檜(松型駆逐艦) 単語

ヒノキ

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檜(松型駆逐艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した松型駆逐艦16番艦である。1944年9月30日工。対潜攻撃により潜水艦レッドフィッシュを大破させる戦果を挙げた。1945年1月7日リンガエン湾近で敵駆逐艦群と交戦して撃沈される。

概要

艦名は、マツヒノキ科ヒノキ属の常針葉ヒノキに由来。「檜」もしくは「桧」と表記される。葉っぱの形が炎状、あるいは非常に燃えやすい事から、「火の木」という和名を持つ。実は日本固有種であり、福島県九州までの太平洋側に分布。に弱い日本海側ではど見られないという。また台湾にはタイワンヒノキと呼ばれる変種が分布している。日本書紀によるとスサノオが抜いた胸毛から生えてきたとされ、スサノオく「檜を宮の材木に使用すると良い」との事で、実際寺社建立において最高級品の建築材となっている。加工がしやすく、日本人好みの芳香を長期間放ち、耐性や耐朽性にも優れるなど優秀な木材ではあるが、それ故に値段が非常に高い。

ガダルカナル島争奪戦やそれに伴うソロモン諸島の戦いにより、多くの艦隊駆逐艦を失った帝國海軍安価で大量生産が可駆逐艦の必要性を痛感し、これまでの「高性な艦を長時間かけて建造する」方針を転換。1943年2月頃、軍部は時間が掛かる夕雲型秋月型の建造を取りやめ、代わりに戦訓を取り入れ量産性に優れた中駆逐艦の建造を提案。ここに松型駆逐艦の建造計画がスタートした。とにかく工数を減らして建造期間を短縮する事を念頭に、まず曲線状のシアーを直線状に改め、鋼材を特殊鋼から入手が容易な高力鋼及び普通鋼へ変更、新技術である電気溶接を導入し、駆逐艦用ではなく鴻雷艇の機関を流用など簡略化を図った。

一方で戦訓も取り入れられた。機関シフト配置により航行不能になりにくくし、を12.7cmに換装しつつ機の増備で対力を強化、輸送任務を見越して小発2隻を積載、九三式探信儀と九三式水中聴音器を工時から装備して対潜力の強化も行われている。これにより戦況に即した力を獲得、速力の低さが弱点なのを除けば戦時急造とは思えない高性な艦だった。

排水量1262トン、全長100m、全幅9.35m、最大速力27.8ノット、乗組員211名、出力1万9000力。武装は40口径12.7cm連装高1基、同単装高1基、61cm四連装魚雷発射管1基、25mm三連装機4基、同単装機8基、九四式爆雷投射機2基。電探装備として22号水上電探と13号電探を持つ。

艦歴

1942年9月に策定された改マル五計画において、丁一等駆逐艦第5502号艦の仮称で建造が決定。

1944年3月4日横須賀海軍で起工、6月20日駆逐艦檜と命名されて7月4日に進し、9月15日装員長として山口大尉が着任。彼は去る8月23日沈没した駆逐艦朝風の艦長であった。そして9月30日工。艦長には山口大尉が着任、横須賀鎮守府へ編入されるとともに訓練部隊の第11戦隊へ部署する。

から檜を受領したのち、1番発射試験と測信儀及び電波探信儀、転輪羅針盤の諸試験を実施するが、第3号ディーゼル発電機ポンプの歯車が破損している事が判明して修理。その後、1944年10月8日を出港予定日とするも、荒に見舞われたため予定日を一日延期。翌9日午前11時に第11戦隊と合流するべく横須賀を出港、予定の遅延から東京湾での仮泊を取りやめて瀬戸内海方面へ直行し、10月11日午前8時25分に岩国へ到着して第11戦隊との合流を果たした。続いて姉妹艦樫や樅とともに徳山へ回航。燃料補給を受ける。10月14日、樅と八泊地を出発。砲術学校所属の軽巡木曾が行うレーダー射撃訓練に協力した。

