桓武平氏単語

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桓武平氏とは、賜姓皇族のひとつであり、おそらく日本の氏族の中で一、二を争うほどの有名なものである。

桓武平氏とは

要するに平清盛など治承・寿永の乱でおなじみの彼らのことである。嫡流である平家、もとい伊勢平氏はこの乱でほとんど絶えてしまったが、分である坂東平氏は多くが源頼朝の味方に付き、以後も東武士として鎌倉時代室町時代を通して畏敬を集める存在であったため、戦国時代ファンにも長尾氏などその子孫の苗字にピンと来る人もいるかもしれない。また公家の中にも桓武平氏の子孫は生き残っており、こちらの血筋は現在もなお続いているのである。

しかしめて考えてみると、桓武平氏がどのような筋を経て武の棟梁の一になったかを答えられる人はそれほどいないかもしれない。そこで少し長々となってしまうが、彼らの歩んだ筋を見ていこうと思う。

桓武平氏のほんとにざっくりとした略系図

  • ‖:養子 / 下線付き:養子に行った人物
桓武天皇
公家平氏
高棟王 高見
高望王
+
坂東平氏
平良 平良 平良 平良
貞盛 繁盛 平将門 忠頼
維将 維衡 忠常
正度 正済
+
平維盛 貞季 季衡 貞衡 正衡
正盛
忠盛 忠正
+
<池
平清盛 平家 平経盛 平頼盛 平教盛 平忠度
小松
平重盛 平宗盛 平知盛 平重衡

桓武平氏、誕生

桓武天皇には子が多く皇室の財政を圧迫し、軍事費を捻出させるために一部の皇族を臣籍降下させた。彼の皇胤として最初に賜姓皇族となったのは長岡成と良岑安世の二人である。さらに仁9年(818年)には明日王の子三王ら4兄弟が久賀の姓を賜る。

そして長2年(825年に)王の息子、高棟王、善棟王が平安京からとられた「」の姓を与えられて臣籍降下した。

以後も貞観4年(862年)万多王の孫・住世王、継世王らが、貞観15年(873年)賀陽王の孫・幸身王、時身王が、貞観16年(874年)に仲野王の孫・好王、貞文王が、元慶元年(877年)に万多王の孫・高王が、元慶2年(878年)に賀陽王の子・潔行王が、元慶4年(880年)に万多王の孫・有相王がいずれもの姓を賜ったのである。

特筆すべきが高棟王の高見王の系統で、彼の子高望王が寛元年(892年)にの姓を与えられている。

長々と列挙したが、ぶっちゃけこの中ではやがて軍事貴族・武として栄えていく高望の子孫、日記として公家に残る高棟の子孫の二つ以外に特に書くべきことはない。

新皇・平将門

高望王はまもなく上総介として関東に下っていった。彼の子である長男香、次男・平良兼、四男・平良正は、すでに常陸に進出していった嵯峨源氏護のたちと姻戚関係を結んでいき、基盤を盤石なものにしていった。

さらに三男である平良持、五男の平良文がおり、上から順に香は常陸大掾を、良兼は上総介・下総介を、良持は鎮守府将軍を務めたようだ。延長9年(931年)に彼らはすでに姻戚関係をめぐって内戦状態に陥り、平良持亡き後それを引き継いだ平将門は、との婚姻に反対した平良兼と開戦、野本の戦いで良兼側についた香を討ち取ってしまったのである。さらに香の子である貞盛、叔父である平良正も相手に加わり、戦いは下野にまで広がった。

都ではこの騒動を国家への反逆とはみなさず、承7年(937年)に私戦として将門を恩赦、こうしていったん戦いは収まったはずであった…。将門はその後ある意味関東の顔聞き役として紛争を調停し、その一つが経基が関わったものである。

しかし翌年である慶元年(980年)、貞盛によって将門は国家への謀反人にするよう訴えられ、さらに慶2年(981年)、関東から逃げてきた経基の虚実入り混じった訴えが届く。さらに常陸での藤原玄明、藤原維幾の対立で将門は玄明をかばい常陸府を攻撃、ついに彼は国家への反逆者としてみなされたのであった。

