橋姫 単語

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ハシヒメ

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橋姫とは、

  1. 日本女性。当記事で説明。
  2. 源氏物語五十のうち第45の巻名。

橋姫とは、日本の伝承に登場する女性女神鬼女である。その名のとおりに関係する。

概要

橋姫にまつわる古典や伝承には様々なものが伝えられており、大きくは「を守る女神」「嫉妬に狂った女性」「する人を待つ女性」という三つの側面を持つ。いずれもその名のとおりに関連した女性であるという点が共通しており、またそれぞれの間でも見られる。

橋の守り神としての「橋姫」

古来日本では辺やそこにかかるには心霊が宿るとされ、女性が守る場所とされてきた。特には「外界・向こう側との界」であり、避けては通れぬ場所、外から来る侵入者や病を防ぐ場所として非常に重要視されていた。

民俗学者・柳田男によると、橋姫は大昔に街道にかかるのたもとにられていた美しい女神であり、地方によってはその信仰がくに衰えてさまざまな昔話が生まれたという。

橋姫神社


宇治宇治

京都府宇治市の橋姫神社には、宇治の守りとして橋姫がられている。

宇治宇治が架けられた大化2年(646年)、の守護として、上流のられていた瀬織(せおりつひめ、人の罪や穢れを流し去る女神とされる)を宇治中ほどにある現在「三之間」と呼ばれる場所(右写真中央のり出した部分)にったのが始まりとされる。これにより瀬織は「橋姫の」とも呼ばれるようになった。

時代が下り、嫉妬する女性としての橋姫の物語(後述)がられるようになると、そのを受けて橋姫神社は「悪縁切り」のご利益があるとされるようになった。また、入り前には神社の前を通らぬようにしたり、夫婦の縁結びの際にはの下をで渡るようにする(を渡ると橋姫に妬まれるとされたため)などの習も生まれた。

このほか後に、「一緒にられている住吉明神の妻」「宇治神社が毎橋姫の元に通っている」などという話もみられるようになる(顕昭『袖中抄』)。

橋姫神社は三之間から宇治の西詰に移された後、明治3年に洪水で流失。明治39年に現在の場所(参考:Googleマップexit)に移転された。現在社務所では橋姫キャラクターバッジ300円)・マグネット(400円)のほか、縁切りバサミ(3000円)が販売されている。 

愛する人を待つ女性としての「橋姫」

『古今和歌集』巻一四に、詠み人知らずとして次のような歌がある。

さむしろに 衣かたしき 今宵もや われを待つらむ 宇治の橋姫
(筵の上に自分の衣だけを敷いてひとり寝ながら、今も私を待っているのだろうか宇治の橋姫は)

ここには何らかの事情で女性のもとを訪れられないのであろう詠み手の男性のことを、一人寂しく待つ女性が描写されている。なおこれが「宇治の橋姫」の名が見えるもっとも古い文献である。和歌の世界では源氏物語の「宇治」の一「橋姫」のイメージもあいまって、「いとしい人を待つ女性」としての橋姫の描写が多く用いられた。

『御伽子』の「橋姫物語」などに、先ほどの歌を交えて次のような話が伝えられている。

むかしむかし難波に住む中将がいた。中将には二人の妻がいて、本妻のほうを「宇治の橋姫」といった。橋姫はつわりに苦しんでいて、中将七色の若布(七尋とする場合も)をとってきてほしいと頼んだ。中将に探しに行ったが、そのまま三年経っても帰ってこなかった。

帰ってこない中将を探しに出た橋姫が辺をさまよっていると、一軒のがあり、中には老婆がひとりいた。その老婆が言うには、中将龍神に捕らえられて婿になっているという。さらに老婆は、自分は龍神からを預かっている者で、中将を連れてくるからここで待っていろ、但しの中だけは決して覗くなと言って部屋を出て行った。橋姫が言われたとおりに待っていると、隣の部屋から宴をするが聞こえてきた。そこに老婆が出てきて橋姫に部屋の中を見せると、妖怪たちの中に中将がいて、盃も取らずに憔悴した様子で「さむしろに~」の歌を何度も何度も詠んでいた。しばらくして妖怪たちが去ったあと、橋姫と中将は再会を喜び合うが、中将は長くは会っていられないと嘆き、またの再会を約束して去った。