10月17日午前6時50分、レイテ湾スルアン海軍り所が「レイテ湾に敵戦艦1隻、駆逐艦6隻が接近中」という緊急電を放ち、間もなくしてスルアン艦砲射撃を受け、見り所からの連絡は途絶えた。遂にアメリカ軍フィリピン来攻を迎えたのである。これを受けて連合艦隊は捷一号作戦を発、内地の小沢機動部隊に全力出撃を命じた。第11戦隊旗艦の軽巡多摩はその小沢艦隊に所属していたため出撃する事になり、翌18日午前10時多摩より将旗を継承。高間少将が座乗する戦隊の旗艦となる。檜は工から1ヶも経たないうちに訓練を監督する立場になった。

10月24日13時、檜と樫はを出港して航行諸訓練を行いながら、16時9分に松山へと寄港する。10月26日午前8時5分に一旦将旗を樫に継承するが同日13時42分に檜へ戻されている。10月29日にも樫と出動諸訓練を実施。ちなみに多摩はエンガノ戦で沈没して未帰還となった。

11月1日から5日まで柱島泊地で停泊。11月15日、桑、樫、、樅とともに第52駆逐隊を編制し、第31戦隊揮下に入る。そして第30、第52駆逐隊海防艦干珠に団護衛をしながらマニラへの進出命が下った。これに伴って戦隊旗艦の座をに譲渡。11月23日14時10分、樅艦長の揮を受けながら出港前日までに集結地の門へ回航するよう示を受けた。

最初の船団護衛

11月25日20時シンガポールに向かうヒ83団を護衛して門を出港。容はマニラ行きの増援部隊である陸軍第10師団を乗せた輸送5隻、シンガポール行きの輸送3隻の計8隻で、これを商改造空母海鷹駆逐艦檜、夕月卯月、樅、榧、第25号、第35号、第63号、第64号第207号海防艦が護衛する。

レイテ沖海戦敗北で南シナの制権が危うくなっていたものの、海鷹から飛び立った対潜哨戒機らせてくれたおかげで、敵潜の襲撃を受ける事はく、11月30日午前6時台湾西部高雄へ入港。ここで団の再編制が行われ、12月1日シンガポール行き団とマニラ行き団に分離、檜ら第52駆逐隊は護衛任務を終了して内地帰投する事となり、12月3日高雄を出港。へと帰投した。

檜は第52駆逐隊の旗艦に定されての岩上次一大佐が乗艦。

雲龍の護衛任務

次に控える任務は、フィリピン特攻兵器桜花」と補給用魚雷40本、爆弾弾薬トラック等を緊急輸送する空母雲龍の護衛任務であった。12月13日スールーアメリカ軍の大規模輸送団が発見され、それらはルソンに向かっているものと判断されたが、15日にミンドロへ上陸している事が判明したため、出港予定日を一日遅らせている。雲龍への積載作業は12月16日了。飛行甲にはトラックや大発などの陸軍装備品がギッシリと積み込まれた。

12月17日午前8時30分に雲龍、檜、時雨、樅の4隻はを出港。敵潜が待ちせしやすい豊後を避け、夕方頃に下関峡の入り口に仮泊して一晩を明かした。翌18日午前7時関門海峡通過峡を通過する時に巨大な空母通過するのを見た下関と門の人が手を振って見送ってくれたという。敵潜の襲撃を避けるため一旦朝鮮まで移動した後、東シナを南西に進んで上海す。同日、敵潜が放っていると思われる英語の通信を近距離で傍受し、加えて敵のレーダー波を2回探知したので予定の航路を変更。また済州島北東でに見舞われた事で予定に遅延が発生する(ちなみにこの荒はルソン東方アメリカ艦隊に打撃を与えたコブラ台風)。

12月19日から見りを厳重にして敵潜に備える雲龍午前9時には速力を18ノットに上げて危険域の突破を図る。こうして正午頃には舟山列東方まで到達した。14時頃、雲龍南へ針路を変更。波のうねりは非常に高く、視確認が困難な事から雲龍の要艦長は各駆逐艦ソナーによる索敵を厳重にするよう命、彼は駆逐艦での勤務経験があるためソナーの重要性を理解していたのである。15時に艦隊は形を変更、時雨雲龍の左舷前方に、樅は左舷後方に、檜は右舷前方に占位した。

