橘家圓喬(たちばなやえんきょう)とは、明治時代に活躍した伝説の噺家である。
四代目橘家圓喬。本名は柴田清五郎(旧姓桑原)。慶応元年に生まれ、大正元年に亡くなった。7、8歳の頃に当時の三遊派の総帥である三遊亭圓朝に入門し、三遊亭朝太を名乗る。この名前は、古今亭志ん生を始めとした、古今亭一門の将来有望な噺家が名乗ることとなる。
ほぼ同時期に入門した噺家に三遊亭橘六、後の三遊亭圓右がいた。しかし、当時圓朝門下は弟子が多かったため、圓右は圓朝の弟子の二代目三遊亭圓橘に入門することとなった。
実力はというと、その当時名人と呼ばれた噺家達の中でも別格に上手く、師である三遊亭圓朝よりも上手いと評されるほどであった。尚、師匠三遊亭圓朝より噺が上手いと評されたのは他に、圓喬の兄弟子であり先代である三代目圓喬を名乗っていた四代目三遊亭圓生だけである。昭和の名人である八代目桂文楽、五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭圓生が口を揃えて名人と言ったのもこの圓喬だけである。
圓喬に関する有名な伝説として、真夏に冬の演目である『鰍沢』を演じたところ、扇で仰ぐ客がピッタリとやみ、むしろ着ている着物を着なおしたという話が残っており、話術のみでその空間の気温を下げるという離れ業を見せている。
他にも『柳の馬場』、『後開榛名の梅が香』、『怪談牡丹灯籠』、『名人くらべ錦の舞衣』などの噺を演じて桁違いの上手さを醸し出していたようだが、現在では1~3分程度のLPレコードからでしか圓喬の噺を聴けないため、真の実力は分からない。
人間性に関しては良い話は少なく、皮肉屋、知ったかぶり等言われ放題であり、当時の鈴本演芸場の主人に「圓喬は嫌な奴だ」と新聞に投書されるほどであった。歴代から現在に至るまで鈴本の席亭は強欲で金に汚く、偉そうな奴ばかりなため、「お前がいうか」と周りから突っ込まれていた。
圓喬は噺が上手すぎてその余韻が残り、次に誰が上がっても客席からは「圓喬は上手い」という話で持ち切りになり、誰もろくに聞きやしなかった。そのため、誰も圓喬の次に上がりたがらず押し付け合いをするほどであった。
更に圓喬は気に障る奴がいたらワザとそいつの前に上がり、自分の実力にモノを言わせて、じっくり噺を演じて、次の奴が上がっても誰も聞いてくれない状況を作り、それを楽屋で見て薄笑いを浮かべていた。嫌な奴だ。
尚、圓喬は神田の左衛門町に住んでいたことがあり、ある時楽屋に入ると、壁に半紙で「住むとこが 左衛門だけに 法螺を吹き」と貼ってあった。本当に嫌われてたんだなwwwwww
だが、芸に関しては真剣そのものであり、当時活躍していた三遊亭圓右、四代目橘家圓蔵などが稽古嫌いで全然していなかったことに対して、圓喬は自分の稽古だけでなく、他の若い噺家達に熱心に稽古したり、高座で踊りを演じている当時の六代目三遊亭圓生に太鼓のツケを入れてあげるなど、後輩思いな面もある。それが高じて次の寄席に遅れるということもしばしばあった。いい人じゃねぇかよ。
その例に、圓喬が忙しいからと本来の出番より早く上がり、トリの圓右や前座を困らせていたため、次の日から前座が圓喬が上がる前に噺に関する質問をして出番を遅くするように仕向けた。そうしたら馬鹿な圓喬は他の噺家に先に上がらせ、忙しいことを忘れて質問に一つ一つ丁寧に答えるなど、芸のこととなると時間も気にしない人であった。単純だなこの人。
他にも、当時貧乏生活をしていた二つ目の噺家が三銭の木彫りの達磨を縁日で買い、それを圓喬に見せたところ、懐が苦しいのを察して二円で買い取るなど親切な所もあった。単に物の価値が分からなかっただけである。
橘家圓喬の名跡は三遊亭圓朝と同じく、その恐れ多さから襲名しようとする人は現れていない。
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最終更新:2024/04/18(木) 22:00
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