樺(橘型駆逐艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した改松型/改丁型/橘型駆逐艦13番艦である。1945年5月29日竣工。終戦後は復員輸送任務に就き、アメリカに引き渡された。
艦名の由来はブナ目カバノキ科カバノキ属の落葉高木の総称。特にシラカンバ(白樺)を指す。樺の名を冠する艦は本艦で二代目(初代は樺型駆逐艦1番艦樺)。
木材としてはイマイチだが、薄く紙のように剥げる樹皮が高原の美しい景観を構成する。また伐採地や山火事跡、雪崩道などの裸地にいち早く進入して緑化する生態を持つ、言わば先駆樹種の一種であり、生長も速いのだが、寿命は70~80年程度と樹木の中では非常に短命。このため大木になるまで育つシラカンバは稀である。
樹液は「天然の医療品」と呼ばれるほど栄養が豊富で直接飲む事が可能。ただし1本のシラカンバから採れる量は100リットル程度、採取期間も雪解け時期のたった二週間だけと希少価値が高い。
戦前、大日本帝國海軍は仮想敵アメリカに対し数の不利を覆すため、性能を重視する個艦主義を掲げて突き進んできた。しかし、大東亜戦争が勃発すると想像以上の早さで艦が失われ、特にガダルカナル島を巡るソロモン諸島の戦いで多くの艦隊型駆逐艦を喪失し、短時間での大量生産が困難な艦隊型駆逐艦より、安価で大量生産が可能な中型駆逐艦が必要だと痛感。
1943年4月に軍令部次長から提出された戦時建造補充計画(通称マル戦計画)において、建造に時間が掛かる秋月型の建造を全て中止し、代わりに戦時急造に適した松型駆逐艦が量産される事になった。松型は起工から竣工まで半年という驚異的な早さで誕生するが、それでも国力に富むアメリカ相手では足りないと判断し、夕雲型の建造計画を全て廃止して、1944年3月より松型を更に簡略化した改丁型(橘型)の設計に着手する。
改丁型に求められたのは徹底的な工期の短縮。まず参考にしたのが既に簡略化が進んでいた一等輸送艦、鵜来型海防艦、丙型海防艦、丁型海防艦であった。鵜来型同様シアーを廃した直線状の船体を採用、艦尾も垂直にバッサリ切り落としたかのようなトランサム型にし、船体装甲をDS鋼から入手が容易な軟鋼に変更(松型のシアーや上甲板に使われていたHT鋼さえも軟鋼に統一)、二重船底を単底構造に改め、手すり柱のメッキ加工省略やリノリウムの使用を全面廃止、松型では部分的にしか使われていなかった電気溶接やブロック工法といった新技術を本格的に投入するなど涙ぐましい努力を重ね続け、松型の工数約8万5000から約7万に削減。建造期間は僅か3ヶ月にまで圧縮された。一方、松型の長所だった機関のシフト配置は建造の手間が増える事を承知で受け継がれ、被弾しても航行不能になりにくくしている。
船体は簡略化したが水測装備は戦訓を汲んだ本格仕様となった。何かと性能が貧弱だった九三式探信儀と九三式水中聴音機を、ドイツから持ち帰った技術が結実した高性能の三式探信儀と四式水中聴音機に換装。対空能力の強化にも力を入れ、13号対空電探、22号水上電探、九七式2メートル高角測距儀を建造時より搭載、輸送任務を見越して小型発動艇2隻と6メートルカッター2隻も積載しており、対潜・対空に優れる戦況に即した能力を手にした。速力の低さが唯一の泣き所だったものの、戦時急造型にしては意外なほど高性能を発揮したという。
福井静夫元少佐の著書『写真集:日本の軍艦』には「性能良く被害に対して強靭、その兵装適切、簡易船ながら成功した艦である」と綴られている。
要目は排水量1350トン、全長100m(回天母艦改装後は全長104m)、全幅9.35m、出力1万9000馬力、乗組員211名、最大速力27.3ノット、重油積載量370トン。兵装は40口径12.7cm連装砲1門、同単装砲1基、61cm四連装魚雷発射管1門、25mm三連装機銃4門、同単装機銃8基、九四式爆雷投射機2基。電測装置は22号水上電探、四式水中探信儀、三式探信儀一型。
