武則天 単語

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武則天とは七世紀の唐代に活躍した皇帝である。中国の長い歴史の中で一の女性皇帝。低い身分から権謀術数を駆使して氏唐を簒奪するまでに至り、また容赦ない大量粛正を行ったせいで前漢の呂后、清の西太后と共に中国三大悪女の一人に数えられる。一方で唐のを継承した優れた政治家として評価もされており、男尊女卑儒教もあって時代によって毀誉の分かれる人物である。

日本では彼女皇后としての側面を重視した則天武后という名称が流である。最近の中国では皇帝としての面を強調した武則天の呼称がに使われている。

生涯

生まれと皇后即位

武則天は諱をという。武照の父親である武士彠(ブシカク)は元々は地方農であり、最下層ではないとはいえ貴族跋扈する南北朝時代においてはそれほど高い身分とはいえなかった。しかしその後、隋末期の戦乱では隋を見切り淵(唐の高祖)に組したことによって出世を遂げる。その武士彠と二人の妻(氏)の間に生まれたのが武照であった。淵はその後、唐を建て皇帝の位に就く。淵には正妻である竇皇后との間に4人の息子があり、彼の次男こそが中国史に残る英傑にして武照の最初の男となる李世民(唐の太宗である。世民は皇太子であるの建世を玄武門で殺し(玄武門の変)、の高祖(淵)から皇帝位を受けついだ。武照は14歳の時に(異説あり)この太宗いだのであった。武照と太宗との間に子はなかったが、彼女の文才や事務処理太宗され、秘書として重宝された。

太宗の死後、武照は寺に入れられるが数年後、太宗の後を継いだ高宗治)に呼び戻された。一説には太宗の生前から二人は関係を持っていたとされる。武照が再び後宮に呼び出された背景には、この頃、皇后の王氏と蕭氏が権争いを繰り広げていたことがある。王氏は皇后であったものの子供がいなかったため武照と組んで、皇帝の寵を受け子も授かっていた蕭氏を蹴落とそうと画策した。この企みは上手くいき、高宗の興味は武照に向かったのだが、次は武照が王氏のライバルになってしまった。その後、武照は自分の女児皇帝)を殺し、その罪を王皇后になすりつけ、更に王皇后呪術を行っていると告発して王氏を皇后の座から引きずり落としたとされる。

裏の後宮で血なまぐさい争いが繰り広げられている一方で、表の朝廷でもしい政争が行われていた。門閥貴族組と新の権闘争である。当時の中国では五胡十六国時代以来、門閥貴族が大きく政治を動かすほどの勢を持っていた。隋は科挙を行うなど、新しい人材の登用にも努めたが科挙で用いられるのは下級役人までにすぎず、唐初期には結局格が科挙の合否を左右してしまい、貴族を押さえることはできずにいた。高宗政権下の貴族で最もを持っていたのは長孫である。長孫忌は太宗幼なじみであり、唐設立や玄武門の変で活躍し、また太宗皇后(長孫皇后)のでもあった。武照の皇后冊立にはこの長孫忌と彼を補佐する褚遂良。そして長孫瑗(カンエン)と(ライサイ)がとなり立ちはだかった。

一方で武照の新には許敬宗と義府などがいた。ある日、高宗は武照の皇后擁立の前段階として武照の位を上げようとしたのだが、その時の高位ランクである「妃」「淑妃」は既に埋まっていたので高宗は新しく「宸妃」という位を新設しようとした。しかしこの提案は瑗との強い反対によって却下されてしまった。その後、高宗が満を持して武照を皇后にしようとしたとき長孫は大反対を唱えた。高宗は皇帝とはいえでもまだ歳も若くまた優柔不断であったため、先代から唐に仕える老臣に逆らう事はできなかった。これはダメかと思われた時、唐建に功のあった将軍が「これは陛下のことです。他人の話を聞いて決める筋合いのものではありません」といい、これに感応した高宗は武照を皇后にすることを決意したという。これは同時に新勝利でもあった。

独裁と皇帝即位(武周革命)

こうして皇后となった彼女は、新と共に反対を次々と朝廷から追い出していった。褚遂良を地方に左遷し、王皇后と蕭淑妃を処刑。彼女達の一族は広東省の地に流されたあげく姓を蟒(ボウ、うわばみの意)とに変えられてしまった。瑗とも追放され、最後には玉の長孫忌も地方に飛ばされた後に謀反の罪を着せられて殺された。

高宗は疾という頭痛と目眩の混じる病気に悩まされており、代わりに武后が政治へと関与するようになった。元々武后は太宗秘書として活動していた時期もあり、政治感覚は優れていたとされる。皇后朝廷の習わしによって会議に顔を出すことは出来なかったが、玉座の後ろに簾をかけて、その裏側から高宗に意見を伝えていたとされる。これを垂簾の政、または政治と呼んだ。反対を追放した武后はその後、本拠地を長安から陽に移した。

660年、高宗、武后政権はにも因縁深い朝鮮半島戦争に介入し、済、日本連合軍を新羅と共に打ち破った。有名な江の戦いである。翌年からは煬帝太宗定できなかった高句麗にも侵攻し、668年にはついに平壌を落としこれを滅亡させた。その間、武后は政治を伸ばし続け、664年には高宗の皇后位をはねのけるまでになり、ついには独裁政治を開始した。武后は自分の権を脅かす者は底的に排除し、自分の姪(夫人)や自分の息子)までも排除する一方で、科挙革を行うなど優れた人材を次々と登用し内の安定に努めた。武后が引き立てた人物の中には、姚崇(ようすう)や璟(そうけい)など次世代の玄宗の治世(開元の治)で活躍した者も多い。

