楽毅 単語

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「楽毅」(がく・き ? ~ ?)とは、中国戦国時代の武将で、の昭王を助けて敵の斉を五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ稀代の軍略

の君子は、友と絶交しても相手の悪口は言わず、忠臣は、を捨ててもが身の潔を弁解しない」

の結びで知られる著作「の恵王に報ずるの書(報遺恵王書)」は古今の名文として、諸葛亮の「出師表」と並んで

「読んで泣かぬものは忠臣にあらず」

と言われた、功を誇らず、自らを驕らず、忠節を貫いた姿勢から、同じく軍事天才であった白起の様な最期をむかえずに寿を全うした名将。

においては「君」、においては「望諸君」とも呼ばれる。

三國志11 統率 政治 特技 戟兵 騎兵 兵器
楽毅 98 75 92 91 92 心攻 A S S A A C

※「三国志」においては、諸葛亮が自らの政治を管仲になぞらえた際に、軍事は楽毅の名を挙げている。

※「三国志演義」では、徐庶劉備の元を去る際に、諸葛亮を「古の管仲・楽毅よりも上」として劉備推薦するシーンがある。 

趙から魏へ

に仕えて中山を征し、その功により中山首都霊寿に封じられた楽の子孫で、若い頃から頭明晰で兵法に通じるとの評判の高かった楽毅は、楽の頃よりすみ続けていた中山を滅ぼした武霊王に仕えた。

武霊王は、当時は蛮族の行為とされていた騎上からを放つ戦法「胡騎射」を、周囲の反対を説得して取り入れる等、先見の明のある王だったが、太子や子の事を哀れんで自ら退位した後の内部抗争により餓死すると、楽毅はを離れての昭王に仕えた。

魏から燕へ

の使者としてに赴いた楽毅は、客分として優遇された事からの昭王の臣となり、の昭王は、楽毅を亜卿に封じて厚遇した。

この当時のは、君を宰相にして強勢を誇っていた斉の湣王からの攻撃を受け、王がいなくなると言う滅亡した期間があり、の昭王が斉軍を追い払う事によって復したばかりで、まずは「隗より始めよ」と、郭隗を厚遇することで諸に散らばる臣を集めていた。

斉の湣王は、を一時的に滅亡させたほか、の三を破り、を援助して中山を滅ぼし、三を率いてを攻め、魯を属としを倒して広大な領土を獲得しており、一時期は「王」ではなく「」を名のった程だったが、逆に斉の人心は疲弊しており、かねてから復讐の機会をうかがっていたの昭王は、軍事的にはまだまだ斉に及ばないはどうすればよいかと楽毅に問うと、楽毅は、

斉は今、覇者以来の余で盛強な存在です。
土地は広大にして人は多く、今、でこれを攻めるのは容易ではありません。
それでも斉を討つというのであれば、三や楚・と結ばれるが良いでしょう。

と進言し、の昭王はに楽毅を送って密約を結び、・楚・とも連合し、を通じてにも協め、 

の五カ国連合軍(後にも加わる)を組織し、楽毅を総帥とした。

破竹の勢い

五カ国連合軍を揮する立場となった楽毅は、済の西で斉軍と戦い、斉に大勝した。

連合軍はここで一旦解散すると、楽毅は軍単独での追撃戦を開始し、斉の都・臨淄を落して湣王を莒に逃亡させると、斉伝来の宝物をに移送した。

の昭王は、一度は滅亡させられた斉の首都を落したとあって大いに喜び、楽毅を君に封じ、まだ降していない斉の定するように命じた。

の勢いをもってまずは斉の首都を陥落させた楽毅は、その後5年の短期間で斉の70余の攻略し、残るは湣王が籠もる莒と即の2都市を残すのみだった。

※この時、湣王は、援軍としてきたはずの楚軍の淖歯に暗殺され、大混乱に陥っていた。また即では、斉の救世主となる元祖火計の田単内にいた。

燕から趙へ

斉へのチェックメイトまで後1手となった楽毅だが、ここで重大な事態が発生する。

楽毅を厚遇していたの昭王がし、恵王が後継いだのである。

恵王は太子の時代に、臣の騎劫に吹き込まれて「楽毅は斉王になろうとしている」と・昭王に進言したものの、楽毅に絶大な信頼をおいている昭王から逆に打たれたことがあり、楽毅とは仲が悪かった。

楽毅と恵王の関係を知った斉の将軍田単は、

今度こそ楽毅は斉王になるつもりで、あと二を残したままにして斉の民の人気を得ようとしている。

と、い事い事をに送り込んだ諜報員を使って流言し、聞きつけたの恵王は、楽毅を召還して、騎劫を斉攻略軍の大将に据えた。

殺されるのを恐れた楽毅はに戻らず、以前、五カ国連合が組織された際に宰相の印綬をうけとっていた亡命し、望諸君として・斉・となる観に封じられた。

こうして最強の敵を葬り去った斉の田単は、情報戦を駆使して騎劫の軍勢の気の緩みを誘い、必殺の火計をもって軍を大混乱に陥れて打ち破り、破の勢いで奪われていた70余のを奪い返し、騎劫を戦死させて、斉から軍を全に駆逐した。

