権藤博(1938年12月2日~)とは、中日ドラゴンズに所属していた元プロ野球選手(投手・内野手)であり、横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)を監督として優勝に導いた人物でもある。
また、投手コーチとしては近鉄バファローズ・福岡ダイエーホークス・中日ドラゴンズに所属していた。
2016年から野球日本代表の投手コーチを務める。
OB | |
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権藤博 | |
基本情報 | |
出身地 | 佐賀県鳥栖市 |
生年月日 | 1938年12月2日 |
身長 体重 |
177cm 73kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手、三塁手、遊撃手 |
プロ入り | 1961年 |
引退 | 1968年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高校時代は三塁手としてプレーしていたが、三年生時に投手に転向、甲子園には縁が無かったもののその身体能力を評価され、九州の社会人野球のノンプロであるブリヂストンタイヤに入社、ここで当時西鉄ライオンズのエースだった稲尾和久に憧れてフォームを改造。その結果「稲尾よりも豪快」と言われる程のフォームを完成させ、社会人ではほぼ敵なしという投球を披露しプロから注目を集め、巨人と中日が獲得を争ったが、当時の中日の監督でありかつてブリヂストンと同じく九州のノンプロである日鉄二瀬の監督を務めていた濃人渉の説得が決め手となり、権藤は61年に中日に入団する。
入団後、濃人監督の期待の表れか、かつて中日のエースであった杉下茂が着けていた背番号20を与えられる。
その期待に権藤は答えるため、オープン戦では28.1回を投げて自責点はわずか1点というルーキーとは思えぬ快投を見せて一軍の切符を勝ち取ると、開幕投手こそゆでたまご板東英二に譲ったものの、初登板の巨人戦ではいきなり9回1失点完投で初勝利を挙げ、中継ぎ登板を挟み二試合連続で完投勝利、ここから徐々に登板数が増えていき5月28日から6月4日にかけては6連投と早くもチームのエースピッチャーの座に収まる。
ただ連投の代償か、6月初めに肩痛を発症してしまった他、好投しても打線とかみ合わなかったこともあり4月・5月では計4敗だったが6月半ばで3敗を記録してしまう。
しかし季節が梅雨入りを迎えると雨で試合が中止になることもあり、これが権藤にとって貴重な休養期間となる。
6月24日には大洋戦で11回1失点で完投勝利を挙げると、雨の影響で次の登板が7月1日まで延び、7月4日から7月15日までの期間は雨か移動日か権藤が先発するという事態になったため、この状態を表した言葉として「権藤・権藤・雨・権藤」という流行語が生まれた。(なおこの言葉は権藤が入団する前年の60年に新人王を獲得した堀本律夫が新聞記者との雑談中に「中日には権藤しか投手がおらんのか?権藤、雨、旅行日、権藤、雨、権藤や」と発言したことがきっかけと言われている。)
結局権藤は7月末から8月半ばまでには6試合連続完投を記録するなど凄まじい勢いで投げまくるが、中日は勝利数では巨人を上回ったものの、勝率で巨人を下回ってしまったため権藤の力投もむなしく優勝することは出来なかった。
権藤はこの年チーム試合数130の半分を超える69試合に登板し、429と1/3回を投げ、新人最多記録となる35勝を挙げ、防御率1.70と310奪三振はいずれもこの年一位、さらに新人王と沢村賞を同時受賞するなどタイトルを総なめにした。ちなみにシーズン400投球回はこの年の権藤と稲尾和久を最後に現れていない。
翌62年は前年の疲労が抜けきらぬ中でも投げ続け、61試合に登板し362と1/3回を投げて30勝を挙げ、二年連続最多勝利を記録するが、この過酷な登板で権藤の肩は限界を迎えてしまい、63年は10勝、64年はわずか6勝に終わってしまう。
65年からは打者に転向し67年には最多犠打を記録し、サヨナラホームランを放つなどの活躍を見せるが、結局レギュラーに定着することは叶わず、68年には再び投手に戻るものの、かつての球威は戻ることはなくこの年限りで引退した。