緒戦を勝ちとげ新皇を名乗り坂東国司を勝手に任命した平将門の報は宮中に大騒動を巻き起こした。さらにちょうど同時期に藤原純友の乱も起きていた。これが承慶の乱である。

しかしやがて藤原秀郷貞盛らの焦土作戦によって将門の軍勢は減し、ついに将門は矢が刺さり死ぬのである。

長くなってしまったが、将門の一族はこうして壊滅し、以降勝者の側に立った貞盛の子孫が、経基の子孫である清和源氏藤原秀郷の子孫である秀郷流藤原氏とともに軍事貴族として栄えていく。加えて桓武平氏は最初の五兄弟の末である平良文の子孫も坂東平氏として栄えていくため、双方のその後を見ていこう。

主な分流

良兼流

勝者であった貞盛の子孫にべると、将門に負け続きで逃げ回っていた良兼流平氏はややパッとしない。しかし彼の子・武蔵守を、元は下総介を務めているなど決して冷遇されていたわけではないようである。

しかし伊勢をめぐって貞盛流平氏と対立状態に陥り致頼、致経の二代にわたる争いを続ける。

この子孫は源義朝の下手人である長田忠致らにあたる。

勝者・平貞盛

貞盛は父親香が打たれた時は朝廷の左允の座にあった。さらに将門討伐後は正五位上右助に任じられ、鎮守府将軍陸奥守・丹波守といった役職を歴任する。彼の息子維敏、維将、維叙、維衡の4人がいたが、孫・甥・甥の子を次々と自分の養子にしていったのである。それが維時、維幹、維茂、維良(系図上では異なるがどうも維茂と同一人物らしい)、である。

こうした息子・養子たちは各国司を歴任し、特に常陸介と肥前守が世襲化された一方、都の武者として藤原に仕え、清和源氏と同様に藤原道長との関係は深いものであった。

しかしその一方で、同族であり房総半島を拠点にした良文流平氏との対立が化し、結果自体は不問にされたものの維良の乱のように都で騒動になることもあった。

この世代についてはこれ以上ることはなく、時代は伊勢平氏の成立へと移る。

主な分流

繁盛流

である貞盛が都の武士として活躍していった一方、繁盛は香の常陸大掾の地位を引き継いでいった。そのまま貞盛流平氏関東の拠点である常陸を確保する役を追う常陸平氏となっていく。
彼の子孫が大掾氏、真壁氏らであり、太平洋交易を通して州の安倍氏清原氏、奥州藤原氏と関係を深める一方、常陸に進出してきた義源氏である佐竹氏などに、かつての嵯峨源氏と同じ役を今度は自分が担った。

また、貞盛の養子になった維茂(維良)は余五将軍と呼ばれ越後に進出、そのまま三男の繁茂の子孫が代々秋田介を世襲化させる。そう、源義仲に対抗した越後氏である。

常陸平氏は、佐竹氏討伐後の次のターゲットにされ、源頼朝に命じられた小山氏や八田氏にある程度一掃されてしまうが、関東の代表的な勢として戦国時代まで生き延びていく。しかし佐竹氏の常陸統一の過程でつぶされるか臣になるかの選択をさせられていった。

伊勢平氏の祖・平維衡

貞盛の子の一人が伊勢平氏の祖・維衡である。彼は長徳4年(998年)に、平良兼の孫・致頼と伊勢をめぐり紛争を起こしたものの、私君である藤原の取り計らいで伊勢守に任じられた。しかし藤原道長の反対によって1か足らずで解任、その後は関東国司を歴任していく。彼は三条天皇である藤原実資人であったが、この反省から藤原道長にも接近していったようだ。

彼の代でもはやすでに伊勢の押領使と在庁官人を組織していた一方、致頼との対立は維衡の子・致頼の子・致経の代まで続いていく。こうした内乱が伊勢平氏の出発点だったのである。

主な分流

維将流

貞盛の息子維将は相模介や肥前守を歴任している…というかそれ以上に書くことがない。さらにその子である維時は養子として貞盛の子となったようだ。

そしてその子である直方は、良文流平氏との対立のひとつの頂点である忠常の乱で討伐者になるも苦戦し、結局頼信の活躍によってこれをあっけなく終わらされると感、彼の息子である頼義にがせ鎌倉の屋敷を渡す。

この子孫が熊谷氏、そして北条氏であるのだが、北条氏自身は桓武平氏であるものの直方の子孫か、というのはやや疑わしい(いくら何でも話が出来すぎているため吾妻鏡創作ともいわれている)。

平正度と五兄弟・伊勢平氏の成立

先代から続く争いに勝利し、ついに致経を追いやったと思われると長元の闘乱についてはあまり記録が残っていない。そしてほどなくして彼のである正度とその息子の五兄弟である平維盛貞季、季衡、貞衡、正衡の時代へと移る。

