榎本武揚(1836~1908)とは、幕末に活躍した幕臣、明治時代に活躍した政治家である。
戊辰戦争の総仕上げである函館戦争にて、土方歳三らを率いて旧幕府軍の総指揮を執ったことで有名な人。その後新政府の重職も歴任したことでもおなじみ。
新規旗本。官位は和泉守。通称は釜次郎。妻は幕府奥医師・林研海の娘・林たつ。
榎本家は代々徒士を務めた御家人家で、さらに言えば榎本武揚の父・箱田良助は備後国安那郡箱田村の郷士で、榎本家の株を買って養子入りした人物(ちなみにこの箱田良助、高橋景保や伊能忠敬に師事しており、伊能忠敬の測量にも同行している)。かくして榎本円兵衛となった箱田良助は、天文方に出仕したのち、勘定に昇進して旗本家になった。この榎本円兵衛の次男が榎本武揚である。
榎本武揚は幼少期から学才を示し、昌平坂学問所や中浜万次郎の英語塾などで大鳥圭介らと学んでいった。安政3年(1856年)に長崎海軍伝習所に二期生として入学し、勝海舟らから航海術・化学・国際情勢などを学んで、安政5年(1858年)に軍艦操練所の軍艦操練教授方出役に任じられている。
文久元年(1861年)になると軍艦組出役となって、文久2年(1862年)になるとオランダへ留学。幕府がオランダに発注した軍艦「開陽」に乗って慶応3年(1867年)に帰国。直ちに軍艦役、次いで軍艦頭並、さらには軍艦頭となって、幕府艦隊旗艦開陽の艦長も務めた。なお榎本家自体は兄の榎本勇之丞が継いでおり、この頃榎本武揚は別家を創立している。
戊辰戦争直前に一気に重臣に引き上げられた榎本武揚は、実質的に幕府海軍の指揮官となっており、明治元年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでの敗戦で江戸に戻った徳川慶喜に、海軍副総裁に任じられる。しかし幕府の恭順方針に反発して艦隊を率い北上。仙台で旧幕府陸軍を吸収すると、箱館に上陸する。
このころ箱館奉行所は新政府に明け渡されて箱館府がおかれていたが、これを攻略。五稜郭を拠点として蝦夷島総裁に任じられる。新政府に対して徳川家・旧臣に対する蝦夷地の割譲を要求するも、明治2年(1869年)に敗北。榎本武揚は『海律全書』を敵営に届けたのち切腹を試みるが、ちょうどいた大塚霍之丞に止められて未遂に終わり、ついに降伏。黒田清隆による赦免運動で処刑を免れ、明治5年(1872年)に釈放された。
この後開拓使長官だった黒田清隆のブレーンとなって各職を歴任し、明治18年(1885年)に初代内閣の逓信大臣に就任。以後も歴代の内閣で大臣職を歴任した。なお、政府では恩人・黒田清隆の盟友として薩摩藩閥の一翼を担った一方、旧幕臣の象徴であることから、明治22年(1889年)の江戸開府三百年祭では会長を務め、日光東照宮保存のために組織された保晃会、旧幕臣の互助・親睦会である旧交会・同方会、旧幕臣の教育のために結成された静岡育英会でも会長を務めた。また、静岡育英会を母体に育英校・私立東京農学校(後の東京農業大学)を設立し、校主を務めている。
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