683年に高宗が崩御したため、三男の顕が中宗として即位するも驕った振る舞いが武后に咎められ、わずか3ヶ位になってしまう(この中宗は武后の死後に重祚するも妻である后に殺されてしまうという可哀想な皇帝であった)。中宗の跡は旦がとして即位したが最全な武后の傀儡であった。結局のところ自分が勢を保つためには氏ではなく実家である武のものを重用するしかないと考えた武后は、自分の義理の甥である武三思武承嗣召還した。しかし、彼らの(武后の義)は幼少期に武后らを虐待し、また武后が出世してからも感謝しなかったため武后に追放されていたので、二人との仲もそれほどよいわけではなかった。孤立と疑心を深める武后は685年に4つのを設置し、武后への反抗を密告することを奨励した告密の門と呼ばれる政策を執った。これは密告が誤りであっても許されたため、誣告と粛正が増し恐怖政治が行われた。武后は索元礼をはじめとして多くの酷吏を用いて、数々のおぞましい拷問を行わせた。また薛懐義という僧侶との淫蕩にふけるなどセックススキャンダルも噂された。

そんな中、武后はいよいよ皇帝即位へののりを歩いていく。仏教での理論武装を行う一方で皇帝一族の殺を続け、690年、武后は宗から皇帝位を譲され周王を起こした。これが武周革命である。ここに唐王朝は一旦滅亡することになる。武周は705年まで続き、病床にせがちであった武則天に対して宰相の柬之チョウカンシ)が退位を迫り政権は再び氏唐に戻った(神龍革命)。権を奪われたものの武則天は殺されることもなく、死後は遺言通り夫である高宗の横に葬られた。

武則天の死後は中宗が重祚したが、彼の皇后后が武則天に習ったのかように権奪取に動き、中宗は后によって殺されてしまう。后は、宗の子である基(玄宗)によって殺されるが、その後も権闘争は続いた。武則天と后による政治混乱彼女達の名前を取っての禍と呼ぶ。

評価

最初にも述べた通り、武則天の治世への評価は二極端に分かれる。密告による粛正と拷問は確かに非難されてしかるべきかもしれない。しかし彼女が権を握っている間には農民反乱は一度も起きておらず、民衆の生活は安定していたとされる。また彼女の人材登用は後の歴史も認めざるをえないほどに優れていたことは確かである。そもそも武則天くらいの粛正や圧政なら他の皇帝でもやっていたりする。彼女の跡に続く玄宗も、後半は妃との遊蕩に溺れを傾けたが、その治世は開元の治と呼ばれ優れた皇帝の一人としてあげられている。

結局のところ、武后の評価は彼女女性であるという一点においてかなりめられているのは確実だろう。中国の古いに『雌歌えば滅ぶ』というものがある。雌(つまり女性)が雄(男)に先んじて時を告げるのは不吉な兆しであるという意味である。農業民族中国では昔から男尊女卑潮が強く女性にして権を握った者に対しては厳しいまなざしが向けられる。その中で武后は悪女として歴史に刻まれていたのだが、昨今では再評価の流れも生まれ始めている。

尚、武則天の即位に至るバックボーンとして隋~唐は一見すると民族の王と思われがちだが、実際は女性の地位が較的高い鮮卑系の遊牧民の血が貴族層に濃かったことも考慮する必要がある。

エピソード

  • 皇后になった武照は王氏と蕭氏を座敷に閉じ込めて、二人の手足を切り裂いてに漬け込んでしまった。蕭氏は「次に私はに生まれ変わり、武照はに生まれ変わって、の喉を引き裂いてやる」と叫んだとされる。これを知った武照は、宮廷でを飼う事を禁じたという。
    この「ライバルの女の手足を切る」というエピソード前漢の呂后が戚夫人に対して行ったとされる「人」の話に類似している。そのため、悪女という共通のイメージから呂后の話を参考に創作されてしまったエピソードという可性もある(「正史」たる二十四史に数えられる「旧唐書」や「新唐書」にまで載っているエピソードではあるが、当時の歴史書には事実と異なる俗説が混入していることがある)。もちろん、呂后の話をヒントにして武照が実行したという可性もある。
  • 武后の高慢ぶりを示すエピソードとして「焼牡丹」というものがある。あるの日に宮殿の庭は一面の雪景色で、だけが鮮やかなを咲かせていた。それを見た武后は「全てのを見習わなければいけない」といた。たちは武后を恐れて翌までにを咲かせたが、牡丹だけは「自分にあった季節に咲くのがの本分」と抵抗した。武后は大いに怒り、部下に牡丹を焼き払って陽の寂しい山にでもに捨ててこいと命した。牡丹陽の山に移されたがになると見事に芽吹き、見事なの大輪を咲かせた。
  • 武則天は言霊というものを強く信仰し、権を握った際に唐の様々な制度の名前を自分好みに変えていった。元号を変えるのが好きで、ことあるごとに元号を変え、彼女の治世下では10度以上の元号変更が行われた。また則文字と呼ばれる自分だけの文字も作った。現在では則文字はほとんど伝わっていないが、日本人にも一わかる則文字として水戸の「」の字がある。
  • 皇帝が亡くなった後、後宮にいた女性たちは皇帝の菩提を弔うために出させられるという掟があり、武照も太宗死後に理矢理出させられたが、高宗の後宮内の争いで呼び戻された。が、いったん丸坊主になってからが生えそろうまでには時間が掛かりすぎるので異説も出されている。しかし、中国内のテレビドラマなどでは剃髪して、坊主頭にされるのが定番になっている。
  • 日本江戸時代に幕府と朝廷の間の叙任権闘争、いわゆる衣事件が発生している。天子が住職に衣を送るこの慣例は武則天が嚆矢である。

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関連項目


参考文献

  • 『則天武后』氣賀澤保規
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