桓武平氏は彼らの代に至ってもなお各の受領をしていたようだ。しかし、正度までとその息子たちとの間には明らかな差がある。それまでの先祖が受領を歴任していたのに対し、この五兄弟はいわば最後を飾る名誉として一回だけ受領になったにすぎないのだ。桓武平氏もまた格を低下させていったようである。

しかし、伊勢への基盤づくりはしっかり行っていたようで、多度支配をめぐって寺社・美濃源氏といった勢と争っている。さらに史料はあまりらないが、五男・正衡を中心とした構造に再編成が起き、特に季衡流、貞衡流の従属はしいものであった。

主な分流

正済流

正度のさらにである。出羽守を務めていることから決して冷遇されたわけではないが、その後しばらくは特筆すべき記録は残っていない。

しかし時代は保元の乱ひ孫である平家は都の武者として崇徳上皇方につき敗北する。その結果彼は足利氏の祖である義康によって子ともども処刑された。

維盛流

長男平維盛の子孫。である貞季流よりもさらに独立性が高く、正衡流とはあまり関わり合いがない。

業房は後白河院院近臣として治承3年(1179年)の政変で処分され、彼と丹後局でおなじみの高階栄子との間に生まれた業兼は平家が滅亡した後も卿に列した人物である。

彼の教成もまた高階栄子後白河院との関係で厚遇され、四条藤原氏に養子入りする。これが堂上公家・山科の始まりである。

貞季流

次男貞季の子孫。伊勢平氏が次第に院に接近し院近臣になっていくなか、伊勢賀の平氏を在地して取りまとめる役割を担ったようだ。代表的な人物としては、はじめは畿内軍事貴族として源義仲追い落としに協したが平氏との対立悪化で源義経に滅ぼされた信兼、そしてその息子源頼朝挙兵のきっかけである山木兼隆らが属する。

近世以降も関氏が子孫を称している。

季衡流

三男季衡の子孫。平氏の有軍事担当者であり、源氏の挙兵が相次ぐ中、九州を一時的に回復させた平家貞、伊勢賀の平氏を率いて源氏の畿内支配に対抗した平家継、重盛の人として小松に仕え最終的には平家から離脱した平貞能らの流、北陸への基盤を拡大しようとした盛俊、伊勢に拠点を持っていた盛澄らが属した流らがいる。

貞衡流

四男貞衡の子孫。鷲尾、桑名を号しの季衡流と同じく正衡流への従属は行ったものの、どちらかといえば清盛平家盛としく、彼が若くして亡くなった後は関係が次第に途絶えたのか治承・寿永の乱に全く出てこない(貞衡自体系図以外では存在が確認できていない)。

近世以降も杉原氏が子孫を称している。

平正盛・忠盛と院への接近

そして登場するのが院へと接近して、北面として白河院に抜される正盛である。彼は院近臣への寄進を通して白河院に接近、さらにの乱を定して名をあげることとなった。彼はその後山陰山陽の受領を務めていき、のちの伊勢平氏瀬戸内流通の握がこのころからすでに行われているのである。

そしてその息子がついに全に院近臣と化した忠盛である。彼は瀬戸内海賊討伐で名をあげるついでにちゃっかり人も獲得し、白河院鳥羽院の時代に院近臣としては卿一歩手前まで至った人物なのだ。受領の役も最高峰である播磨守を務めこれまで低調だった伊勢平氏一気に躍進したのである。

主な分流

忠正流

である忠盛にべると院から離れ摂関に接近した人物である。そのため摂関の武が総動員された保元の乱において甥である平清盛と対立し、敗戦後は処刑されることになった。

なのだが、近世以降も服部氏が彼の子孫を名乗っている。

そして平清盛へ

平清盛についてあまり多くをる必要はないだろう。が蓄えた富と院近臣としての地位、保元の乱平治の乱での活躍、そして白河院の御落胤という噂、数々の都の勢が壊滅していく中、これらを利用して太政大臣まで上り詰めた人物である。

しかし「平家」の栄も彼の代まで出会った。後白河院から池を通して助命された源頼朝の挙兵と期鎮圧の失敗は長年のであった福原への遷都をあきらめ、畿内にこれまでになかった軍事政権を誕生させるに至る。これを持って平氏政権は完成し、「六波羅幕府」と一部では呼ばれるほどであったが、その直後に亡くなってしまった。あくまでも武者の伝統にのっとった自身の人と現地で招集した「かり武者」を中心とした混成軍を中心とした軍事行動や、池小松といった別の思惑を持った一門などの存在が平家落へと続いていくのである…

