弟となりましたが、自分はお構いなしに、どうせ、昔の話だと思っていました。けど、本当は備後が自分の事をどう思っているのか気にしていました。元々備後は何を考えているか分かりにくいところがありますし。ですが、備後はずっと自分の事を気にかけてくれていました、官兵衛様は正しかった。子供の頃は食って掛かっては、よくしばき倒されたものです、今でもここまでしてくれる友がいましょうか。長い間迷惑をおかけました」と言って、愛用の脇差しを信行に差し出し、長政が口添えして両者の脇差しが交換され、和解の儀式となった。
数十年越しの仲直りに一同は大いに喜び、酒宴が設けられた。この一連のやりとりはその場に居合せた鶴原という藩お抱えの狂言師によって作品化されたという。
友信の晩年、病床の友信を利安が見舞った。死期を悟った友信は「今までおこがましくて言えなかったが、御身の恩で人になれた」と言い、二人で手を取り合って泣いたという。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける栗山善助(利安)の能力一覧。長らく未登場であったが、2013年発売の創造で初登場する。おそらく2014年の大河ドラマの軍師官兵衛に合わせたものと考えられる。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 創造 | 統率 | 83 | 武勇 | 73 | 知略 | 77 | 政治 | 78 | ||||||
| 大志 | 統率 | 76 | 武勇 | 72 | 知略 | 84 | 政治 | 76 | 外政 | 77 | ||||
| 新生 | 統率 | 70 | 武勇 | 71 | 知略 | 81 | 政務 | 71 | ||||||
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