16時24分、中国沿を遊していた潜水艦レッドフィッシュハワイから「重要物資を積んだ空母が南下中」との情報提供を受ける。そこへ日本哨戒機が飛来し、爆雷を投下してきた事で艦長のマクレガー中佐情報が正しいと確信。大物との遭遇に胸を躍らせながら狩りに出向いた。16時27分、線の向こう側から巨大な艦――雲龍が向かってくるのを潜望で確認、マクレガー艦長が歓喜にも似た魚雷発射準備を命し、レッドフィッシュは最大戦速で雷撃位置をす。それから2分後、雲龍護衛艦艇が一斉にジグザグ運動を取り始めるのだが、ちょうど雲龍の右舷レッドフィッシュに向ける形となり、図らずも絶好の雷撃位置へ就く事が出来た。

16時35分、レッドフィッシュ距離1350mから4本の魚雷を発射。見り員が雷跡を発見して雲龍が最大戦速で右に転しようとするが最後の4本がかわし切れず右舷中央部へ直撃。第2搭乗員室付近で火災が発生したため、隔を降ろすと同時に消火作業を行い、飛行甲トラック中投棄して復元を試みる。また敵の潜望掛けて右舷側の機や高が俯一杯にして撃を加えた。雲龍を仕留めるにはもう一斉射必要と考えたマクレガー艦長であったが、その時、艦尾魚雷発射管の射線上を檜が通過しようとしていた。思わず絶好の雷撃チャンスを得た彼は雲龍を一旦放置して16時42分に艦後方の檜へ4本の魚雷を発射。ところが檜の巧みな回避運動で全て避けられ、レッドフィッシュは魅力的な獲物を前にして艦首・艦尾ともに魚雷が装填されていない事態に陥った。艦長は先の誘惑に負けた己の判断ミス呪いながらも魚雷装填作業を命、自身は潜望雲龍の様子をう。16時50分、焦る気持ちを押さえながら、距離1000mにまで接近したレッドフィッシュは、何とか装填出来た魚雷1本を発射。その魚雷雲龍の右舷艦前方へ命中し、下部格納庫桜花弾薬誘爆してく間に大爆発が発生。被雷から7分後に誘爆を繰り返しながら沈没してしまった。

雲龍生存者を時雨や樅が救助する中、復讐に燃える檜は下手人の捜索を実施。マクレガー艦長は爆発を繰り返す雲龍の壮絶な最期にを奪われ、沈没の様子を潜望で撮していた。しかしこれはあまりにも闊で気な行動だった。敵潜の潜望を発見した檜はすぐさま突撃を開始。雲龍中で判断が遅れた艦長は慌てて急速潜航を命、沈降するレッドフィッシュの上から檜は最初に12発を、次に9発の爆雷を投下した。深45mまで潜ったところで爆雷が炸裂。このうち7発は危険なほど右舷艦首の至近距離で炸裂し、あまりの衝撃の大きさにレッドフィッシュの艦体はおもちゃのように左へ吹っ飛ばされ、艦内は大混乱に陥った。衝撃波油圧系統と電気系統が故障、音響装置が破壊され、前部魚雷室で生じた裂から浸が発生。とある乗組員は鋼製のドアに頭を叩きつけられてが切断寸前になる重傷を負っている。

17時12分、レッドフィッシュは60mの海底に到達。ただひたすら息を殺して狩人が去ってくれる事を祈った。やがて檜と樅が台湾に向けて出発、対潜掃討に時雨が残ったものの、捕捉わず遂に取り逃がしてしまう。命からがら助かったレッドフィッシュだったがの続行など望むべくも真珠湾に後退。以降、レッドフィッシュ終戦まで出撃する事はかった。

時化で救助出来た雲龍生存者は約1200名中僅か146名に留まる。12月20日機関故障を訴えた時雨佐世保反転。檜と樅は航を続けて高雄に入港した。

フィリピン方面での活動

12月22日高雄を出港した2隻は敵のしい襲下にあるマニラへと向かい、12月24日に到着。それからサンジャック、カムラン湾で輸送任務を行い、12月28日サンジャックで停泊中の航空戦艦伊勢日向より燃料補給を受ける。12月31日、特設給糧生田丸を護衛してサンジャックを出港。