引退後は、ゴルファー・サラリーマン・ラジオ解説者などを経て、73年に中日の二軍投手コーチに就任、当初は二軍の選手たちがミスを繰り返すたびに怒鳴り散らしていたが、アメリカのルーキーリーグの練習を見学しに訪れた際に「どんな下手な選手でも平等に教える」・「選手に必要以上に教えずに自分の体で覚えてもらう」という考えに感銘を受け、以後は選手の自主性を重んじるようになった。
二軍コーチは80年まで務め、81年からは一軍投手コーチとなり82年には権藤が現役の時の投手コーチであった近藤貞雄監督の元でリーグ優勝に貢献、83年までコーチを務めた。
中日退団後は解説者を経て88年に近鉄バファローズの投手コーチに就任するが、当時の監督であった仰木彬が投手のプライドを軽んじるかのような采配を繰り返した(当時近鉄に所属していた加藤哲郎によれば、勝利投手の権利を手にする寸前に「打たれてもいないのに」交代を告げるなど)ため、これに怒った権藤はわずか二年で近鉄を退団した。
91年から93年までダイエーにて一軍投手コーチを務め、97年には横浜ベイスターズのバッテリーコーチに就任する。
そして98年には監督を退任した大矢明彦の後を受けてベイスターズの監督に就任、コーチ時代同様に選手の自主性に任せる方針で指揮を執っていたため、基本的にバントのサインを出さなかったり、強制的な練習をやらせなかった。
また自身を監督ではなく「権藤さん」と呼ぶように選手はおろかマスコミにも命じていた。
この方針が吉と出たのかこの年のベイスターズはバント・エンドランなどをあまり用いずに積極的に打ちまくり、石井琢朗やロバート・ローズなどに引っ張られたこの年の打線は「マシンガン打線」と称され、バッテリーコーチ時代から鍛え上げた投手陣は三浦大輔・野村弘樹・斎藤隆がローテーションを守って二桁勝利を挙げ、「ヒゲ魔神」五十嵐英樹や「小魔神」横山道哉の中継ぎ陣、そしてこの年MVPに輝いた「大魔神」こと絶対的な守護神である佐々木主浩の活躍で見事就任一年目にして横浜を38年ぶりに優勝に導き、日本シリーズでは西武相手にマシンガン打線が打ちまくり、特に第五戦では20安打17得点と西武投手陣を滅多打ちにするなど、最終的に4勝2敗で日本一にも輝いた。
横浜の監督は2000年まで3年間務め一度もBクラスに落ちることのないまま退団(2014年現在、前身球団を含め横浜の監督在任中にBクラス経験のない監督は権藤のみ)。その後は野球評論家として活動していたが、2012年に29年ぶりに中日ドラゴンズの投手コーチに復帰する。なおこの時の選手名鑑の写真が今にも倒れそうと一部で心配された。
シーズン中は監督である高木守道と言い争う姿が度々目撃されていたが、若手を積極的に起用し、山井大介を救援に回すなどしてチームのリーグ2位に貢献したが、シーズン終了後にコーチの若返りを理由に退団、一部で高木監督との確執が原因と言われたが、権藤自身は「わだかまりはない」とのこと。その割には解説やコラムで高木守道を批判しているようなことが多いような・・・
現役期間は短かったが、前述のように稲尾和久への憧れから権藤はフォームから普段の歩き方まで稲尾の真似をし、さすがに鉄腕までは模倣出来なかったがその豪快なフォームから繰り出される快速球と縦に割れるカーブを武器にわずか2年とはいえ圧倒的な成績を残した。
また権藤の現役時代の投手コーチでのちに中日・横浜などで監督を務めた近藤貞雄は権藤の登板過多を目にしたことで投手分業制の必要性を痛感し、82年の優勝時には中日の投手コーチとなっていた権藤と共にそれを確立させた。
コーチとしては球界関係者からも高く評価されており、江夏豊には中西太と共に名コーチの代表と言われた。
またコーチの立場であっても監督に対してストレートに物を言うため、上述のように仰木彬や高木守道のような我が強い人物と対立することも珍しくない、一方選手には慕われており、横浜時代は外国人選手であったロバート・ローズに「最高のボス」「権藤が監督の内は引退を考えない」とまで言われた。
ただし例外もあり、特に駒田徳広とは非常に仲が悪く(詳しくは駒田徳広の記事参照)とある試合で右投手に対し、左打者であった駒田に右打者である中根仁を代打に送り、この采配に激怒した駒田が試合中にもかかわらず帰宅するという事態が発生、結局駒田はこの年限りで横浜を退団することとなる。
さて、現役時代の権藤博を語る上で欠かせないことと言えば、上述した「権藤・権藤・雨・権藤」であるが、実際にはどのくらい雨でどのくらい権藤であったかをここに記すこととする。
全試合及び全登板の記録を書くのはしんどいのでごく一部に留めるとする。また登板は中継ぎとしての登板も含む。