1943年2月、改マル五計画の追加が行われ、丁型一等駆逐艦第5500号艦の仮称で建造が決定。1944年2月15日に建造費932万6000円が捻出される。計画上では松型駆逐艦として建造する予定だった。
1944年10月15日、藤永田造船所にて丁型一等駆逐艦第5500号艦の仮称で起工、12月8日に駆逐艦樺と命名され、1945年2月27日進水、3月1日、藤永田造船所内へ艤装員事務所を設置し、野尻雅一大尉が艤装員長に着任。3月13日深夜から3時間半、延べ505機のB-29が大阪の中心市街地を徹底的に盲爆(第一次大阪大空襲)、3987名の死者を出したが、幸い樺の建造が進められている藤永田造船所は軽微な被害で済んだ。
5月28日午前8時30分、竣工を待たずして大阪を出発、播磨灘沖で過負荷全力後進による速力公試を実施するが、13時14分、小豆島妙見埼56度2.7海里沖を16ノットで航行中、艦尾から約100m先で機雷が爆発して小破、18時30分に四ヶ島で仮泊、呉へ回航して、5月29日14時に竣工・引き渡しとなった。初代艦長に野尻大尉が着任するとともに舞鶴鎮守府へ編入され、訓練部隊の第11水雷戦隊に部署する。
それから間もない6月1日午前、509機のB-29が大阪湾沿岸部を爆撃(第二次大阪大空襲)、この空襲により藤永田造船所の本社工場や生産設備が壊滅してしまった。したがって樺は藤永田造船所が最後に竣工させた艦、また同造船所で建造された唯一の改丁型駆逐艦だった。樺が56隻目の最後の駆逐艦となった訳である。ちなみに同じ改丁型の第5495号艦の予定艦名は樺だとする説があり(他には真竹、呉竹、葛がある)、この艦は1945年3月19日に横須賀工廠で起工したものの、1ヶ月も経たないうちに建造中止となっている。
呉まで回航した樺であったが、艦長以外の辞令が成されていない事から、機関長、水雷長、航海長などの将校が全く配備されていない可能性が高く(第11水雷戦隊戦時日誌にも樺の乗組員の内訳が記載されていない)、したがって、まともに戦闘能力を持っていなかったと思われる。戦争末期特有の人手不足が樺に重くのしかかる。
呉軍港内で損傷を調査したところ、補音器室に浸水、漏水により接続筐及び補音器28個不良、三式探信儀送波器乙絶縁などの不具合を確認。入渠するまでは自力での整備を行う。
第11水雷戦隊は、樺と初梅に対して、特令あるまで現地での整備及び単独訓練に従事するよう命令。というのも、第11水雷戦隊は機雷敷設によって訓練地に適さなくなった瀬戸内海西部を放棄、福井県の小浜湾に退避しており、樺が呉に来た頃には既に戦隊はいなくなっていて、合流など望むべくもない状況だったのだ。深刻化する燃料不足や機雷封鎖も樺の行動に制限を課した。
ちなみに第11水雷戦隊戦時日誌には「13時14分、北九州市妙見埼沖67海里を16ノットで航行中、艦尾約100mにて機雷が爆発して小破」という旨の電文を打ったと記載されているが、樺自身は大阪出発後ずっと呉に留まっていて、北九州方面には一度も行っておらず、電文の内容と矛盾している。おそらく小豆島の妙見埼と勘違いしたのだろう。
6月3日、樺同様に呉で取り残されていた僚艦榎が小浜湾に向けて出発。第11水雷戦隊で呉方面に残留している艦は樺のみとなる。6月20日より呉工廠に入渠して損傷の修理を開始。
6月22日午前9時31分から午前10時43分にかけて、162機にも及ぶB-29が呉海軍工廠を盲爆。投下された爆弾は1289発(796トン)に上った。これは造兵部を狙った爆撃で、建物の破壊を企図して250kg、500kg、1トン爆弾が使われたが、流れ弾が工廠に隣接する宮原・警固屋地区、安芸郡音戸町、そして軍港内に停泊中の艦艇にも降り注ぐ。