1945年1月4日19時30分にマニラへ到着して生田丸の護衛任務を了。しかしマニラは最早安全な場所ではなく、ルソン西部にはリンガエン湾上陸を企図する敵艦隊と輸送団が北上中、上陸の前準備としてアメリカ軍航空隊による爆撃も始まっていた。翌5日午前11時20分、マニラからバギオへ部を移した南西方面艦隊より退避命が出され、檜と樅は第933海軍航空隊の整備員等を乗せた生田丸を護衛して脱出。カムラン湾をした。しかし中の16時15分、南西方面艦隊は第52駆逐隊マニラに出現した敵輸送団の攻撃を命じ、生田丸と別れて2隻は反転・攻撃に向かった。

檜と樅は掃を担当する第77.6部隊の背後を突いて奇襲。敵を驚かせたが、既に米軍機に発見されていたため間もなくオーストラリア海軍スループのワレーゴ、ガスコーニュ、応援駆逐艦ベニオンが出現。敵艦を認めるや否や檜と樅はマニラ方面への退却を開始、距離1万7100mから撃を行う。敵は煙幕を展開しつつ応戦するが、スループの射程距離では約1里分届かない事から、1万5900mに距離を詰めてから撃を再開。最終的には1万3600mまで距離が縮まったが互いに決定打を与えられなかった。その後、戦闘域に多数の特攻機が援護に現れたのでベニオンらは戦闘を打ち切って退却。しかし、近隣に展開中の第77任務部隊はベニオンからの報告を受け、護衛空母より戦闘機19機と雷撃機16機を発進させて檜と樅を攻撃。

17時17分に檜は1発の直撃弾を受けて中破航行不能に陥り、21名の戦死者と45名の負傷者を出す。樅が檜の援護に回る19時10分に航空魚雷を喰らって沈没。檜のの前で全乗組員210名が戦死してしまった。敵中で孤立するという絶体絶命の窮地に立たされる檜だったが、幸運にも日を迎えた事で航空攻撃は停止。その間に、乗組員は決死の応急修理を行い、23時には何とか自力航行が可な状態にまで回復、12ノットの速力でマニラへと後退する。途中で潜の雷撃や襲を受けたものの回避に成功し、翌6日の明けにマニラまで辿り着いた。

だがマニラの戦況は脱出前より更に悪化しており襲に加えて艦砲射撃まで行われていた。このため満身創痍のまま再度脱出しなければならなかった。

最期

1945年1月7日15時30分、サンジャックへの退避を試みるためマニラを出港。

ところが同日マニラから南西へ50里進んだところで、運悪くサン・ファビエン上陸に派遣された敵輸送団と出くわし、21時45分、駆逐艦チャールズオーズバーンに3万7000m先からレーダー探知される。当初反応が非常に不規則だったためレーダーの誤認と片付けられたが、1時間が経過しても反応が続いていたので、確認するべく速力を25ノットに上げて接近。22時46分、照明弾を上げて見ると9100m先に檜の艦が浮かび上がった。会敵するや否や檜は即座に魚雷を発射して東方への退避を開始。だが敵艦は潜水艦を警して回避運動を取り続けていたので外れてしまう。チャールズブレインラッセルショウの4隻が一斉に檜へ襲い掛かり、チャールズは彼距離1100mまで距離を詰めて速射を始める。

圧倒的劣勢下でも檜の抵抗は凄まじく、何度も敵駆逐艦群に至近弾を与えた。その気迫る撃はチャールズの艦長に「自艦に命中弾が出なかったのは幸運だった」と思わせたほど。しかし多勢に勢、集中火を浴びた檜は僅か20分で艦尾より沈没。決着まで1時間も掛からなかった。生存し。アメリカ側の資料によると檜から魚雷発射時の閃光が見えたらしく、仮に事実であれば水上艦最後の魚雷発射ではないかとされる。

1945年4月10日除籍。

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