日時 | スコア | 投球回 | 対戦相手 | 備考 |
4/12 | 雨天中止 | |||
4/13 | ○4-3 | 1回 | 大洋 | 中継ぎ登板 |
4/14 | なし | |||
4/15 | 雨天中止 | |||
4/16 | ○5-1 | 9回 | 国鉄 | 先発完投 |
日時 | スコア | 投球回 | 対戦相手 | 備考 |
5/16 | 雨天中止 | |||
5/17 | ○1-0 | 9回 | 阪神 | 先発完封 |
5/18 | 雨天中止 | |||
5/19 | なし | |||
5/20 | 雨天中止 | |||
5/21 | ○3-1 | 4.2/3回 | 広島 | 中継ぎ、交代完了、ダブルヘッダー |
5/21 | ○3-1 | 3.2/3回 | 広島 | 中継ぎ、交代完了、ダブルヘッダー |
日時 | スコア | 投球回 | 対戦相手 | 備考 |
5/28 | 0-4● | 6回 | 国鉄 | 先発登板 |
5/29 | なし | |||
5/30 | ○4-3 | 2回 | 阪神 | 中継ぎ、交代完了 |
5/31 | ○6-3 | 5.1/3回 | 阪神 | 中継ぎ、交代完了 |
6/1 | ○5-4 | 2回 | 阪神 | 中継ぎ、交代完了 |
6/2 | なし | |||
6/3 | ○2-1 | 1回 | 国鉄 | 中継ぎ、交代完了 |
日時 | スコア | 投球回 | 対戦相手 | 備考 |
6/10 | 9-10● | 2回 | 巨人 | 先発登板 |
6/11 | 0-1● | 8回 | 巨人 | 先発完投、ダブルヘッダー |
6/11 | 3-3△ | 4.1/3回 | 巨人 | 中継ぎ、交代完了、ダブルヘッダー |
6/12 | なし | |||
6/13 | 4-7● | 8回 | 大洋 | 中継ぎ、交代完了 |
6/14 | 雨天中止 |
日時 | スコア | 投球回 | 対戦相手 | 備考 |
6/24 | ○2-1 | 11回 | 大洋 | 先発完投 |
6/25 | 雨天中止 | |||
6/26 | なし | |||
6/27 | 雨天中止 | |||
6/28 | 雨天中止 | |||
6/29 | 雨天中止 | |||
6/30 | なし | |||
7/1 | ○3-0 | 9回 | 大洋 | 先発完封 |
日時 | スコア | 投球回 | 対戦相手 | 備考 |
8/27 | ○3-2 | 9回 | 阪神 | 先発完投、ダブルヘッダー |
8/27 | ○1-0 | 2.1/3回 | 阪神 | 中継ぎ、交代完了、ダブルヘッダー |
8/28 | なし | |||
8/29 | 2-4● | 3回 | 国鉄 | 中継ぎ、交代完了 |
8/30 | ○6-4 | 10回 | 国鉄 | 先発完投 |
日時 | スコア | 投球回 | 対戦相手 | 備考 |
9/10 | ○3-1 | 9回 | 国鉄 | 先発完投 |
9/11 | なし | |||
9/12 | ○3-1 | 4回 | 巨人 | 中継ぎ、交代完了 |
9/13 | 雨天中止 | |||
9/14 | 雨天中止 | |||
9/15 | なし | |||
9/16 | 雨天中止 | |||
9/17 | 0-2● | 8回 | 大洋 | 先発完投、ダブルヘッダー |
9/17 | 3-4● | 3.1/3回 | 大洋 | 中継ぎ、交代完了、ダブルヘッダー |
9/18 | ○3-2 | 0.1/3回 | 大洋 | 中継ぎ、交代完了 |
9/19 | 1-7● | 4回 | 巨人 | 先発 |
年度 | 球団 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1961年 | 中日 | 69 | 32 | 12 | 35 | 19 | -- | -- | .648 | 429.1 | 70 | 310 | 97 | 81 | 1.70 | 0.91 |
1962年 | 61 | 23 | 6 | 30 | 17 | -- | -- | .638 | 362.1 | 69 | 212 | 108 | 94 | 2.33 | 1.04 | |
1963年 | 45 | 9 | 0 | 10 | 12 | -- | -- | .455 | 220.2 | 79 | 88 | 105 | 94 | 3.83 | 1.29 | |