※しかしこの時の大ダメージが尾を引き、戦国時代の統一へと進んでいく。

自らの采配ミスを後悔した恵王は、亡命した楽毅をがに攻め込んでくるのではないかと恐れ、可であれば呼び戻したいと、

先王より兵権を与えられた楽毅将軍が、斉をを破ったことは下震撼せざるをえない功績であり、私は忘れる事はないだろう。
私が将軍と騎劫を代えたのは、将軍が長く軍の任にあったため休息を与えようとしたのであって、更迭召し返してから暗殺しようとかいう意図はなかった。
出来うるなら、先王の恩を思い返してもらいに戻ってきてはくれないだろうか。
それこそが先王の恩に報いる行為ではないのか。

との弁解の手紙を書いて楽毅に送ったが、楽毅は先王への思いと心った名文「の恵王に報ずるの書(報遺恵王書)」を送った。 

報遺燕恵王書

※原文は「中國哲學書電子化計劃(Chinese Text Project)exitの「楽毅列伝exit」より転載

※現代訳は「中華名将録exit」様より転載

臣不佞,不能奉承王命,以順左右之心,恐傷先王之明,有足下之義,故遁逃走。今足下使人之以罪,臣恐御者不察先王之所以畜幸臣之理,又不臣之所以事先王之心,故敢以書

私は不才にして大王の命を遵守する才なし。左右側近の方々はおそらく私が英邁なる先王の徳を穢したと思うことでしょう。それゆえ私はを辞し、へと逃れたのであります
いま王は使者を遣わしこれを罪状に私を責め立てますが、王の左右の臣たちは私が先王の寵をうけたことをもってこれを憎み、認めることはないでしょう。ゆえにあえて、書簡をもってお答えしたします。

臣聞賢圣之君不以祿,其功多者賞之,其之。故察授官者,成功之君也;論行結交者,立名之士也。臣觀先王之也,見有高世之心,故,以身得察。先王過,廁之賓客之中,立之群臣之上,不謀,以為卿。臣不自知,自以為奉承教,可幸無罪,故受不辭。

私が聞き及ぶところ、賢は信するものに私せず、功多きものはこれを賞し、あればこれを位に置くと聴いております。
ゆえにこれを考察するに才あらば官職を授けるのは、これすなわち功業の君たる人傑の行、論を行って交わりを結ぶのはこれすなわち立命の士。私はひそかに先王の挙動を拝見させていただきましたが、これまさしく世のの心の上に立たれるお方。ゆえに私はの符節を借りてに入り、みずから王に見え考察するところをったのであります
先王の過ちは私を幕下に加え、亜卿としたことであります。私は自らの明知の存量もわきまえず、ただ王命を奉じ教えを承れば、幸いにして罪しというべき。ゆえにあえて辞すことなかったのであります

先王命之:“有積深怒,不量弱,欲以為事。”臣:“夫,霸最勝之遺事也。練兵甲,習攻。王若欲伐之,必之。之,若結。且又北、地,楚之所欲也,若許約四攻之,可大破也。”先王以為然,具符節南使臣。顧反命,起兵擊。以,先王之,河北之地隨先王上。上之軍受命擊,大敗人。卒銳兵,長王遁走莒,僅以身免;珠玉財器盡器設,大呂陳元英,故反乎磿室,薊丘之植植,自五伯,功未有及先王者也。先王以為慊志,故裂地封之,使得小國諸侯。臣不自知,自以為奉命承教,可幸無罪,是以受命不辭。

先王は私に仰られました。「余は斉に対して恨み髄、しかし彼差を考えるにわがはあまりに弱小。どうすれば斉を滅ぼすことが出来ようか」と。
私はそれに対して「斉は桓覇業の名残で常勝の名残り残っております。私兵は訓練が行き届き、軍のことに習熟しております。大王がこれを伐ちたいと望むのであれば、まず下の諸侯と連合することが必須条件となりまましょう。まずはと結び、また北のの故地はかねてから楚、の狙うところでありますから、にこれと約定を結ばせて四国同盟を結ばせるに如かずであります。そうすれば斉を打破することも可となるでしょう。」と答えました。
先王はこれを認めたまい、符節を準備して南はへ私を送り届けたまいました。かくしてからの返事を持ち帰ったのち、先王は私を斉討伐の帥として派遣し斉を打たせたものです。と先王の霊威、河以北の軍は先王の霊威に従って済ほとりに集まり、斉ほとりで斉軍と突のすえこれを打ち破りました。私は精鋭を率いて長斉の都に攻め入り、斉王を莒まで逃走させその命を脅かし珠玉財宝宝を奪い取ってに送ったものです。
斉の器物は寧台に、大呂(鐘)は元英殿に陳列され、かつて斉に奪い取られた室宮に復旧され、斉の汶(斉の一部にのみ生える)も薊丘に移植されました。五覇以来、先王の功績は並ぶものはありません。
十分満足だったことでしょう。ゆえに私のために土地を割いて私を諸侯に並べてくださったのですが、私が身の程をわきまえずそれを受け入れたため、左右にそれを忌む気が出来上がったこと、これわが身の不徳のいたすところ。

