梶原景時の変とは、正治元年10月25日(1199年11月15日)より発生した、鎌倉幕府内部の政変である。
源頼朝の「一ノ郎党」とまで言われ大変重用されてきた梶原景時が、御家人達の弾劾によって追放・討伐された事件である。
「吾妻鏡」では結城朝光への景時の讒言がきっかけで御家人が怒ったとされているが、「玉葉」には他の御家人からそしりを受けたことで、千幡(後の源実朝)を将軍に担ぐ計画の存在を将軍・源頼家に讒言するも論破され、追放・滅亡となったと記されている。
どちらが本当かどうかはともかくとしても、「吾妻鏡」が北条側(=景時を追討した側で正当化が含まれている)から書かれた資料である事を留意する必要がある。
右腕を失った頼家の政治力の低下は明らかであり、3年後病に倒れ危篤状態に陥ると息子・一幡に全権を譲り一幡の外祖父であり景時亡き後の頼家を支えていた比企能員に後事を任せるも、弟・千幡を担ぐ北条時政によって能員が誅殺される。
奇跡的に危篤から回復した頼家だったがすでに幕府内に彼の座る椅子はなく、修善寺に幽閉され後に北条氏の手によって暗殺される。「愚管抄」には景時を庇えなかった事が頼家の失策であると断言されている。
景時は頼朝傘下になってから長年侍所所司として御家人を監督しており、将軍専制を目指す頼朝からは忠臣として重宝がられた反面、御家人達から大変嫌われやすい立場でもあった(言うなれば"将軍の犬")。
また「十三人の合議制」のメンバーの中でも、頼家と乳母夫の関係性にある景時と比企能員は他の御家人からすると「将軍を囲い込まれる」リスクがあり、この両氏が権勢を握る事への危機感があったと思われる。
なお景時への糾弾状を提出した御家人66人の中に比企能員が含まれているが、景時が御家人達に嫌われている事を追い落としに利用して自身の権勢を強める目的があったと思われる。実際景時追放以降に頼家政権下で権力を握るのは能員を筆頭とした比企一族である。
「吾妻鏡」によれば、十三人の合議制成立から半年後に結城朝光が頼朝の思い出を語り、その中で「忠臣二君に仕えず(忠義の臣というものは、一度主君を決めたら二度と主君を変えない)」と発言。
その2日後、阿波局(阿野全成の妻。北条時政の娘で実朝の乳母)が「(上記の)貴方の発言を謀反の証として梶原景時が讒言したので、貴方は殺される事になっている」と朝光に告げる。驚いた朝光は三浦義村に相談すると、和田義盛や安達盛長らを巻き込み景時に反発する御家人66人が鶴岡八幡宮に集合、中原仲業によってわずか一晩の後に景時への糾弾状が作成される。
この糾弾状は大江広元に渡される。景時の能力を惜しみ糾弾状を将軍へと渡す事を躊躇した広元だったが、最終的に頼家に言上される。
糾弾状を見た頼家は景時に弁解を求めるも、景時は何も弁解せずに三男・影茂を幕府との連絡役として残して所領である相模国一宮に一族郎党を引き連れて下向してしまった。
その後景時は一度鎌倉に戻るも、頼家は景時を庇うことができずに追放が確定。鎌倉での景時の邸宅は取り壊されることになった。
翌年、景時が一宮で迎撃態勢を整えている事を人々が怪しんだため、一族を連れて本拠を離れたという情報が鎌倉に入る。景時が謀反のために上洛を企図していると考えた鎌倉では、景時の追討軍を派遣する。
が、追討軍が到着する前に景時一族は駿河国清見関にてに近隣の在地武士達の襲撃に合い、一族全員が討死してしまう。射的のために参集後、解散する所で景時を発見したという。
景時一族の滅亡の翌年である正治3年(1201年)、景時の仲介によって囚人から御家人に列せられた越後平氏・城長茂が京で幕府打倒の兵を起こし、越後でも甥・城資盛が反乱を起こすが幕府方によって対処・鎮圧され城氏は滅亡する(建仁の乱)。
一時の平和が訪れたように見えたが、建仁3年(1203年)3月頃から頼家の体調が悪化。5月、頼家は阿野全成を謀反の疑いで誅殺、全成の妻・阿波局の身柄の引き渡しを要求するも母・政子の拒否により果たせなかった。自身の意識のある内に長男・一幡への継承を確定させるために、対抗となる弟・千幡を推す勢力を削ごうとしたようである。
だが、8月末には頼家は危篤状態に陥る。この際「頼家が病死したので千幡が継いだ」と鎌倉の報告が京に届いており、同時に千幡への征夷大将軍任命が要請されているのだが、頼家がまだ存命なのにも関わらず病死扱いにしている事から察するに、存在が火種にしかならない一幡と比企能員を殺すことはすでに確定していたと見える。
その筋書き通りに比企能員は時政によって誅殺、比企一族は滅亡させられる(比企能員の変)。比企一族に匿われていた一幡もこの時に焼死、もしくは母が抱えて難を逃れたものの11月頃に北条義時の手のものに殺されたようである。
なんとか危篤を脱し目を覚ました頼家は一幡の死と比企一族の滅亡を聞くと激昂するも、すでに頼家に味方する人間は残されておらず、母・政子の命により出家に追い込まれて伊豆・修善寺に幽閉される。そして翌年の元久元年(1204年)に北条家の手のものによって殺害される。
実は、景時への糾弾状の中に北条時政・義時の名前はない。にも関わらず、時政が裏で手を引いていたと言われる事が通説である。以下に主な理由を挙げる。
などが挙げられる。
「玉葉」には『景時が実朝を擁立する計画があると讒言した』とあるが、後に時政の手によって本当に実朝が擁立されていることを考えると、この時点で景時は時政の目論見に気づいていた可能性もあるのが笑えないところである。
なお、後に北条氏は他氏排斥を繰り返し幕府内にて専制体制を完成させるが、この事件が最初の他氏排斥事件であったという考え方もある。
駿河国吉河に所領があった事で景時討伐に参加し功を挙げたのが吉川友兼である。後に5代子孫である吉川経高が安芸に移住し、後に毛利両川と呼ばれる安芸吉川氏となる。
この時に友兼が景時三男・影茂を討つ時に振るった太刀は、その戦いの場所を取り「狐ヶ崎」という名前で吉川氏の家宝として現代に伝わっている(国宝・銘為次)。青江派の太刀の中でも保存状態が非常に良い事で知られる。公益財団法人吉川報效会所蔵、山口県岩国市の吉川史料館で見ることが出来る。
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最終更新:2025/12/10(水) 03:00
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