桂文楽(かつらぶんらく)とは、江戸落語の名跡であり、また噺家である。
本記事は有名な八代目・桂文楽について記述する。自宅の所在から通称「黒門町」とも呼ばれ、戦後江戸落語界を牽引した大御所の一人で、古今亭志ん生と並び称せされる。定紋は三ツ割桔梗、出囃子は野崎。
※なお、黒門町という地名は消滅しており、今は上野一丁目である。
本名は並河益義(なみかわますよし)と言い、名門武家の出である。しかし、父が台湾でマラリアに罹って斃死し家計が苦しくなり薄荷問屋に奉公に出る。その後に職を転々とし、横浜で博打打ちの親分の養女に手を出して袋叩きにされ務めていたノミ屋にいられなくなり東京に戻る。母親は本多忠勝と再婚しており、その義父がたまたま三遊亭小圓朝と親しかったことから噺家への道が開けるというとんでもない経歴を持つ。
その後、初代桂小南の内弟子となり桂小莚の名をもらう。初高座は入門5日目で演目は「道灌」。小南は上方落語家であったため噺の稽古はつけず、立花家左近(後の三代目三遊亭圓馬)に噺を仕込まれた。2年後二つ目昇進。小南は後に大阪に帰郷してしまい、寄る辺のなくなった文楽は時には旅回りに混じりつつ名古屋・大阪・京都・東京・満州等を流転。この時期三遊亭円都の一座で一時期だけ三遊亭小円都を名乗る。その後東京へ戻り翁家さん馬(後の八代目桂文治)門下となり翁家さん生の名をもらう。しかし所属組織の移籍をめぐってさん馬と袂を分かち、実質的に五代目柳亭左楽門下へ移る。その後に翁家馬之助で真打昇進。大正9年には八代目桂文楽を襲名する。また、人脈のあった左楽から帝王学を学び、その後に落語協会のトップも務めることになる。
戦前は高級料亭の酒宴で政界、財界、官僚、高官相手に高座を演じる毎日を送り、戦後はラジオ東京(今のTBS)の専属として、お茶の間の人気を得た。
1971年に肝硬変で入院し、その12月に死去した。享年79。なお、引退宣言はなかったものの、最後となった高座で演じていた圓朝作の古典落語「大仏餅」において神谷幸右衛門の名が出てこず絶句、「まことに申しわけございません、勉強し直してまいります」と深々と頭を下げ席を立ったエピソードは有名であり、桂米朝、五代目三遊亭圓楽などは実に潔いと評価している。
噺を検討して刈り込んでいき、それをひたすら練り上げる芸風であった。そのため口演時間のブレが非常に少ない。感情描写の巧さにも定評があり、それはさながら芸術的評価に達していた。
演芸評論家の川戸貞吉は「泣きの文楽」という二つ名を与えるほど、泣く所作が特に素晴らしいと評している。芸風は刈り込んで練磨されたものであり、特に「心眼」など盲人の演技は一世一代の代物と評した者もいる。また「盲人」「若旦那」「幇間」「夫婦」などを得意のテーマとしており、得意噺として先述の盲人噺に「心眼」「按摩の炬燵」、若旦那の噺に「明烏」「船徳」、幇間の噺に「愛宕山」「富久」、夫婦の噺に「厩火事」「夢の酒」などがある。特に「船徳」といえば文楽とまで言われるほど人気が高かった。また「明烏」を演じたあとはその所作の見事さから甘納豆がよく売れ、人形町末廣で客の注文を断って違う噺を演じたところ、席亭から「他の話を演ったんじゃ甘納豆が売れないじゃないか」と苦情を言われたというエピソードがある。
絞り込んだ噺にこだわりひたすら練磨する芸風から高座で演じる噺は限られており、生涯30演目ほどしかない。これに関連して六代目三遊亭圓生について「あたしゃ、圓生のように無駄話がない。レパートリー全部が十八番です」と語っている(これは上方落語の大御所、三代目桂春團治と同じこだわり方である)。
中には人には教えたが、高座では演じたことがない噺も多いといわれている。具体的なものとしては文楽のために正岡容が描き下ろした怪談噺「髑髏柳」を本人は演じることなく怪談噺を得意とする八代目林家正蔵に伝えている。
弟子の柳家小満んが本当のネタ数を尋ねたところ、文楽は困った顔で「そりゃぁ、あたしだって三百ぐらいは稽古をしてますよ」と返答した。小満んも意外に思ったが「富士山も裾があって高いんですよ」の言に納得したという。
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最終更新:2024/03/29(金) 07:00
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