臣聞賢圣之君,功立不廢,故著;蚤知之士,名成不毀,故後世。若先王之報恥,夷之彊之蓄積,及至棄群臣之日,教未衰,執政任事之臣,修法令,慎庶孽,施及乎,皆可以教後世。

また、私が聴くに賢明な君とは、「勲を立て荒した土地をなくし、にあるように、先見の明ある人は名をかせて瑕なく、ゆえに後世の賞賛を受ける」とあります。
先王は恥をすすぎに報じ、万両の戦車を誇る大敵を定なされて800年分の財宝を奪い蓄積し、そのご逝去なされた後も違、政策が衰えることはありませんでした。政治は大臣が管理し、法令明らかにし、嫡・庶の列をつまびらかにし、恩恵を民百姓にまで広くとどけたことはすべて後世の模範とすべきことであります

臣聞之,善作者不必善成,善始者不必善終。昔子胥闔閭,王遠跡至郢;夫差是也,賜之鴟夷浮之江。王不寤先論之可以立功,故沈子胥不悔;子胥不蚤見之不同量,是以至入江不化。

また聴くに、「よく創るものはまたよく完成を見ず、始めをよくするものは終わりをよくせず」という言葉もあります。
かつて子胥の言葉は王闔閭に届き、の軍は楚の首都郢まで攻め入りました。
しかし夫差は子胥を認めず、を授けて自させたのちその死骸は皮袋にくるまれて長江に鎮められました。
夫差は先王が子胥の言によって功業を為したことが理解できず、ゆえに子胥を長江深くへ沈めても後悔することがなかったのであります。子胥は子の器量の格差に気付くことができず、自分の言は夫差にも用いられると信じたゆえに死を賜るまで言を曲げることがありませんでした。

夫免身立功,以明先王之跡,臣之上計也。離毀辱之誹謗,墮先王之名,臣之所大恐也。臨不測之罪,以幸為利,義之所不敢出也。

これに対して私は建業功業の災禍に見舞われることなく、賢明なる先王に仕えて功業に一臂のを添えることが出来たこと、まさに人生の上策。しかし誹りにあって偉大なる先王の名誉を汚したことは大いなる禍根であります
思いもかけぬ罪で疑いを受けながら、僥倖を持って利を得ようとは義的に出来ることではありません。

臣聞古之君子,交不出;忠臣去,不絜其名。臣雖不佞,奉教君子矣。恐御者之左右之,不察遠之行,故敢獻書以聞,君王之留意焉。

また古の君子は交わりを立ってもその悪らず、忠心はを離れても自己の名を汚さず、と申します。
私は君子ではありませんが、しばしば君子に訓を受けております。
私が恐れるのは王が左右臣たちの妄寧に心を曇らすことであり、疎遠な者を察せなくなるようになるのであります。これに関して返書をしたためますのでこれを王が心に留め置かれるのであれば幸いです。

燕と趙の重臣へ

の昭王の厚遇に対して義を通そうとし、亡命したのは、罪人にされると自らを抜した昭王の顔に泥を塗り、昭王の名を辱めることになるからと言う楽毅の思いを知った恵王は、楽毅が軍を率いて攻め込んでくることはありえない事を理解し、楽毅の子・楽間に君の位を継承させた。

楽毅はその後、の間を行き来するようになり、両国から政治顧問たる客卿の待遇を受け、にてしたと言われている。

その他「楽毅」の詳細についてはWikiepdiaの該当記事参照の事。exit

楽毅そしての恵王の死後、は喜王の代となった際に、白起の活躍と、趙括大先生(笑)の大ポカでを疲弊すると、の宰相のは「を討伐するなら今」と進言したが、楽毅の子・楽間は「周囲を囲まれた兵士だけでなく民も戦争を習熟しているので侮れない」としてへの遠征に反対した。

しかし喜王は楽間の諌めを聞き入れずにに遠征し、もてこずった老将「廉頗」に撃退され、楽間も亡命した。

・恵王同様、楽間に帰還を願う手紙を送った喜王だったが、楽間は拒否し、王二代で同じ過ちを繰り返した。 

関連動画

▼楽毅が率いた五国連合をもとにした替え歌歴史シリーズ

▼楽毅のことが良く解る歴戦文化祭動画「楽毅と田単

▼楽毅とのの田楽コンビを組んで衛懿(ツルマル)をサポートする「戦国三国志

 

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