1964年 | 26 | 3 | 0 | 6 | 11 | -- | -- | .353 | 105.1 | 45 | 47 | 53 | 49 | 4.19 | 1.42 | |
1968年 | 9 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 18.1 | 11 | 10 | 23 | 22 | 10.80 | 2.35 | |
NPB:5年 | 210 | 67 | 18 | 82 | 60 | -- | -- | .577 | 1136.0 | 274 | 667 | 386 | 340 | 2.69 | 1.10 |
年度 | 球団 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1961年 | 中日 | 70 | 163 | 144 | 18 | 31 | 7 | 0 | 1 | 8 | 1 | 13 | 0 | 6 | 0 | 24 | 4 | .215 | .247 |
1962年 | 61 | 130 | 117 | 10 | 25 | 5 | 0 | 4 | 13 | 0 | 8 | 1 | 4 | 0 | 19 | 3 | .214 | .238 | |
1963年 | 49 | 83 | 76 | 8 | 18 | 5 | 0 | 3 | 8 | 0 | 3 | 0 | 4 | 0 | 12 | 2 | .237 | .275 | |
1964年 | 29 | 39 | 38 | 3 | 7 | 2 | 0 | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 5 | 1 | .184 | .205 | |
1965年 | 81 | 212 | 196 | 28 | 39 | 11 | 0 | 3 | 18 | 3 | 2 | 0 | 14 | 0 | 24 | 3 | .199 | .252 | |
1966年 | 54 | 198 | 179 | 17 | 32 | 7 | 1 | 1 | 7 | 2 | 4 | 1 | 12 | 2 | 28 | 0 | .179 | .237 | |
1967年 | 107 | 331 | 288 | 34 | 62 | 8 | 3 | 5 | 27 | 6 | 26 | 4 | 11 | 2 | 50 | 3 | .215 | .246 | |
1968年 | 12 | 3 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .000 | .000 | |
NPB:8年 | 463 | 1159 | 1041 | 119 | 214 | 45 | 4 | 18 | 85 | 12 | 56 | 6 | 52 | 4 | 163 | 17 | .206 | .245 |
通算:3年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 407 | 219 | 186 | 2 | .541 | Aクラス3回 |
掲示板
20 ななしのよっしん
2022/03/05(土) 19:57:30 ID: 9Hm2NG5Sxm
槙原のYouTubeで見たが、レジェンド級の大投手なのに某張本や某金田と違い
「自分が現役の頃は打者のレベルが低かった」「時代に合わせて指導法を変えていかないと」「たぶん、球速はMAX149km」
と謙虚な姿勢なのが凄い
そりゃ監督やコーチ時代に選手から慕われるわけだわ
21 ななしのよっしん
2022/12/21(水) 20:42:54 ID: THsm9Mo8AY
>>20
金田さんの発言をほとんどまともに読んだことが
ないのに「ワシは180km/h」とかのギャグを本気
に受け取ってアンチしてる恥ずかしい子。
22 ななしのよっしん
2024/09/30(月) 16:17:14 ID: VY29iLXERN
立浪のことをボロカス言ってんな
ここまで相当腹に据えかねてたんだろう
むしろよく言ってくれたという感じでもある
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最終更新:2025/04/01(火) 03:00
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