入渠中の樺は当然身動きが取れない。もし1トン爆弾が直撃すれば粉砕は免れない。同じく入渠中だった姉妹艦椎の乗組員曰く、投下される爆弾が次々と自分の上に落ちてくる錯覚を覚えたという。
この空襲で工廠関係者1900名が死亡、呉工廠の屋根面積72%に損害が及び、建造中の伊204と伊352が撃沈され、姉妹艦の楡(橘型駆逐艦)に250kg爆弾が直撃して中破する被害が発生したものの、樺が入渠中の造船部は奇跡的に無事だった。6月26日出渠。
6月30日に完成したばかりの試装四式電波探知儀三型を搭載。7月1日、樺の今井航海長が大竹の潜水学校の高等科学生に転籍。いつ頃かは不明だが樺にも航海長が配備されていたようだ。
7月2日午前0時2分から午前2時5分までの間、152機のB-29が呉市街地に16万454発/1081トンの焼夷弾を投下。2000名以上の市民が犠牲となった。呉市街地が焼き払われる様子や、投下された焼夷弾が火を噴きながら落下していく様子は、軍港内に停泊中の艦艇からもよく見えたという。発砲可能は艦艇は応戦したが砲を動かす人がいない樺には何も出来なかった。無力感に打ちひしがれる樺に転機が訪れる。
7月15日、特殊警備艦となった楡から全乗組員が樺に転属し、艦長下田隆夫少佐、水雷長高橋忠男大尉、砲術長木村功大尉、航海長鈴木彊大尉、機関長片岡久一機関特務中尉が着任。渇望した人員がようやく配置されたのだ。脱落した楡の代わりに第31戦隊第52駆逐隊(杉、樫、楓、梨、萩)へ転属。
第31戦隊は、本土決戦を見越して編制された海上挺進部隊に部署していた。内海西部の祝島を中心に180海里圏内を行動範囲とし、侵入してきた敵艦隊に対し、戦隊所属の駆逐艦は可能な限り近づいた上で回天による夜戦を仕掛け、回天発進後は通常魚雷で輸送船団を攻撃する手はずとなっていた。
このような運用思想から樺は艦尾に回天1基の搭載設備を装備。後甲板中心線上に爆雷投射機をまたぐ形で鉄製架台を設け、艦尾水線上にスロープを溶接、木製の台に回天を載せ、発進の際は架台から滑り落とすという仕組みである。ただ先に改装を受けた北上や波風のものと違って、松型/橘型のものは簡易的なものだった。デリックを持っていないため自力での回天搭載も不可能である。余談だが、松型及び橘型駆逐艦で回天母艦への改装がハッキリと分かっているのは樺、椎、梨、榧の4隻のみ。
戦力温存のため、呉鎮守府は海上挺進部隊に擬装命令を出す一方、訓練不足の第52駆逐隊と姉妹艦椎には訓練が命じられ、山口県南部で細々と訓練を行う。回天は駆逐艦だけでは搭載出来ないので、第二特攻戦隊の光基地や平生基地でクレーン船を使って積載。7月22日より梨、椎、萩とともに平生沖で第二特攻戦隊との合同訓練を開始した。
回天を発進させる際はストッパーを外してからロープで艦首方向に引っ張ってあげないと、上手く架台から滑り落ちなかったらしく、惰性の付きにくい短い発射台しか持たない駆逐艦からの発射にはとても難儀したという。加えて発進時は、回天に追突されないよう24~27ノットの高速で直進する必要があったのだが、実際に発射してみると、着水時の衝撃による機器の損傷や、駆逐艦の艦尾波、プロペラ後流に翻弄されて姿勢制御が困難になるといった問題も表面化。一方で搭乗員側は「ふんわりと着水した感じで衝撃は全然なかった」と語っている。
樺は回天の襲撃目標艦も務めた。回天搭乗員によると航行艦への襲撃は大変難しく、しばしば目標艦の前方を横切って外れてしまう事があった他、駆逐艦の乗組員から見ても「発見までに時間は掛かるが、一度潜望鏡を発見してしまえば、その後の針路を把握され、速度も思いのほか遅かった」と評価している。命中判定を得るには駆逐艦の艦底下を通過する必要があった。また訓練中は事故も多発したようで、時には射点沈没や大偏射による行方不明者も出た。