主な分流

池家(頼盛流)

正盛の後妻である藤原宗子の子息。保元の乱以降ずっと協関係にあった平頼盛であったが、その実清盛に匹敵し、平家空中分解させる要因を潜在的に持っていた存在であった。

しかし治承3年(1179年)の政変で後白河院院近臣が処罰された際、全に彼に従したようだ。が、平宗盛代替わりし平家が都落ちする中離脱、以降は後白河側近の鎌倉卿として生涯を終えた。彼の子孫もしばらくはそのまま卿に列している。

なお平家盛もは同じだが、くに亡くなっている。

最期の当主・平宗盛

後妻とした清盛いだ時子の子孫が小松に代わって清盛の後継者となっていった。しかしくから後白河側近として活動していた平宗盛は、彼への遠慮のため後白河を復権させるという失態を犯し、ついに北陸道から攻めがってきた源義仲によって、平家の都落ちが起きてしまうのである。その後大宰府を追われ屋を拠点に西回復させていくが、和を結ぶと聞いて一のまで軍勢を進発させたところほとんどだまし討ちに近い状態で敗北、その後も屋の戦いで屋も失い、最後には壇ノの戦いで平家は滅亡するのである。

平知盛平教経らは戦死し、生き残った平宗盛平重衡らもその後処刑されていった。

主な分流

小松家(重盛流)

平清盛の前妻である高階基章の子孫。時子べて系の地位が弱く、加えて後白河院への接近が藤原の失脚などで破たんしたことによって一門内で孤立する。
重盛亡き後は伊藤忠清ら重盛人のサポートの下、平維盛平資盛ら彼の息子たちが源氏の討伐を行うがこれも失敗に終わり、平家の都落ちの際には池同様平家からの離脱を試みようとするも失敗した平維盛清経のように治承・寿永の乱の中期に自害したものもいる一方、平資盛のように最後まで平家に従い壇ノの戦いまで残ったものもいる。

平家の御落胤説の中ではかなり有な存在で、織田信長らが彼らの子孫を名乗っている。

坂東平氏良文流

一方房総半島相模武蔵といった南関東に進出していったのが良文流平氏である。平良文自体は『将門記』にも登場しないが、彼が最初に将門殺の報を京都に送った資料が残っている。しかし村岡五郎と呼ばれた彼は実際どのような立場や官職にあったのかもわかっていない。

平良文の息子には忠頼、、そして孫から養子になったらがいた。彼らは常陸など香取内海の反対側に勢圏を持つ貞盛流平氏とたびたび対立を行い、その一つが良文の孫による忠常の乱である。この過程は

  1. 最初に広範に広まっていた嵯峨源氏の勢
  2. 高望王の男子のうち婿としてそれを継承したグループ
  3. 他の男子

の3集団のうち3に属する良文流が1、2と対立を深めていったわけで、構造的には平将門の乱とあまり変わらない。

前述したとおり忠常の乱は貞盛流平氏直方らが鎮圧に失敗し、頼信がかつての従関係もあって降させることに成功、忠常自体は護送中病死したものの彼の子孫は許されることになったのだ。

忠頼の子のうち将恒の子孫が秩父別当の職に就き秩父平氏に、忠常の子孫が上総介、千葉介の地位につき房総平氏に、忠の子孫が三浦党や鎌倉党に(ここに関してはやっぱり平氏じゃなくね?、という意見も根強いほど系譜が混乱している)なり、いわゆる坂東平氏が誕生するのである。

代々戦国時代まで生き残っていった千葉氏や三浦氏などがいるものの、嫡流はほぼ近世を迎えずに滅びることとなる。

公家平氏・高棟王流

かなり後になってしまったが高望の伯父・高棟王の子孫である。高棟自体は正三位大納言まで上り詰め、その後も歴代にわたり参議以上の高官についた。

その一番の有名人は「平氏に非ざる者は人に非ず」でおなじみの平時忠時子滋子の兄弟で、彼らは平家と姻戚関係を結びその中に取り込まれたのである。しかし平家滅亡後時忠は源義経と結びついて生き残ろうとするも、義経敗北によって能登に流される。あくまで与太話程度だが能登の名・時国家になったとされる。

しかしその一方で時忠の叔父信範の子孫は堂上公家となって代々日記として存続し、嫡流の烏丸、安居院自体は絶えたものの西洞院平松長谷、交野といった諸現在まで続いていっているのである。

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