喜んだ橋姫は、このことをもう一人の妻に話した。もう一人の妻は辺に出向いて老婆に会うが、見てはいけないと言われたの中をこっそり覗いてしまう。同じように中将に対面したもう一人の妻は、「さむしろに~」の歌を詠み続ける中将を見て、自分のことは想ってくれないのかと嫉妬しての外に飛び出してしまった。すると中将く間に消え失せ、あとにはがひとつ残るばかりであった。

中将は二度と戻ることはなく、橋姫はもう一人の妻に話したことを後悔したという。

似たような話が安期の歌人藤原の歌学書『義抄』や、『山城国土記』などにも見られるが、「の中を見てはいけない」というくだりがなかったり、もう一人の妻の存在がなかったりなど、細部に違いがある。

嫉妬の化身としての「橋姫」

橋姫にまつわる伝承の中でもっとも有名なのが、この嫉妬に狂った女としてのものである。

平家物語屋代本)』『盛衰記』の「巻」、『太平記』などにみられる類のもので、橋姫神社に悪縁切りのご利益があるとされるようになったのもこの話のと考えられる。なお『平家物語屋代本)』『盛衰記』はいずれも平家物語の異本とされるもので、通常読まれている平家物語にはこの話は収録されていない。

嵯峨天皇の時代のこと。とある卿のが深い嫉妬にとらわれていた。神社に七日間篭り「帰命頂礼明神、妬ましいあの女を取り殺したいので、願わくば生きながらにしてください」と祈った。これを聞いた明神は、に「になりたければ姿を変えて、宇治に21日間身を浸けよ」と告げた。

これを聞いて喜んだは都へ帰り、人のいない場所に篭ると、長いを5つに分けてを作り、顔に朱を、体には丹を塗り、頭に輪を乗せ、その輪の三つの足にをつけて火をし、更には両端に火をつけた松明を口にくわえるというおぞましい姿になって、が更けてから都の大路を南へと駆けていった。その姿は既にのごとき形相で、これを見た人はみなショックで死んでしまった。そしてはその姿でお告げ通りに21日宇治に身を浸し、生きながらとなったのである。これを「宇治の橋姫」といった。

橋姫は妬んでいた女性とその縁者、橋姫を嫌った男性類、更には老若男女誰彼かまわず、思うがままに憑り殺していった。男を殺すときは女に、女を殺すときは男に化けて憑り殺した。その恐怖に、中の者が貴族も庶民も夕刻を過ぎるとの門を閉め、かをに招き入れることも、外出もしなくなった。

巻」ではこの後、頼四天王ひとり綱が一条戻橋と出会い腕を切り落とす話(一条戻橋の記事を参照)に続くが、この後の展開を含めてこの話にはさまざまなバリエーションがある。

この話をもとに作られた謡曲『輪(かなわ)』では、橋姫は夫に捨てられ、元夫とその新しい妻を妬む女性となっている。悪夢に悩まされた元夫は稀代の陰陽師安倍晴明に相談し、橋姫は明が召還した三十番によって退散させられ、時期を待つと言い残して消える。なお謡曲『輪』には、橋姫が「輪の井戸」にたどり着き息絶えるというものもあり、京都市区にそれとされる井戸が今もある。

室町~江戸期に成立した絵入り物語『御伽子』の「輪」では、橋姫は明によって退けられたのちに見なく人を襲ったがために、頼四天王綱・坂田時両名に打ち倒される。そして最期には「もう人は襲わないから弔ってほしい、これからは都を守るとなる」と言い残して宇治に身を投げ、あとに安倍晴明を設けて橋姫神社としてった、という結末になっている。

丑の刻参りとの関連

以上に挙げた一連の話のうち、特に謡曲『輪』における橋姫の姿は、「丑の刻参り」の元となったとされる。

神社丑の刻参りの発祥地といわれることが多いが、もともと神社には、山にが降りたの年のの日のの刻に参れば願いがいやすくなるという信仰があったとされ、謡曲『輪』が広く演じられ浸透した際に言い伝えが混じり、人形祈祷の要素も加わって現在の「丑の刻参り」のイメージが形作られたという。

創作作品における橋姫

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