7月24日、呉方面に空襲警報が発令。米機動部隊が1450機の艦上機を放って西日本の飛行場と船舶を攻撃しに来たのである。敵機の多くは主力艦艇が停泊している呉に向かった一方、平生方面にも敵機が襲来し、樺は萩とこれを迎え撃つが、小型爆弾1発が命中して戦死者35名を出し、魚雷発射管が使用不能となる。熾烈な空襲は翌日も続き、950機もの敵艦上機が再び西日本に襲来。訓練中の海上挺進部隊は対空砲火で応戦し撃墜を記録した。7月26日、空襲の間隙を縫いながら、平郡島畑尻鼻沖で萩、椎、梨と訓練を実施。
7月28日、2532機の敵艦上機が西日本方面に襲来、今度の攻撃にはB-24などの大型機も混じっており、瀬戸内海の船舶を殲滅するべく集中攻撃を実施、数次に渡る航空攻撃で僚艦の梨が撃沈された。
7月30日、連合艦隊は呉鎮守府に対し、海上挺進部隊に搭載させるための回天25基を準備するよう指示、搭乗員には各回天基地の教官教員が充てられた。8月1日夜、伊豆大島の見張りが「アメリカ軍の輸送船団が北上中」と通報、22時41分に海上総隊が警戒を下令し、海上挺進部隊の各艦にも即時待機の命令が下されて出撃準備を開始するも、夜光虫を見間違えた事による誤報と判明。後の世に言う大島誤報事件である。
その後、擬装を施して息を潜める樺であったが、先の呉軍港空襲で主要艦艇が軒並み撃沈、または転覆させられてしまい、防空砲台が不足してしまったため、樺、椎、萩の3隻に呉で防空任務に就くよう指示が下った。軍港内でこの3隻で三角陣を組んで警戒任務に従事する。この頃になると、毎朝午前8時半頃にP-38などの敵戦闘機が2機編隊で現れ、適当に目標を見繕って機銃掃射を加えていくという通り魔的な攻撃が行われていたが、反撃すると必ず執拗な反復攻撃を受けるので対空射撃は控えられていた。
8月11日午前10時頃、P-51戦闘機14機が呉軍港に来襲。速度の速い敵機だったため空襲警報が間に合わず完全な奇襲となってしまう。樺は機銃掃射を浴びて損傷した。
8月15日の終戦時、呉にて残存。戦闘可能だったのは樺を含む駆逐艦30隻、潜水艦54隻、軽巡酒匂、空母鳳翔だけで、海軍全体で見ても使用できる船舶は132隻(18万トン)程度しか残っていなかった。終戦に伴って軍港内の艦艇が一斉に軍艦旗を降下、ラッパを鳴らしながら総員敬礼のうちに奉焼、死にゆく帝國海軍を弔った。
10月5日除籍。
凄惨を極めた未曾有の戦争は終わった。だが外地には軍人や邦人など約630万人が広範囲に渡って取り残され、彼らの帰国が急務となっていたものの、これまでの戦闘で商船は壊滅状態であり、代わりに生き残った戦闘艦艇を使った復員輸送が提案される。航行可能状態だった樺は武装解除、居住区の拡張、厠の増設、舷側に「KABA」と記入するなどの改装工事を受けた。そして12月1日より特別輸送艦に指定。多くの兵に祖国の地を踏ませた。
復員輸送任務が一段落すると今度は特別保管艦となって横須賀に係留。大した海軍力を持たない中華民国とソ連の強い働きかけにより、特別保管艦を米・英・中・ソの四ヵ国に抽選で振り分けた結果、樺はアメリカが獲得する事に。だが既に強大な海軍力を持つアメリカにとって賠償艦など無用の長物であった。このため1948年8月4日、佐世保でアメリカに引き渡されるも、即日日本に売却され、10月8日から1949年3月1日にかけて三井造船玉野造船所で解体される。
今のところ海上保安庁、海上自衛隊に樺の名を受け継いだ艦は存在しない。
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最終更新:2025/12/07(日) 09:00
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